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イゴゼッタイキンシ~カレーなル一族①

 母は真ん中長男である僕を溺愛しており、殆ど怒られた記憶がない。

 祖母は「ボンタンアメ」「兵六餅」及び「チョコボール」をお土産に持ってくる。

 当時の「チョコボール」には「キャラメル」と「ピーナッツ」しかなかった。

 当時のパッケージは前者が赤であり、後者は茶色のパッケージだった。

 祖母は男と女の区別には五月蝿い人で姉と妹には「ボンタンアメ」と「キャラメル」

 僕だけ「兵六餅」と「ピーナッツ」だったので、特に前者は嫌だった。

 パッケージには浴衣を捲り上げた褌姿のオッサンの後ろ姿が描かれている。

 姉と妹は母と祖母に隠れて「ウマノケツアメ」と呼んでいた。

 幸い二人とも親切な人間なので、「ボンタンアメ」を分けてくれる。

 何故か「チョコボール」は分ける習慣がなかったので、思い出してみた。

 僕だけ「ピーナッツ」を貪り続けて、祖母が帰るまでになくなった。

 姉と妹は計画的に「キャラメル」を一日二個ずつ楽しんでいた。

 母は「サザエさん」「名作劇場」及び「日本昔ばなし」以外見せてくれない。

 8時になると「大人の時間」であり、「子供部屋」で過ごすしかない。

 当時、ザ・ドリフターズ「8時だヨ!全員集合」の人気は凄まじかった。

 残念なことに時間的な制約だけでなく、母にとって嫌悪の対象だった。

 今で言えば「クレヨンしんちゃん」を見れないようなことかもしれない。

 月曜日の朝は「ドリフ一色」であり、話題の中心から「置いてけ堀」

 二歳上の姉だけでなく、三歳下の妹も「見せてあげて」と懇願してくれた。

 なんとか認められたものの「ドリフ大の爆笑」は「だめだこりゃ」

 そんな母は自治会主催の「将棋大会」に勝手にエントリーしてしまう。

 多動児症候群の僕にとって大変な苦痛であり、集合写真も苦手だった。

 誰に将棋を教わるのでもなく、弱いので毎年一回戦で負けて帰ってくる。

 参加賞に筆記用具をくれるが、「負けず嫌い」には辛い体験だった。

 四年生の時、優勝候補の一年生と対戦、奇跡の「二歩」で勝利した。

 結局、その苦い一勝で「将棋大会」への参加は母に頼んで止めた。

 話が横道に逸れてしまったが、元の「チョコボール」に戻ろう。

 祖母が帰ると僕だけ「チョコボール」を食べることができない。

 仮病を使って「チョコボール食べたら治る」と母に言うのだった。

 姉も妹も嫌がる様子もなく、僕に毎日一つずつなくなるまでくれる。

 証券会社に入社して、人脈作りの為に「囲碁教室」に通った。

 母に話すと血相を変えて「将棋はいいけど囲碁は止めなさい」

 理由を尋ねると「お祖父ちゃんの恥になるだけだから」と言った。

 藤堂課長も「休日こそ自由だが平日は夜も認める訳にはいかない」

 単なる思い付きだったので、諦めて大学のOB会に変更した。

 父も「頼りない子ほど可愛いので定期的に連絡しなさい」と厳命した。

 下手の横好きでゴルフ場主催の大会に参加して帰省していた。

 色々あって、証券会社を辞めるとその約束も疎かになってしまった。

 周囲に煽てられて区議選に立候補した際、応援してくれなかった。

 自動車がなければ、不便な場所でもあったので「実家の整理」

 資金及び精神で僕は蚊帳の外であり、姉と妹が段取りを決めた。

 その所為もあり、僕にとって縁の遠い存在になってしまった。

 不思議なもので、頻繁に顔を合わせていないと電話も億劫になる。

 そんな時、姉から「お母さんが認知症の疑いがある」と言い出した。

 公務員を辞めて介護事務の資格を取得した姉の判断だった。

 僕は「二年間の約束」で成果を出せず、設備員になった。

 在宅勤務が可能な妹が帰省して、姉に助力することになった。

 帰省を終えた妹が深刻な表情で「思ったよりも重症だった」

 話を整理すると冷蔵庫は「賞味期限切れ食品」で溢れていた。

「特にカレールーだけで36箱もあって殆どが賞味期限切れ」

 妹は立腹したように話していたが、僕には心当たりがあった。

 カレーが大好きなので、帰省すると決まってカレーだった。

 しかも母の拘りは「カレールーは2種類入れるとより美味しい」

 認知症になった母に立腹していると思っていたが違った。

「懐具合もあるから帰省しろと言わないけどせめて」

 何も言わない僕に「テレビ電話だけでもしてあげて」

 僕は「今の僕にはテレビ電話なんてとても購入できない」

 妹は「何言ってるの、LINE電話で利用できるよ」

 機械音痴の僕は基本的に無知だが「それなら大丈夫」

 妹が再度帰省して、母にLINE電話を教えてくれた。

 僕が母のスマホに連絡すると白髪が目立つ無表情な母がいた。

 父が「大したことはないから大丈夫」と言うのが怖かった。

 当初、母は「何も話すような生活していないから」と頑なだった。

 少しずつ「引っ越してから知り合いもいないから話さない」

「最初は街歩きに参加していたが、コロナで中止になった」

 母は譫言のように「東京の叔父さん元気にしてるかな」

 母の叔父は有名な棋士だったが、祖父も祖母も早逝して音信不通。

 真ん中長女の母、僕にとっての伯父、叔父は両方とも教師だった。

 伯父とは疎遠だったが、叔父とは以前は懇意にしていた。

 泊めて貰ったこともあったが、叔父が泥酔した際の言葉。

「親父は殺人者だから幼少期に弟子入りして苦労した叔父とは違う」

「俺と兄貴のように反目しているから連絡しても無駄だと思う」

 確かに母方の祖父は帝国陸軍から自衛隊に奉職していた。

 母が小学生の時、胆石の手術後に腹膜炎で亡くなった。

 その折、上京した叔父宅は母にとって少女時代「最後の夢物語」

「お手伝いさんもいて、従弟と一緒に公園で遊んだ」が口癖だった。

 残酷な結果に終わるかもしれないけれど、僕は「日本棋院」に連絡した。

〈日本棋院のHPでは99歳ですが、ご存命であれば消息を知りたい〉

 僕の連絡先と母の名前と関係性を添えて、メールを送信した。

 前日は夜勤だったので、午睡ととっているとスマホが鳴った。

〈日本棋院に連絡された方は貴方でしょうか〉少し警戒していた。

 母の話を聞くと態度を豹変させて「本人は耳が悪いので電話は無理」

「だけど私が是非話したいのでお母様からお電話頂けませんか」

 母に連絡をしたが、あまり乗り気でないけれども諦めなかった。

 理由は「お婆さんになって、落魄れているので恥ずかしい」

「兎も角、約束したので、一度だけでも連絡しないと僕が嘘吐きになる」

 母にとってそれは急所であり、大言壮語を語る僕の尻拭いをしていた。

「連絡したけれど一方的に話すだけだから、偶に連絡します」

「最期の夢物語」は夢のまま終わらせたいのかもしれない。

「やらずの後悔は永遠に後悔だがやったら思い出に代わる」

 僕の信条を母に押し付けるのは酷かもしれないが、碁会所に入所した。

 いつの日か上京した母と一緒に訪問したいと思って研鑽している。

 無表情だった母も僕の話を聴いてよく笑うようになってきた。

 文明の利器特に外資系への警戒感はあるものの恩恵には感謝せざるを得ない。

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