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返事は要らない。

携帯からメッセージを送りながら、ふいに思う。
手紙はよかったな。

「お元気ですか。
こちらは相変わらず、毎日あっという間に一日が過ぎていきます。
この間、昔よく一緒に聴いていた歌手のCDを引っぱり出してみたら、歌詞カードにメモが挟まっていて。
お互いの好きだった曲のランキングが書いてあって、ひとりで笑ってしまいました。
だってあまりにも違う順位だったので。
あれからすっかりご無沙汰してますね。
また会うときに、そのメモも持っていこうと思います。
ひとまず、それまでお身体に気をつけて。」

たとえばそんななんでもないことをつらつらと書き綴り、ぽいとポストに放り込む。
相手がいつ受け取るのか。
受け取ってからどのくらいの時間を経て読むのか。
はたまた、返事は届くのか。

すべては手紙を送り出した時点で相手のものになる。
言葉を送るというよりも贈るに近い。
こちらはそれに思いを馳せるだけ。
もしかしたらもうとっくに引っ越していて、手紙は数日後に引き返してくるかもしれない。
仮に受け取って読んだところで、返事を書こうなどとはもはや思わないかもしれない。

それでも、手紙を書くということは、そんなことに気を揉むものではないと知っている。
知っているからきっと、手にした人もまた「あ、そうだ返事を書こう」と思い立ったりもする。

しかしどうだろう。
手元の画面から言葉を送れば即座に、「既読」という警告ランプのような文字が点灯し、はやく返事を送れと催促せんばかり。
言葉は手紙のように贈ったままではいられない。
なにも返事がないことは異常事態となる。
自分の送った言葉で不愉快にさせてしまっただろうか。
返事ができないほど忙しいのだろうか。
じつに不毛な不安ばかりが生まれる。

見えすぎる、というのは時に不便なものかもしれない。
即座に相手と繋がれることで、言葉を「贈る」ことができなくなってしまった。
返してもらうことばかりに気が飛んで、伝えたかった熱と、純粋に贈りたい言葉は擦れていく。

会話は声を聞いたり、目を合わせたりしてするもの。

ちいさなスレッドの中、まるで操り人形を繰る人のように、後ろで糸を引いて言葉を繰る。
舞台の上では両者が言葉を操っているのに、それはまるで会話になっていない。

返ってこないメッセージを眺めながら、そんな奇妙な錯覚にとらわれていた。











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