ゴールデン街酔夢譚~第五話~
本社人事部付へと左遷された当初は、すぐまた営業に戻れるものとばかり思っていた。赴任したそれぞれの支店で、僕は常にトップ、あるいはそれに近い営業実績を残してきたし、会社がそれを知らないはずは無いと考えていた。
しかし、1年、2年、3年と経っても、僕に異動の声がかかることは無い。
仕事は、採用イベントの会場設営や、誰も読まない社内報の編集や原稿督促など。殺伐とした営業時代とは打って変わって、周囲の社員にもやる気や活気は見られず、残業はほぼ無く、平穏と言えば平穏な、いわば飼い殺しの日々が続く。
あまりにも暇だったのと、一部会社の補助が得られそうなのとがあり、夜間の社会人大学院への入学を決めた。ファイナンス系を勉強するつもりだったが、資料や教授陣の情報を集めるうちに、企業コンプライアンスに強い興味を抱くようになり、コンプライアンスを専攻することにした。
「へえ、働きながら大学院で、しかも会社の補助が出るなんて、いいご身分じゃないか。さすが、大手証券会社」
ヒガシさんが茶々を入れる。それに対し僕は、
「はい、大学院自体は、とても勉強になりました。でも、コンプライアンスを学んでしまったことが、僕の証券会社人生にとどめを刺したのかもしれません」
「どういうこと?」
そう尋ねたユミさんの方を向きながら、僕は話を続ける。
2年ほど経て無事に大学院を修了し、修士の学位を得た僕だが、部署は相変わらず人事部付。飼い殺しの日々は続く。そんな日々にある意味で終止符を打ったのが、かつての同僚たちや、可愛がっていた複数の後輩たちからの相談だった。
彼らも、以前の僕と同様、違法行為スレスレの営業に疑問を感じ、悩みに悩んでいたのである。コンプライアンスを専門的に学んだばかりの僕は、彼らをどうにか守ってやりたい。会社を変えたい。その一心で方策を探した。そして、社内外の内部通報制度を利用することにしたのである。
大手証券会社だけあって、社内には、通報者に不利益を与えてはならないとされている、内部通報制度が存在した。事実と問題点と改善提案。念のため、社外の公的機関に対する内部通報の準備も併せて進める。
退屈だった日々が、急に彩を帯びてきた。
かつての同僚や後輩たちから、あるときはメールで、あるときは退社後の居酒屋で、あるときは休日のゴルフで、僕は少しずつ情報を集め、そこに僕自身の経験も加えることで、内部通報の準備は瞬く間に進んだ。事実関係を絞り込み、違法行為に当たりそうな複数の事例について、問題点と改善提案をまとめ上げる。
そんなあるとき、課長から会議室に来いとのお達しがあった。会議室に赴くと、ふだんほとんど存在感の無い、影の薄い課長の表情が明らかに強張っている。二人して差し向かいで座るや否や、課長が口を開く。
「蟹江君、何をこそこそ動き回ってるんだね」
「と、言いますと」
「とぼけるな」
課長の口元からは、押し殺すような声。僕の内部通報の準備が、漏れているのだろう。その程度のこと、想定していないわけはない。課長は続ける。
「給料も待遇も保証してやってるのに、何が不満だ」
「不満などありません」
「今すぐ、止めたまえ。それが君のためだ」
「何の話をされているのか、わかりません」
僕は、証拠を突き付けられるまでシラを切り通すつもりだった。もっとも、証拠を突き付けられたところで、日常業務に支障は無く、しかも会社自身が認めている通報制度のはずだ。やましいところは何もない。だが、こめかみに青筋が浮かんできた課長に、怒りと緊張の高まりを感じる。
「止めるんだ」
「わかりません」
僕は課長の目をしかと見据える。時間にしてほんの数秒だろうか。課長の目には、怒りと緊張に加え、怯えにも似た気配が浮かぶのを僕は見逃さなかった。
「蟹江君、どうしても、私の言う事が聞けないのか」
「何の話をされているのか、わかりませんから、言う事を聞く聞かないの話ではありません」
「そうか」
課長の目と表情から力が消えていく。いつもの、無気力な課長に戻っていくようだ。
「これ以上無いのであれば、失礼します」
僕は会議室に課長を残し、オフィスに戻った。
数日ほどして、僕は社内の内部通報窓口に、これまでのまとめを資料化して送付し、正式な通報とした。これで全てが改善するとは到底思えなかったが、心ある後輩やかつての同僚たちのために、一矢報いることができたかもしれないという自己満足には、浸ることができたのである。
その10日ほど後、異動の辞令が交付された。課長が地方の営業所の課長に異動、そして、僕は本社の総務部付へ異動することとなった。二人とも、更なる左遷である。僕を止められなかった課長も左遷させられたことに若干の驚きを禁じ得なかったが、それはそれで仕方ない。
ただ、新たな異動先の総務部付は、文字通り「追い出し部屋」だった。
ヒガシさんもユミさんも、興味深げに僕の方を向く。「追い出し部屋」の話をしようとした矢先、外の風が入ってきた。『嘉門』の扉が開いたのだ。
「ユミちゃん、まだ、開けてますか?」
穏やかな口調でそう言いながら、スキンヘッドにサングラス着用、口ひげこそないものの、シティーハンターの海坊主こと伊集院隼人に似ている大柄の男がのしのしと入ってきて、僕とヒガシさんの間にずっかと座を占めた。
「あら、ダンちゃんいらっしゃい。まだ開けてるよ」
それが、ゴールデン街『蛇の道』店主、河田男(カワタダン)との、ファーストコンタクトだったのである。
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