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徳川家康さま☘️をたどる#35☘️長篠の戦の意義と家康さま巻き返し

初筆 2023年 5月 19日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#35
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1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

  • 三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著

  • 信長公記 / 太田牛一さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 長篠の戦、本戦にあたって織田信長さまは、馬防柵・土木工事など「野戦築城」で挑む。

  • 城攻めに等しいと見た武田家家臣は勝頼さまに撤退を進言するも勝頼さまは合戦決定

  • 酒井忠次さま鳶ヶ巣山砦を陥とす。その目的は、長篠城救出・武田軍の退路を断つ

  • 大久保忠世さま・忠佐さまご兄弟の武田軍おびき出しが効果的だった

  • 織田信長さまの鉄砲による一斉射撃が功を奏したのは、事前また合戦中に武田軍が前に出る状況を作ったから

  • 武田勝頼さま、重臣の多くを失い撤退

前回記事
⬇️


3 武田家・徳川家の利害  before 長篠の戦

長篠の戦は日本史の教科書的には、織田信長さまが、
馬防柵と鉄砲の一斉射撃という近代戦を日本の合戦に
持ち込んだ、ということで有名かと思います。
しかしこれは作戦の一部分を記述したに過ぎず、
合戦ケーススタディ的な見地からは、
一斉射撃を有効とするための作戦などは
はしょられています。

また、合戦というのは利害関係の不一致から
力関係の勝負になってしまう、つまり、
合戦あった=利害関係に何かしらの変化があった、
ということになります。
長篠の戦のその点を話すためには
長篠の戦前後の敵対関係の利害状況を
比較すればわかりやすいかと思います😉

長篠の前は武田勝頼さまは遠江・三河を
切り取りたがっていた。その目的、実は
あまり明らかになってないところがありますが

  • 信玄さまの事業のあとを継いだ

  • 自領に安全な港をいくつか欲しかった

というところではないかと思います。
駿河は武田領国ではありましたが
たやすく海にアクセスできるエリアはそれだけでは
心許ない、という思いもあったでしょう。
遠江・三河を自国領とできれば
駿河以外之港のバックアップもできます。

ところが遠江・三河は、武田家と敵対関係にある
徳川家の領国、その領国の中心地は遠江の浜松です。

さらに先代信玄さまは、
徳川・織田領国を攻め取るという方針の
軍事行動をなさり、有利に展開なさってました。
勝頼さまもその行動を引き継ぐのは当然。

一方で家康さま・徳川家です。
奥三河・遠江境界線あたりの国衆ですが、
徳川家から武田家に自領の保全を頼む国衆も現れ
自領であるはずの奥三河・遠江山間部の
不安定な統治を保全したいが、それを乱しているのが
武田勝頼さまという状況。
しかも自領境界線に頻繁に攻め込んでくる。
それでは境界線だけでなく、
浜松や岡崎の自領中心地まで
徳川家に不信感を持つ住民の声も聞こえ始める、
それでは惣国統治もままならない。
武田家を境界線から駆逐したい。
これが家康さまのお考え、というよりは、
急務だったのかと思います。


4 武田家・徳川家の利害  after 長篠の戦

長篠の戦では、どちらかと言うと

  • 勝ち:織田・徳川方

  • 負け:武田方

です。明確に勝ち負けあるわけではなく
和議も結ばれてませんが、
多くの武将を失い武田方撤退、の情報は
奥三河や遠江の山間部にも知れ渡ります。
この時点で境界線国衆やその地域の住民には
「徳川さんは武田さんを追いやった、これは
 もしかしたら今後、徳川さんに付いていくほうが
 国衆は生き延びられるのかも」
という考えが広がり始めて、三河・遠江の統治は
家康さまにとってやりやすくなります。

また、
「武田さまは多くの武将を失ったし、
 長篠城を取り返すこともできなかった、
 武田さまの惣国保全には翳りが見え始めたぞ」
と武田様にとって、境界線の国衆離れを促すような
情報が行き渡ります。

長篠の戦の結果は、境界線国衆の中で
家康さま➡️評判を上げた
勝頼さま➡️評判を下げた
となったのです。

また、長篠の戦は、
鳶ヶ巣山砦を徳川軍に破られたこと
また織田・徳川連合軍の野戦築城の様子などから
信玄さまなら撤退をしていたであろう合戦を
勝てるとお考えになり遂行してしまった
勝頼さま、という点でも
武将としての評判を落としたかもです。
勝頼さまが勝てるとお考えになった理由については
また後日、お話できたらいいなと考えてます。

5 その後の武田家🆚徳川家

家康さまは次々と奥三河・遠江の諸城を
以下のように陥としていきます。

  • 1575年・天正3年、長篠城の近辺から奥三河平定

  • 遠江の諏訪原城・二俣城の奪還

なお、北条家を追われて
徳川家に引き取った今川氏真さま
出家し宗誾(そうぎん)さまを
親戚の松平氏とともに、
諏訪原城あらため遠江牧野城に
入れたとの話もあります。
旧今川領だったので宗誾さまを入れると
統治しやすかったのかもですね😉🤚

一方で武田勝頼さまは惣国を
高天神城・小山城など遠江東部にまで後退
させてしまうことになりました。
そして高天神城は元は徳川家についてましたが
力で屈服させた小笠原氏を、高天神城から
駿河東部の現在の富士市に移封、
高天神城を直轄領域としました。

もし高天神城を徳川家に奪還されては
海という交通の要所へのエリアを徳川家に
掌握されてしまうことになります。
小笠原氏は元は徳川家についていた国衆、
寝返る前に小笠原氏を移封したのでしょう。
勝頼さまは境界線上の国衆が統治する城を
惣国保全のための最重要ポイントと
お考えになったということ。
そこらへんにキチンとアタマが回る勝頼さまは
やはり優秀な武将、長篠後なし崩し的に
領国を削り取られたわけではなく、
承知すべきことは処置したのです。

その後、1577年・天正5年 7月、家康さまは
高天神城を攻略をスタート❗️
武田勢は小山城・高天神城・駿河田中城(藤枝市)、
徳川勢は遠江牧野城・横須賀城(掛川市)をそれぞれ拠点とし
両者の攻防は一進一退、
武田家が滅ぶまでには
まだ5〜6年の歳月を必要としました。


6 武田家の同盟関係の変化と影響

そんな中、1568年・天正6年、これまで
武田🆚徳川の対立に無縁と思われてきた
越後の上杉謙信さまがお亡くなりになります。
これが、実は武田家滅亡の引金になったりしました。

上杉家では謙信さまがお亡くなりになり
跡目争いの御館の乱が起こります。
上杉景勝さま=謙信さまの甥・本来の後継
上杉景虎さま=相模北条家より養子として入っていた
の2大勢力による上杉家の内乱です。

相模北条氏と同盟を結んでいる武田家は
この内乱を調停しようと首を突っ込み、
景勝さま・景虎さまの和睦を図ろうとしますが
これに失敗、結果、景勝さまと協調することになります。
が、これ、景虎さま=相模北条氏からの養子、を
排除する結果になり、当然、
相模北条氏と武田氏が結んでいた甲相同盟は決裂します。
そして相模北条氏は自然と、武田氏と敵対関係の
織田・徳川両家に接近を始めるのでした。

このように関連する国々が同盟関係が
変化していく中、家康さまはどいう対応するのかっ❓❗️
その対応を間違えたらまたピンチに陥るぞっ❗️💦
家康さまっ、だいじょーぶかっ❓❗️

7 次回

🆚武田氏の常時戦闘状態で忙しい最中、
三河は岡崎の家康さま嫡男・信康さまの
ご様子に変化があり、
信康さまの奥様、五徳さまが父親の織田信長さまに
信康さまのご様子を報告、大モンダイとなるーー

家康さまここでご決断❗️
その内容は何だったのか、それは家康さま
どのような思いでなさったのかっ❓❗️


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