出来れば私は十代の頃に死にたかった

 

 最近、見た目の劣化を強く感じるようになった。
 それは単純な加齢であるのかもしれないし、コロナで出歩かなくなって人に見られなくなったかもしれないし、もっと別の何かが原因なのかもしれない。
 なんにせよ被写体というものをしている私にとって、これはとても大きな問題である。

 こういうことを言うと発生する
「女性の美しさは見た目ではない」とか
「年齢に応じた美しさがある」とかそういう話ではない。
 自分が自分の見た目を愛せなくなった、という話だ。

 私は十代の美しさというものを愛している。少女の美しさを愛している。だから自分が小説を書く際に出てくる女性は大抵少女だ。
 少女というのはそこに居るだけで、そこに在るだけでドラマティックな存在であると思う。
 少女の恋はそれがどれだけありふれたものでも人を引き付ける。
 少女の悲劇は、少女の死はそれだけでドラマ性を持たせる。
 現実にありながらファンタジー性を持つ生き物、それが少女であると私は仮定する。

 例えば今、私が死んでしまったとしよう。
 ここでは私を大事に思う人たちの気持ちは度外視するが、世間一般に見たら
「未婚の一人暮らしのアラサー会社員が死んだ」
 とそれだけである。
 もうこの字面だけで悲壮感がすさまじい。話題にすらならない。当然ニュースにもならない。
 でも私が少女であればきっと違うだろう。
 少女とはそういう力を持っている。



 話を戻そう。

 とにかく今年一年で、私の中の少女は死んだ。
 本当はもっと前に死んでいたものを、ごまかしごまかし、だましだましやってきた。
 しかしもう私には、私の少女を生かしていく力はない。
 もちろん私は私のことを好きであるから、どうにか自分が愛せる自分を模索してきた。そうすることでより一層、やはり私は少女しか愛せないのだと、少女ではない自分は受け入れられないのだという現実を突きつけられた。

 私にもっとお金があれば、医療に頼れただろう。
 私にもっと時間があれば、若々しくいる為の努力ができただろう。

 でもどちらもない。
 私は普通の会社員として働いている。かけられるお金も時間も限界がある。
 仕事から帰ってきて、運動して、ゆっくり半身浴して、マッサージして、たっぷり七時間寝て。それが理想ではあるが、そんな事をしている時間があるなら会社で必要な資格の勉強を優先する。それに小説だって書きたい。ゲームだってしたい。
 死んだ死んだと言い訳しても、結局私は社会人として楽しく生きていく為に、自分の中の少女を殺す選択をとった。
 少女を生かす苦労や努力を放棄し、緩やかに死んでいく少女から目を逸らした。

  結局老化というのは夢や理想を捨てる事なんだと思う。
 いくつになっても若々しい人というのは、自分の夢を捨てたり諦めたりしない。
 それを見て「こんなもんだろう」「ここが妥協点だろう」と妙に大人ぶって現実のようなものを見て、したり顔で「今はいいけどね」なんて言うのが、私が一番嫌いな大人だった。
 その大人になってしまった。

 一方で大人として生きていく選択をしたことについては全く後悔はない。
 二十代の初め頃の私には何も無かった。
 学歴もなく、職歴もなく、やりたい事もやれる事もなかった。少女時代を若さだけで走り抜け、その若さすら消えつつある事に気付いたのがその頃だった。
 自分より可愛い子がたくさんいる中で、若い子は下からどんどん出てくる。このままではマズいと思った。
 勉強もしたし我慢もしたし妥協もした。でもそれは普通に学校へ行ってた人や、働いている人達が当たり前のようにやっていた事だ。
 みんながやっている事をやり、我慢している事を我慢し、身の丈を考えて生きる事は、私には大事な経験だったと思う。時には出る杭になる事も大事ではあるが、歯車になれるというのも同じくらい大事な事だ。
 この時「あとあと潰しが効くように」と行動していたおかげで、私は少女を殺す事ができたとも言えるだろう。



 とはいえ、大人になった自分を愛せるようになったとしても、少女の自分が死んでしまった事には変わりない。

 冒頭で言った通り、私は被写体をやっている。
 一昨年写真に写り始めた時から、終わりの事は考えていた。
 だからこそ広く撮られる事はなかったし、積極的にモデルとして動いていた訳ではなかった。その中で声をかけて頂いたりお仕事を頂いたものもあった。その全てを受ける事は出来なかったにしても、それはとても嬉しい事だった。
 しかしそれももう終わりにしようかと思う。
 友人とのやり取りで写真を撮られる事はあるかもしれない。でも、それ以外のものについてはやめようかと思う。

 椎名林檎の「ギブス」の歌詞に
”あなたはすぐに写真をとりたがる でも私はいつもそれを嫌がるの”
”だって写真になっちゃえば 私が古くなるじゃない”
 というものがある。
 写真の自分は若く美しいままで、現実の自分は劣化していく。
 現実の自分が劣化する事について、あきらめた。
 でもせめて、写真の中ではこれ以上劣化したくない。
 写真の中にいる自分くらい、好きでいたい。
 だから私は、被写体をやめようと思う。

 すでに来年何個か決まっているものがあるので、それについてはそのままやるつもりだが、来年の三月から六月位を目途に被写体でいることをやめる。
 なのでもし何か頼みたい事がある人は、できれば来年三月を目途に連絡してほしい。



 これは別に後ろ向きな選択ではない。
 自分で終わりを決められる力も、大人になったからこそ身についたものであると思うからだ。

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