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普通か特別になりたかった

普通になりたかった。
街でお淑やかな女子大生が友人と談笑している様子を見ると、胸が苦しくなる。
あるいは、アバンギャルドな格好をして夢中に大作をつくる同期を見たときも。
自分とは真逆の普通。自分とは真逆の特別。

私は普通になるための戦い、自分を特別だと証明する戦い、どちらにも負けてしまった。

幼い頃から周りに馴染めなかった。
人見知りで挨拶もろくにできない子だった。
幼稚園に行くのがつらかった。でも、みんな通っているから通った。ひとりで絵本を読んだり、絵を描いて過ごした。外遊びの時間はずっと花を眺めて、色水を作っていた。おままごとや鬼ごっこを楽しむ同級生の喧騒がぼんやり耳に入る。私は何も楽しめなかった。思えばあれが、人生ではじめての劣等感。

その頃の感覚をうすく伸ばしたまま、19歳。
大人になった。

結局、義務教育では集団に馴染むことはできなかった。一見普通にクラスメイトと話している時間もどこか重苦しい気持ちが付きまとった。
途中で何かが切れて引きこもりになって、高校はろくに通わずに過ごした。
大学生活は、ほとんどリハビリに近い。
勉強や絵で自分を誇示しようと試みた時期もあったけど、模試でも美術コンクールでも、頭角を表せることはなかった。

普通になろうと足掻くほど、特別を負い求めれば求めるほど、精神は失調していった。

元不登校で、通信制高校から私立美大に進学。精神疾患持ちでネットが好きで相対性理論とか聴いてて…

特徴を挙げれば挙げるほど、とても典型的でありながら、限りなく社会不適合。

インターネットで自分の好きなことについて語ったり、 作品を載せたり、気持ちを綴ったときに、特別な自分に酔っていると評されることが割とある。

私が凡庸なくせに普通の箱からも零れ落ちた人間だということは自分自身が一番理解してる。

自分らしくいられるコミュニティに属せているわけでもなければ、作品に思うまま自分を乗せる力もなく、沈黙しつづける強さもない。だから、最も手軽な自己表現ツールであるインターネットに依存しているのが実際だ。

できることなら毎日学校に行って、友達と過ごして、苦しくない気持ちで家に帰って、それなりに受験をして、就職して、恋をして、結婚して……。やや前時代的とも言えるほど普通の人生を過ごしてみたかった。そういう器用さと、何よりそこに喜びを感じられるような温かい精神がずっと憧れだった。

それができないのなら東京藝大や多摩美や武蔵美にいって、みんなを驚かせる作品をつくったりして、特別な存在になってみたかった。

私は人より弱かった。普通になるには弱すぎた。

今は休み休み大学に通いながら、音楽を聴いたり本を読んだりして過ごしている。たまに身体に余裕があるときに、なにかをつくる。

つくることは闘いから祈りになった。

普通にも特別にもなれなくても、生活や心のなかにあるささやかな美しさに、幸せを感じられるような感性を育んでいくためのか弱い祈り。

でもやっぱり叶うなら、
普通の幸せな女性になってみたかったな。

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