見出し画像

【ダスカロスの教えに学ぶ1】ヒーリングについて(「真理の言葉」第8章より)/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

姉の引っ越しに絡むドタバタ が終わり、自宅に戻ってから蔵書類整理した。いま持っているのはこれだけ ↓

すっきりした気分で、ダスカロスの教え に沿ったヒーリングを学んでいる。

上記の第8章から一部引用。

サイコセラピー(精神/心理療法)とは、何でしょうか? サイコセラピーとは、誤った言葉です。それはギリシャ語でを意味する“サイキ”(または、プシュケ/psyche)から発生しています。とは  であり、セラピーを必要とはしません。

多くのヒーラーたちは、自分たちが癒し手であると主張しています。これまた、誤りです。如何なる人間も、ヒーラーであると言うべきではありません。なぜなら、聖霊 が癒しを行っているからです。人間は道具であり、聖霊や基本元素の 大天使たち の媒体にしかすぎません。その彼らがヒーリングと呼ばれている現象を生じさせているのです。

完全なであり、完全な人間であったキリストでさえ、「人の子」として話をする時、「私自身は何も行うことができない」と述べ、「業を行っているのは、私の中のである」と付け加えております。このことからも、いわゆるヒーラーが、そのワークにおいて聖なる知性聖霊による聖なる御業に使われるということは、大きな栄誉に値することなのです。

私たちは、いわゆるヒーラーと呼ばれている人たちを、サイキカル・ヒーラーとスピリチュアル・ヒーラーとの二つのカテゴリーに分けます。サイキカル・ヒーラーは、主にエーテル・バイタリティーにかかわるワークを行っています。一方、スピリチュアル・ヒーラーは、自身の意識を「共通の自己性」における “アットワンメント” まで高めています。

私たちは最初、サイキカル・ヒーラーに専念しなくてはなりません。私たちは人間の肉体が一種の電磁エネルギーを持っていることを観察し、学ばなくてはなりません。私たちはそれを エーテル・バイタリティー と呼んでいます。ヒーラーは、それが何であるか、どのようにして得るのか、どのようにして保つのか、どのように処理するかを知らなくてはなりません。伝統的な科学でさえ、このエネルギーの存在を認めています。1734年から1815年まで生きたメスメルは、彼が “動物磁気” と呼んだエネルギーを発見しました。

このように、私たちの肉体に浸透した部分や周りには、エーテル・バイタリティーと呼ばれるエネルギーが存在しています。これが神から与えられる日々の糧なのです。私たちは毎日彼に日々の糧を与えてくれるように求めています。この生命エネルギーが、私たちの日々の糧なのです。キリストが「わたしは命の糧である」と言ったように、このエネルギーはキリストご自身の表現でもあります。このことから、私たちはこのエネルギーを聖なるものとして扱わなくてはならず、同時に肉体もまた聖なるものと考えなくてはなりません。

「真理の言葉」112‐113頁より

ヒーラーの資質としてもっとも重要なのは、エゴイズムから脱すること。

サイコセラピストは、癒しを行う時に、自分自身のエネルギーの一部を費やしているのでしょうか? それによって一日の終わりにぐったりと疲れてしまうのでしょうか? いいえ、そんなことはありません。彼は自分のエネルギーを全然使っていません。“彼” がヒーリングを行っているのではなく、聖霊聖なる大天使たちがサイコセラピストを、ただのチャネル(伝達経路)として使ってヒーリングを起こしているのです。もし、そのサイコセラピストが本当に人類を愛し、を愛し、完璧な理解を持っていれば、彼はまったく疲れることなく、一日に百人でも癒すことができるのです。強力な愛の エレメンタル を創ることができ、患者が回復することを真に信じ願う者は誰でも、ヒーリングのプロセスにおいて良い結果を得るものです。

では、患者はどのようにして癒されるのでしょうか? 私たちは彼にエーテル・バイタリティーを与えます。そのエーテル・バイタリティーが癒しを起こします。しかし、私たちも、高次のパワーと呼んでいるものを使って、聖なる大天使たちと協働することもできるのです。それには、視覚化、創造的視覚化、そして物質化や非物質化などの高次のパワーが必要となります。それを “私たち” が行うのでしょうか? いいえ、私たちは何も行いません。私たちは自分たちのものではなく、に帰属することを行っているのです。なぜなら、私たちの肉体も私たちのものではありません。私たちのパーソナリティーでさえ、私たちのものではないのです。すべてのものは 絶対存在 からのものであり、すべては絶対的真実を賛美するためのものなのです。

今日では、多くのサイコセラピストたちは自分たちが人を癒せると信じ、患者に対して、彼らの潜在意識からエネルギーを放出できると信じています。彼らは患者に手を当てることによって、自分たちの身体から患者にエネルギーが流れると信じているのです。もちろん、ヒーリングの成功は彼らの信仰の深さによります。すなわち、信仰心によるのです。しかしながら、彼らは彼ら自身のものを何も与えていません。真の癒し手は、ロゴス と 聖霊、そして ロゴス が偏在している母なる自然なのです。たとえ、ヒーラーが干渉しなくても、例えば、足の傷はそれ自体によって自然に癒されるのです。

「真理の言葉」115‐116頁より

ヒーラーはただの媒体導管に過ぎなく、癒しの技を行うのはロゴス大天使たち聖霊母なる自然ゆえ、ダスカロスは常に「感謝はわたしにではなく、癒しを行った聖霊大天使たち、すべての源である 絶対存在としての神 に向けてください」と伝え、ヒーリングに対する対価受け取らなかった……というわけで、「癒して or 教えてあげますので〇〇円ください」とはいえないし、いってこなかった(追記:スミマセン、これは嘘です。1回だけありました)。いろいろやらかした人生であるが、スピリチュアルなことでお金を得なかった点に関しては、数少ない善いことだったのかもしれない。

良いサイキカルヒーラーは、単なる想像や幻想ではなく、視覚化を使うことにより聖霊の呼吸である形態のない マインド超素材 から、好きな形態をなんでも創り出すことができるのです。しかし私たちはまだ、“そのような方法” で何も得ることができないことを理解しておくべきでしょう。私たちはすべてを聖霊から得ているのです。ではロゴスの役割は何でしょうか? もし私たちがそれを自己意識的に行っていれば、ロゴスから得ています。私たちはレッスンの中で、ロゴスの特質自己意識であり、聖霊の特質意識であることを学んでいます。言い換えると、聖霊の行っている働きは、肉体上で “” として、サイキカル体上でも “” として、ノエティカル体上でも “” として 行われています。一方、ロゴスはそれぞれの体を使うための私たちの “自己意識” を育てているのです。私たちは聖霊超自己意識にある高次のレベルまで自己意識統治していかなければなりません。

サイキカルヒーラーは自身の感情や欲望、そしてパーソナリティーの激動をコントロールする方法を学ばなくてはなりません。内省瞑想は私たちに制御力を与えてくれます。私たちは上から、すなわちサイキカル・プレーンからの方法でコントロールをしていく必要があります。必ず高次のプレーンから低次のプレーンをコントロールすることになります。物質的なエーテル・バイタリティーのレベルからは、物質プレーンやそのエーテル・バイタリティーをコントロールすることができないことを覚えておきましょう。必ず高次のプレーンから働きかけなくてはなりません。すなわち、感情を静かにさせてコントロールすることから始めます。なぜなら、その感情が肉体のエーテル・バイタリティーを浪費させているからです。

サイキカル・プレーンと物質プレーンは、ノエティカル界からコントロールすることができます。このために私たちは内省のエクササイズを行っているのです。高次から低次に降りて来る時、感覚エーテルを感じることができます。これは 四種のエーテルエネルギー の一つです。この感覚エーテルは、私たちが生きている感覚を与えてくれています。従って、生きていることとは、私たちがその感覚エーテルを潜在意識的に使っていることを意味しているのです。さて私たちは、その感覚エーテルを意識的に、かつ自己意識的に使い始めなくてはなりません。この感覚エーテルを使うことにより、たとえ低次元のプレーンにおいても、私たちの本当の自己意識を築き上げることができるのです。

「真理の言葉」123‐124頁より、一部の太字化はNoelが実施

あらゆるものが、「わたしは有る」という 自己意識 から生じる。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

旧約聖書「出エジプト記」3章 14節より

静かで穏やかな日々を過ごし、すべてのものを感じ、ハートをのバイブレーションで満たしたい。

『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である』

ーーー(中略)ーーー

『……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……われらの前途は輝きながら嶮峻である 嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる 詩人は苦痛をも享楽する 永久の未完成これ完成である 理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる 畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである』

宮沢賢治「農民芸術概論綱要」より