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母と沖縄戦のこと

 雨が降っている。

 慰霊の日の今日、沖縄は、まだ梅雨が明けない。
 
「ハーリーの鐘がなると梅雨が明ける」

 梅雨に入ると、毎年母はそう言う。そしてハーリーの日に梅雨が明けていると、得意げに「ほらね」と言うのだ。
 コロナウイルスでハーリーが二年連続中止になり、梅雨の雨も平年より激しく長く降る今年は、慰霊の日になっても梅雨が明けない。

「今年の梅雨は長いねぇ。ハーリーが過ぎたのにまだ降っているさぁ。異常気象かねぇ」

 電話から聞こえる母の声は、溜息混じりだった。

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 沖縄の梅雨は、雨というよりスコールという言葉が似合うような、空が抜けたような大粒の雨が横殴りに降る事がしばしばある。小さな島に降る雨は、赤土の山を削って川底をかき回して、道を覆って海へ出ていく。
 そんな大雨の中、爆弾が落ちたらどうなるのか。
 すぐには爆発せずに、爆弾の重さで土に埋まってしまう。
 教えてくれたのは母ではなく、小学校の先生だったと思う。確か、不発弾処理のための避難区域に小学校が含まれてしまい全校生徒でグラウンドに避難をした、そのタイミングで教えてもらったのだ。
 私は首里城の一番近くにある小学校に通っていた。学校のそばには龍潭池という池があり、池を囲む土手の一画には、旧日本軍司令部の豪の跡があった。そんな土地柄もあってか、私が通っていた小学校は歴史授業に力を入れていたのかもしれない。
 旧日本軍の司令部をめがけて首里は爆撃が激しかったのだと聞いた。だから、首里には不発弾がたくさん、眠っている。
 そんな首里に、私は生まれて育った。
 戦争中は子供だった母も、首里に生まれて、首里で育った。首里で結婚をして、夫(私から見れば父)を亡くして私や弟を育て、今も首里に住んでいる。

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 沖縄戦の時、母は小学生くらいだったらしい。
 戦争の事は覚えているはずだけれど、覚えていない、と語りたがらない。
 そんな母から聞く沖縄戦は、断片で。
 食べ物がななくて、ソテツをあく抜きして食べたこと。
 疎開するために先に送った家財を積んだ船が、米軍の魚雷で沈んだこと。船の名前は対馬丸だったこと、家財と一緒に乗っていたら、今は生きていなかったこと。
 それから、夢の事。
 梅雨の時期慰霊の日近くになると、雨の中を大人になった母が、子供の私と弟を連れて泥に塗れて、爆弾が降る中を走って逃げる夢を見るのだと。

「 あの頃は子供だったのにおかしいさぁ」

 呟いた母は、私を見ずに、目を逸らした。

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 沖縄戦で首里が特に酷かった訳ではない。
  緑が多いところでは、火炎放射器で緑を焼き払いながら防空壕に逃げた人をあぶりだしたようだし、西原の高台は、北と南から逃げた人達が挟み撃ちにされたと聞く。 北と南へ逃げた人々は、糸満の崖やカヤウチバンタから飛び降りたと聞くし、集団自決も各地で起こった。
 沖縄全域に、戦争は刻まれている。
 その中で、首里は空爆が酷かったというだけ。
 だから母の戦争の記憶は、空爆なのだろう。

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 戦争の後の話になると、母は饒舌になる。
 高校の頃は文学少女だったという母から卒業写真を見せてもらった。
 首里高校の卒業写真だった。
 あの時期高校に行けたのは、当時の母の実家は裕福な方だったのだろう。文学少女だったという母だが、同級生の男子から「〇〇君」(母の旧姓)と君付けで呼ばれ、校舎を走り回ってもいたという。君付けをされている母の様子を私は想像ができなかったが、高校時代の話をする母は楽しそうだった。

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 米軍統治下の沖縄の様子は、昔は円ではなくドルを使っていた、と、残っている小銭を見せてくれた。
 高校以降の母の話は、テレビで見た日本とアメリカの話になる。
 日本のテレビでは、グループサウンズが好きだったのだという。米軍放送では、英語は解らないけれどコメディドラマを見ていたという。
 テレビの話はするけれど、自分の事になると母の口は重くなる。私が4歳になる前に癌で死んだ父の事も、母は断片でしか語らない。
 父は胃癌でなくなったらしい。
 私が覚えている父は、入院先のベッドの上の父だ。
 頑固な父は偏食が激しく、ちゃんと食べたほうがいいという母の言葉を聞かなかったという。子供の前では沖縄方言を使うなと厳しく母へ言っていたともいう。
 父は母よりも「日本」に対する憧れみたいなものが強かったようだ。母は首里の方言と標準語の両方を喋ることができるが、今でも私や弟の前では標準語しか使わない。

 日本になったら生活がよくなる、と思っていたさぁ。

 そう母は過去形で言った。

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 高齢になった母だけれど、ミーハーなところは残っていて、首里城でイベントがあれば覗きに行っていた。その度に母は、首里城で開催された組踊の様子や当時の服装の事を楽しそうに話していた。
 首里城が燃えた時は、悲しそうだった。
 再建された首里城はもう見られないね、と、少し寂しそうに言っていた。

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 戦争と戦後の沖縄を見てきた母に、また爆撃の中を逃げる悪夢をみせたくない。
 沖縄戦の事を語りたがらない人はたくさんいると思う。
 語られることが無い戦争体験の事も想いながら、この梅雨を過ごそうと思う。


2021年6月26日 まだ梅雨の明けない沖縄から 星はふるふる

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