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何処かの誰かが、何処かで誰かに殺される。

嫌なニュースが流れてきた。 

同級生が河川敷に車を停めたまま行方不明になったらしい。
行方不明の当日深夜、叫び声と何物かが川に飛び込む音が聞こえたと釣り人から通報があった、車には財布、携帯などの貴重品が残されていたがキャッシュカードだけが抜き取られた形跡があった、など不審な点が多々見られる。数週間が経過しているが未だに行方は分からない。どんなに些細な情報でも構わないので、心当たりがあったら連絡してくれ、といった内容である。

できれば人違いであってほしい。
仮に何かに巻き込まれて川に落ちていたとしても、何とかして生き延びていてほしい。


このような事件は世間を見れば、
特段珍しいものではないのかもしれない。
同じようなニュースを何回も見たことがある。
川で恐喝、殺人、或いは未遂。
原因は金銭トラブル。

何処かの誰かが、何処かで誰かに殺された。

これら全てが嫌な事件だと思う。
それは嘘偽りのない、素直な感想である。
しかし。
そこには全くと言っていい程、実感が伴わない。
嫌な世の中になったねぇ。
些細な世間話でおしまいである。

学校で習う戦争の話に近いかもしれない。
経済成長期生まれの先生が黒板の前で、
戦争が産み出した悲劇について、
戦争の悲惨さについて説教を垂れる。
そして戦争は嫌だなということがわかった。
授業が終わってたった10分の休み時間を過ごせばもう、
なんの感傷も残らない。

ありがたいことに現代日本に生きている我々にとって、
戦争は経験しえない非現実である。
記憶の風化だと声高に叫ばれてはいるものの、
それでも戦争は我々にとって非現実な現象であり、
実感が湧かないのは仕方のないことであろう。

テレビのニュースにも戦争と同じくらいの非現実を感じるのは何故だろう。
それは間違いなくそれは今生きている時間、
そう遠くない場所で起きている紛れのない現実であるはずだ。

何処かの誰かが何処かで誰かに殺された。

実際に現実に起こった事実であることは理解はできる。
デマを疑っている訳でもない。
しかし感情が一向についてこないのだ。
遺族が悲痛な言葉を投げ掛ける。
可哀想だと思う。
しかしそんな感情も戦争の悲惨さと同じように、
休み時間よろしく10分もあれば忘れてしまう。

戦争の惨劇も、
非業の死も、
遺族の悲痛も、
私にとっては単なる悲しい非現実でしかない。


今回の行方不明事件。
彼とは中学の3年間一緒だっただけで、
クラスが同じだったこともない。
もしかしたら一度も話したことが無いかもしれない。
向こうが私を知っているという確証もない。
私は彼を知っているが、それはただ知っているというだけで、
その実態は限りなく 何処かの誰か に近い。

それでも。
彼が無事であって欲しいと思う。
心配で血がざわつく。
捜索願いを出したお兄さんの悲痛で胸が痛くなる。
私にとって、この事件は心揺れる現実なのだ。


世間には色々な事件が溢れている。
世界の全人類がこれら事件全てに主観的な実感を持つことができたら世界は些か平和になったのだろうか。
まあ、そんな全てのニュースに心を惑わされていては人間の心はとても持たなかっただろうから、どんな凄惨な事件でも1線を引いた無関心を決め込めるのも一種の自己防衛なのだろう。
ただ、悲痛なニュースを見たときにほんのちょっとでも悲しみに共感できる感覚は持ち続けていたいと思う。

とにかく今は彼が無事であることを心から祈りたい。


終わり。

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