『嘔吐』を読む(20)──月曜日(1) ロルボン氏は死んだ
「土曜日」の美術館での「冒険」の後、ロカンタンは案の定、脱力してしまう。
ブルジョワ連中の肖像画を逐一点検して彼らの生き方をこき下ろしたはずの若者は、日曜日は一語も書かず、「月曜日」になってこんな弱音を吐くのだ。
《もうロルボンにかんする本は書かない。お終いだ。もうこれを書くことはできない。これからどうやって生きていったらよいだろう?》
どうしたロカンタン君、「おさらばだ、下種どもよ。」adieu, Salauds.と大見得を切った君が……と思わせる個所である。やはり反動が来たのか。
ロカンタンのブルジョワ批判はたんなる他人事の風刺や他者批判と読むべきではない、という私の考えは前回書いたとおりである。
《三時だった。私はテーブルの前に座っていた。横にはモスクワで盗んだ手紙の束をおいていた。そしてこう書いた。/「きわめて不吉な噂が注意深く広められた。ロルボン氏はこの策略に引っ掛かったに違いない。なぜなら彼は甥あてに、九月十三日付けの手紙で、少し前に遺言を認めたと書いているからだ」/侯爵は現にそこにいた。彼を歴史的存在のなかに決定的に据えてしまうまで、私は自分の生を彼に貸し与えていたのだ。私はかすかな熱のように、彼を鳩尾に感じていた。》
ロカンタンは、九年前にモスクワの図書館から盗み出したというロルボン侯爵の手紙をもとに、そのロシアでの暗躍振りを書いていたのだ。ロルボンは十八~十九世紀の策謀家でロシアではパーヴェル一世の暗殺にも加担したという架空の人物である。そのイメージはロカンタンの裡でうごめきつづけていたのだ。
「ロルボン氏はたいそう醜かった。王妃マリー・アントワネットは好んで彼のことを、わたしの《大事なお猿さん》と呼んだ。にもかかわらず、彼は宮廷のすべての婦人たちをものにした。〔略〕強烈な磁力で彼女たちを惹きつけたので、征服された美女たちは途轍もない情熱に身を焦がすことになった。彼は策謀をめぐらし、首飾り事件ではかなりいかがわしい役割を演じ、酒樽ミラボーおよびネルシアとの交流を続けた後に、一七九〇年に忽然と姿を消した。その後ロシアにあらわれて、パーヴェル一世の暗殺にいくらか関わっている。そこから彼は、はるかに遠いインド、シナ、トルキスタンといった国々に旅行した。密売をしたり、陰謀に加担したり、スパイをはたらいたりした。一八一三年にパリに舞い戻り、一八一六年には絶対的な権力に到達する。アングーレーム公爵夫人の唯一無二の腹心になったためだ。」
ロカンタンは、「私が最初にロルボン氏のことを知ったのは、この数行の文章によってである。なんと彼は魅力的に見えたことか! またこのわずかばかりの文字を読んだだけで、すぐさま私はなんと彼が好きになったことか!」といい、「私が今ここにいるのも彼のため、この男のためだ」とまで思ったのだという。しかし、調査を続ける中で深めたはずの自分の人物理解が想像力によるだけで証明しようがないものだ、とも思い始めていたのである。
《だが手遅れだった。これらの言葉にもう意味はない。もはや私が手のなかに握りしめている黄ばんだひと束の紙以外に、何も存在してはいなかった。〔略〕ロルボンはもう存在していなかった。完全に存在していなかった。もし彼の骨が多少残っていても、それはまったく独立に、骨自体で存在しているのであって、もはや塩分と水を含んだ少しばかりの燐酸塩と炭酸石灰にすぎないのだった。》
三年間もブーヴィルに滞在し、資料分析に没頭していたはずの若い知識人の中で、何が起こったのか。簡単にいえば、飽きてしまったのか、と思わせるところだ。もはや、過去が遠ざかってしまったというのである。
《私は最後の試みを行なった。〔略〕侯爵を思い浮かべていた言葉を心に繰り返したのだ。「皺の寄った、清潔でくっきりした彼の小さな顔は、疱瘡のあばただらけであるが、そこには独特の意地悪さがあらわれていて、どんなに隠そうとしてもそれがすぐ人目につくのだった」/彼の顔が従順に私の前に現れた、尖った鼻、青ざめた頰、その微笑。私は彼の顔立ちを思いのままに形成することができた。おそらく以前よりもっと容易ですらあったろう。ただ、それはもはや心のなかのイメージ、一つの虚構にすぎなかった。私は溜息をつき、耐え難い欠如感を抱きながら、のけぞって椅子の背に身をもたせかけた。》
ロルボンの知力と人間性、女たちを捕らえる「強烈な磁力」、さらにその容貌の醜さに対する注視は、Facebookの前回の拙稿に対して中谷光宏氏も書かれていたように、ロカンタンの奥に潜むサルトル自身の自己像をも感じさせるのだ。
すなわち、ここでも『嘔吐』の記述は〈自己〉を撃とうとし、また同時に、〈自己〉に強く執着する意識をたどっていると見えるのである。
そしてさらに、この若者は、想像裡の人物像からの離反とともに、周囲に遍在する〈物〉が気になりだすのだ。あわせて、それらを目にする「現在」を、執拗に意識しはじめるのである。
《「きわめて不吉な噂が注意深く広められた……」/この文章は私が考えたもので、初めはいくらか私自身だった。今では紙の上に記されて、私に対抗して結束している。私にはもう見憶えもなくなった。もはやそれをあらためて考えることさえ不可能だ。文章はそこに、目の前にある。その由来を示す痕跡を求めてみても無駄だろう。私以外の誰でもこれを書くことができたのだ。しかし私には、この私には、それを自分が書いたという確信がなかった。今ではもう文字も光っておらず、乾いていた。それもまた消えたのだ。束の間の文字の輝きは、もはや何一つ残っていなかった。》
自分の裡にある人物像を表現しようとした文章も、今や私自身のものではなく、私に「対抗」して乾いている。過去はすでにどこにも無いのだ。
《私は周囲に不安な視線を投げた。現在だ、現在以外に何もない。軽い頑丈な家具類も、現在に閉じこめられていた。テーブルも、ベッドも、鏡のついた簞笥も──そして私自身も。現在の真の性質がヴェールを脱いだ。それは存在するものであり、すべて現在でないものは存在していなかった。過去は存在しなかった。まったく存在しなかった。物のなかにも、また私の思考のなかにさえ、存在していなかった。なるほど、ずっと前から、私は自分の過去が逃れ去ってしまったことを理解していた。しかしこれまで私は、過去が単に手の届かないところに退いただけだと思っていた。私にとって、過去は退職しただけだった。つまりそれは別な存在の仕方であり、休暇と活動停止の状態だった。一つひとつの事件は役割を終えると、自分から進んでおとなしく箱のなかに収まり、名誉事件という称号になるのだった。それほどに、無を想像するのは困難なのだ。いま、私は知っている。物はことごとく外見通りのものであり──そして物の後ろには……何もないということを。》
ここでロカンタンはごく平明な、かつまた、恐るべき現実に気づいたのである。周囲にあるのはただの「現在」であり、そこには〈いまここ〉がひろがり、「物」がそれぞれの外見を見せているだけなのだということに。
そして、それがこの若者を徐々に追い詰めていくのだ。これまでもしばしば訪れた〈吐き気〉が、ここでは陰に隠れていることが不気味である。
《なお数分のあいだ、この考えが私をとらえて放さなかった。それから私は自分を解放するために、肩を激しく揺すると、紙の束を手前に引き寄せた。
「彼は遺言を認めたところだと……」
とつぜん私はひどくむかむかした気持に襲われた。ペンはインクを散らしながら指から落ちた。何が起こったのか?
〈吐き気〉を感じたのか? 違う、そうではなかった。部屋はいつも通りのやさしい様子を保っている。せいぜいテーブルがいくらか重く、厚く、万年筆がいくらか小さく凝縮したような気がするくらいだ。ただ、今しがたロルボン氏がもう一度死んだのである。》
ブルジョワ罵倒の「冒険」につづいて、ロルボン氏を死に至らしめた若者の〈いまここ〉は、さらにどこへと向かうのか。
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