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徳川家康さま☘️をたどる#48☘️天正大地震から秀吉さまへの臣従

初筆 2023年 8月 18日 / 加筆修正 未
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「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ☺️✋
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無料で聞ける:徳川家康さま☘️をたどる#48
⬇️
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 羽柴秀吉さまが朝廷より関白職をいただいたころ、家康さまは信濃・上田の真田昌幸さまが離反、上杉景勝さまに保護を求め、第一次上田合戦発生・ボロ負け💦

  • 真田昌幸さまは羽柴秀吉さまにも保護を求め、信濃国衆は離反が相次ぐ。その中には小笠原貞慶さまもいた。

  • 徳川家宿老の石川数正さまが徳川家を出奔、秀吉さまのもとに去る❗️💦数正さまは羽柴秀吉さま融和路線を徳川家で主張していて、秀吉さまに対して主戦派がほとんどの徳川家中で孤立したため。

  • 石川数正さまが徳川家内で、離反した小笠原貞慶さまを監督する立場にあったのも出奔の理由。

  • 羽柴家との取次役、石川数正さまの出奔をもって、秀吉さまは徳川家康成敗として、合戦準備を始めた❗️💦


⬇️前回はこちら❗️

3 天正の大地震

合戦準備を完了させ、あとは出陣するのみとなった
秀吉さま、集めた軍勢は小牧長久手の戦の1.5倍の
15万人❗️💦
1586年・天正14何明けて早々の出陣を考えていました。

そんな直前、1585年・天正13年11月29日
天正大地震が起こります💦
震源地は飛騨・岐阜県北部あたりとされていて
マグニチュード7.8、震度7と言われています。
日本史上、類を見ない巨大地震、今の
京都府・滋賀県・岐阜県・三重県・福井県・
富山県・愛知県が大きな震災に見舞われました。

被害状況は、家康さま成敗合戦が
尾張から三河あたりでの戦闘になるとして
後方支援基地として15万人分の兵糧を
溜め込んでいた美濃大垣城は全壊焼失💦

織田信雄さま居城の伊勢長島城倒壊、
支城の蟹江城倒壊、支城亀山城が被害を受け、
近隣の城下町桑名宿は液状化現象で壊滅、
織田信雄さまは居城を尾張清洲城に住まい変更。
また清州の五条川では液状化現象跡が
史跡発掘されています。
尾張清洲城も被害を受けていて、
こののちの尾張清洲城大改修工事は
天正大地震を受けてのことと考えられています。

また、家康さまストーリーから横道されますが
震源地間近の帰雲城(かえりくもじょう)を拠点とする
飛騨国衆・内ヶ島氏理(うちがしまうじさと)さまは
この天正大地震で氏理さまをはじめとして
帰雲城・城下町もろとも崩壊し、
武士・農民・町衆すべてを含めて全滅。
生き残ったのは外出していた4人だけとのこと💦💦

戻します。

滋賀県、琵琶湖東側(美濃寄り)では
現在の長浜市が液状化現象により水没
下坂浜千軒遺跡として発掘されています。
また、山内一豊さま居城の近江長浜城が全壊、
ご親族がお亡くなりになりました。

このとき羽柴秀吉さまは
琵琶湖西側・近江坂本城まで出陣しましたが
自身の恐ろしさに大坂へ逃げ帰った、という
記録があるそうです💦

4 地震による家康さま成敗中止・ラッキー🤣

家康さまには人生の中で幾度となくピンチが訪れます🤣
しかし、幾度となくラッキーも訪れます🤣🤣
人はラッキーを忘れがちなだけ😉🤚

例えば三方ヶ原の戦で、武田信玄さまが
病気を持ってない状態で、じゅうぶんな時間とお金が
あれば、家康さまは三方ヶ原後、スグに
武田信玄さまに撃たれるか従属を迫られるか
していたでしょう。武田信玄さまの死期か
近かったから家康さまは助かりました。

小牧長久手の戦でも織田信雄さまが和議を
結んでしまったため、大きなダメージなく停戦が
できました。東海地方の田畑は大水で荒れ放題で
家康さまは史実以上の小牧長久手の戦を
継続できる状態ではありませんでした。

地震の話をするのにラッキーなどという言葉は
慎まなくてはなりませんが、
家康さまの立場からすると
天正大地震は助かった💦💦以外の
何物でもありませんでした。

震災をまとめると以下のように
戦している場合ではなくなったのです。

  • 戦地となる場所では、城の倒壊や河川周辺での液状化現象により、戦そのものが成立しないような土地になっていた

  • 大地震で被害が激しかったエリアはいずれも秀吉さまサイドの大名や国衆の拠点であり、前線基地・後方支援基地となる予定の城々はほぼ壊滅していた

  • 庶民ももちろん震災を被っていて家屋・お店・田畑・食料をなくした庶民が町々・村々をさまよう状態。秀吉さま配下の武将たちは自領の復興第一優先で戦などしてる場合ではない

  • 家康さまの所領は地震被災エリアから外れていて、岡崎が若干、被災したのみだった

家康さまは
石川数正さま出奔・信濃国衆離反・大水による田畑荒廃
を立て直す必要があり、秀吉さまに今攻め込まれては
太刀打ちてきない状態。
それを地震が回避してくれたのでした💦

5 秀吉さま、対家康さま融和路線へ変更

地震のために、秀吉さまも戦に人民・兵糧などの
リソースを咲くわけにもいかず、
🆚家康さまは融和路線を取り、
なんとか家康さまに従属してもらえないか
画策を始めます。

その使者に織田信雄さまが三河岡崎城に
やってきて家康さまと対面、家康さまは
和睦を受け入れ、秀吉さまは家康さまを赦免🤚
家康さまは秀吉さまと親戚になることを求めました。
そして秀吉さまは妹の旭姫を家康さまに輿入れさせ
正妻としました。1586年・天正14年5月でした。

そして、秀吉さま・近衛前久さま経由で家康さまは
従三位参議・左中将に昇進、
1586年・天正15年後半の秀吉さま・家康さま対面後、
正三位・権中納言の官位官職を賜り、
これは秀吉さまの弟の羽柴秀長さまと同位で、
秀吉さまは、家康さまを御一門衆として
扱うことに決めた現れでした。

また、秀吉さまは信濃で家康さまから離反していた
真田・小笠原・木曾3氏を家康さまに帰属させました。
ただし真田昌幸さまは一筋縄ではいきません。
機会があれば詳しく話します🙇‍♂️

6 対面


秀吉さまは、家康さまに上洛し
臣従することを口頭で聞きたい儀を
1586年・天正14年9月、三河岡崎城までいらした
使者・浅野長政さまと相談、
上洛要請の条件として、上方での家康さまの
安全保障を求め、秀吉さまは、実母大政所を
表向きは「旭姫の見舞い」という理由で
実質人質として徳川領国に差し出し、
1586年・天正14年10月、上洛し、
秀吉さま弟・秀長さまの屋敷に入りました。

公式対面の前日、
秀吉さまは家康さまご逗留中の
秀長さま屋敷をプライベート訪問。
家康さまに翌日は自分に臣従の意を
諸侯の前で見せて欲しい、と伝え、家康さまご承諾。
翌日のオフィシャル諸侯前対面では
家康さまは平伏し、臣従を伝えて、
秀吉さまの陣羽織を所望。
「家康が上洛したからには、殿下には
 2度と陣羽織を着せることはありません」
と言い切り、徳川家実力アピールをしました❗️

この辺は、本田正信さまの入れ知恵やったり
するんかしらん❓❗️💦🤣

7 次回

少し前までお互いに相手をコテンパンに
倒し切る勢いだった秀吉さま・家康さま❗️
しかし、家康さまが秀吉さまへの臣従で
いきなり羽柴家御一門衆扱い❗️❗️

なぜそこまで、秀吉さまは家康さまを
下にも置かない扱いをしたのかっ❓❗️💦

秀吉さま弱みがあるとすると
それは何だったのかっ❓❗️


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