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図書館

    図書館には出会いがある。むろん書物との出会いがあるのだが、それ以外にも出会いがあるのだ。
    かつての公立図書館には高校生に交じって、赤青鉛筆を手に、しきりに持参の本に線引きをしている、受験生というには年かさの男たちがちらほらいたものだ。司法試験受験者である。中には相当な覚悟と見えて、愛妻弁当らしきもの持参のつわものもいたのだ。また、昼時の雑誌コーナーには、せっせと弁当をつかう労働者やしがない勤め人たちが並んだものである。
    大学はついにロックアウトとなり入校禁止となったが、図書館だけは目こぼしで、塀際の非常階段から入ることが許されていた。そこで私も、朝から晩まで潜り込んでは、やはり赤青鉛筆を手に、競馬新聞ならぬ、持参した我妻栄の民法講義をなぞっていたのだ。
    講義はなく、ただ本だけが目の前にあった。それだけが全てであり、それを完全に理解し飲み込むことが、錯綜した現世のもろもろに対してある確固たる道を開くのだと信じて、貧相な学生生活の中でひそかに熱を感じていたのだ。
    そんなある日、飯を食いに行こうと席を立つと、かすかにチューチューという音が耳に入ってきた。高い天井ドームの下に隔壁付きの古風な閲覧席が所狭しと並んだ閲覧室である。いぶかしく思って、私は歩きながら一列ずつさぐって行った。すると、いたのだ。
    男が一人、しきりに何かを口にしている。その隣はどちらも空席で、あたりにはなにやら生臭い匂いも漂っているのである。
    なんと彼は、大きなビニール袋(ポリ袋という言葉はまだなかった)を床に置き、一杯に詰め込まれた卵を一個ずつそこから取り出しては穴を開け、口に当てて啜っていたのだ。さすがに両脇は敬遠されたが、他に席のない連中がその周りにぎごちなく座っていた。まるで何事もないかのように、書物にだけ目を注いで。
    男の姿は滑稽かつ病的なものだった。たぶん貧相な生活の中で「栄養不足」という強迫観念が彼を捉えていたのだろう。さわらぬ神に祟りなしと、周囲は無関心を決め込んでいた。さもありなんである。
    しかし、私にはある高揚感が湧いてきたのだ。人目も気にせず必死になって「健康」を目指し、生きんとする男の姿、その滑稽かつ異様な執念が、ひたすら活字で人の世を解せんともくろみ、なんとかして醜悪な世界を超えようと努める自分の戯画として、腹の底から笑えるように思われたからである。それは異様ではあったが、醜くはなかった。哀れではあったが、下品ではなかった。病的ではあったが、なおも活力に満ちていた。傍若無人な若さがまさにそこにある、私にはそう感じられたのだ。
    非常口から出た外はもう暗くなりかけていたが、定食屋に向かう私の足取りは確かだった。
    半世紀以上も前の記憶である。

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