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【小説】潮騒の家

高校生の私は、海が好きだった。実家は漁港のそばにあり、夜自転車を押して塾から帰るとき、いつも海沿いのほうから帰っていた。夜の海をわたってくる潮風に、よく前髪を持ち上げられた。沖に点在する船の明かりが、浜のほうから見ると夢のようにきれいだった。

浜に出て少し海風に吹かれた後、家へと向かう。脇道に自転車をとめて、玄関から入ると祖母に叱られた。

「また遅くなって、この子は。今日も海に寄り道しとったんかいね」
「してない」

嘘をついてごまかしたが、祖母はちゃんといつも見抜いている。

「嫁入り前の娘が、あんまり夜に出歩くもんでない」

私を大学受験のため塾に通わすことに賛成の母と、夜遅くなるから反対の祖母は、ひとつ屋根の下折り合いが悪かった。私はどちらかというと、母の味方だったけど、もう腰が曲がり小さくなってしまった祖母の味方も、ときどきしてあげないといけないような気もしていた。父は隣県で単身赴任の会社員生活をしていて、あまり家には帰ってこなかった。

食卓の上には、母が用意した私の晩ごはんが並んでいる。トビウオのお刺身に、筑前煮、わかめときゅうりとトマトのサラダ。母のつくる食事はおいしい。ご飯茶碗を手に取って、食べはじめると、母が話題に入ってきた。

「おばあちゃん、佳乃は今、受験のためにがんばっているの。この夏が山場なんだから、遅くなることもあるわよ。さいわいこのへんは治安がいいし、めったなことない」

言い切った母に、祖母はむっつりと黙ってしまった。母は私に訊く。

「佳乃は、それでこの間の模試はどうだったの」
「志望校はB判定」

そう言うと、母は安心したように「それなら」と言った。でも、これも嘘だった。本当はD判定だった。母は私のかばんを開けてまで、模試の結果をチェックはしないから、適当なことを言ってもばれることはない。

食べ終わったので「ごちそうさま」と言って、二階の自室へ下がることにした。階段を上っていく途中で、祖母と母がいつものように言い争っている声が遠く聞こえた。

私の住む町は、小さな漁港があるだけの、本当に小さな町だ。あとは町役場に病院、郵便局と、最低限の施設しかない。遊ぶ場所もなければ、カラオケだって漫画喫茶だってない。だから、若い子は、みんな高校を卒業すると、ほとんど県外へ行ってしまって、もうこの町には戻ってこない。

私の志望校も、県外だった。二階にいても低く聞こえる祖母と母の口喧嘩に、私はもううんざりしていて、早くこの家を大学入学という正攻法で出ていきたいとしか思えなくなっていた。祖母は、父の実母だから、母にとって祖母は姑にあたる。前に父が「ひとつの台所に女は二人もいらねえんだよ、すぐに猫みたいに喧嘩するんだから」とぼやいていたことを思いだす。

父はもう三か月も帰ってきていない。会社の仕事が忙しいらしい。昔はしょっちゅう帰ってきていたのに、今はかならず二か月は間が空く。もちろん仕事が理由だけど、やっぱり自分の母と嫁が喧嘩ばかりしているうちに帰りづらいんだろうとも思う。ああ、私も早く、こんな家を出ていきたい。そう思いながら、ベッドに寝転がった。

出ていきたい、その気持ちは本心なのに、私の成績は三年生の六月になっても横ばいのままだった。もし浪人などという最悪の結果になれば、来年もこの家にいないといけなくなるかもしれない。さらには、大学受験のチャンスを逃したのだから、この町にとどまって働けと言われるかもしれない。それは、嫌だった。

耳の中で、まだ潮騒が鳴っている。海が好きなのは、家の中で火花を散らす二人の家族のことを、ひとときでも忘れられるからでもあった。

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翌朝、朝食を食べると、私はすぐに家を出た。早めに家を出るのは、二人の口喧嘩にまた巻き込まれたくないのと、朝の浜辺を散歩するためだった。紺のセーラーと紅のリボンが、海からの風ではためく。スカートのひだも、海風に合わせて揺れる。

浜辺の岩場のほうでゴミ拾いをする山田のおじいちゃんが見えた。うちの近所のおじいちゃんだった。近づいていって、声をかけた。

「朝からおつかれさまでーす」
「おお、奥田さんとこの佳乃ちゃん、おはよう」
「おはようございます。今日も登校まで時間があるの。ゴミ袋、貸してください」

山田のおじいちゃんは、毎朝浜に落ちているゴミ、流れ着いたゴミを自主的に拾ってくれている。ここらへんの浜辺が綺麗に保たれているのも、おじいちゃんのおかげだった。それで私も最近散歩ついでに、たまにゴミ拾いを手伝っている。母にでもばれようものなら「学校で早朝勉強していると思ってたのに何事」と叱られるに決まっているので、家族には内緒で手伝っていた。

「佳乃ちゃん、いつもすまないねえ」

山田のおじいちゃんが渡してくれたゴミ袋に、落ちているポリ袋やジュースのパック、花火の残骸などを拾って入れていく。ハングル語で説明書きがついているプラ容器もあった。日本海の海だから、その向こうから流れてきたのだ。

「きゃっ」

私は思わず飛びのいた。大きな白い鳥の死骸があった。山田のおじいちゃんが後ろから覗き込んで言った。

「ウミネコかな。可哀そうだから、埋めてあげよう」

二人で白い鳥を砂浜に埋葬した後、私は山田のおじいちゃんに挨拶をして学校へと向かった。白い鳥の羽根にふれたときの、冷たくてかたい感触はしばらく忘れられそうになかった。

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高校ではその日体育があり、バスケットボールの試合があった。自分のチームの試合を終えて、体育館の隅に座って、ほかの子たちの試合を見ていた。床を通して、ボールのバウンドする音や、コートを駆け回るみんなの足音が響いてくる。

クラスメイトで仲良しの美沙が、体を寄せて話しかけてきた。

「向こうのコート、遠藤くんすごいシュート打った、今」
「ああ」

体育館を二つに分けて、手前のコートでは女子の試合が、奥のコートでは男子の試合が行われていた。美沙は同じクラスの遠藤くんが好きらしくて、彼が活躍するたびに「ほら、今入った」とか「見てみて、あのドリブル」とか声をかけてくる。

たしかに、端正で、スポーツができて、背の高い遠藤くんには、人目をひくオーラがあった。でも私は、まったく別の男子を見ていた。ボール争いに負け、コートを駆け回る男子たちから、ワンテンポ遅れ、たまにチャンスが来てシュートを打っても、必ず外してしまう有沢くんのことを、じっと見ていた。もちろん美沙には、そのことは気付かれもしなかった。

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体育の授業の後は、もうお昼の時間だった。女子更衣室で、汗をふいて制服に着替えると、体操服より制服のほうが風通しがよくてすーっとした。制汗剤の様々な香りであふれて胸が悪くなりそうな狭い更衣室を抜け出ると、私は図書室へと向かった。

人気のないがらんとした図書室は、少しかびくさい。そろそろと戸を開けて入ると、司書さんと目が合った。平日の三時まで常駐している司書さんは、四十代くらいの眼鏡をかけた女性だった。

図書室内を見わたすと、もうすでに私のお目当ての先客は来ていて、奥の閲覧席に影のごとく座ってページをめくっていた。有沢くんだ。そっと近づいて行くと、彼が振り向いた。

「あ、奥田さん」
「ねえ、今日は何読んでるの」
「……山本周五郎」

そう言って彼は、表紙を私に見せた。全集のうちの一冊らしく、布地のハードカバーに、本の箱までそばに置いてあった。こんな古い本、うちの高校で読むのはきっと有沢くんくらいしかいない。

「今日体育で、ボール取れてなかったね」
「嫌なこと言うなよ」

有沢君の切れ長の目が、迷惑そうに細められた。私のことを、いかにも邪険なものあつかいするような目をしている。

私が図書室で昼休みに有沢君と話すようになったのは、高校三年生の春――いまから二か月ほど前のことだった。たまたまその日は、市立図書館で見つからない本を探しに、めったに足を踏み入れない図書室に入ってみたのだった。

うちの高校の図書室は、本当に古い本ばかりで、最近の流行りのラノベなんかは一冊もなく、それゆえに生徒たちからも敬遠されていた。新しい本をいったいなんの方針なのかほとんど入れてくれない図書室だった。

私は、母が読みたいと言っていた古い作家の本が、市立図書館になかったので、ここならあるかと思って探しにきたのだった。とはいえ、初めて来たも同然の図書室では、狭いとはいえ、目当ての本を探すのは困難だった。

書架の間をうろうろして、困っていたら、閲覧席に座っていた有沢くんが見かねて助けてくれたのだった。母ご所望の幸田文の「きもの」という小説を、無事に見つけ出すことができた。

そのときの、いかにも迷惑だが助けてやらんでもない、という有沢くんの目と態度が、私は妙に気に入ってしまった。彼は非常に読書家のようで、後ろからのぞいて何を読んでいるのか聞くと、それはほとんど古い作家のようだった。新しい作家には興味がないんだ、と高校生らしくない老成したことを彼は言った。

「一緒にお昼、食べようよ」
「今日も?」
「そう。今日も」

私が誘うと、有沢くんは「しょうがねえなあ」という雰囲気を装って、私についてきた。図書室を出て、外の机が並んでいる席のひとつに腰掛ける。有沢くんもその隣に座る。

この席は、いつも有沢くんが一人で弁当を食べていた席だ。私はそれを知ってから、たまに昼休みに図書室に寄り、ここで一緒に弁当を広げて食べている。誰にも見つからなかったし、騒がれたことはなかった。そもそもうちの高校はカップルも多いため、いちいち女子と男子が一緒にいたからといって、騒ぐようなクラスメイトたちではなかった。

有沢くんの弁当は、おそらくお母さんに作ってもらっているのだろうけど、いつもシンプルだ。ごま塩をふりかけたごはんと、あとは卵焼きと冷凍からあげとおそらくこれも冷食のほうれん草の胡麻和え。キャラ弁まではさすがに作らないけど、毎日手を変え品を変え、違うおかずが入っているうちの母の弁当とは違うシンプルさが、私はうらやましくもあった。

適度な無関心は、過干渉とは反対の位置にあることだから。親にもそうやいやいかまわれていないだろう有沢くんの、落ち着いた感じは、すごく私の目に良いものとして映った。

知り合って二か月。そろそろ、時期として適当だ。有沢くんが、空になった弁当箱を巾着袋にしまうのを見はからって、私は声をかけた。

「付き合おうよ、私たち」
「……いいよ」

有沢くんの返事は簡潔だった。まるで「本貸して」と軽く頼んだことに対する返事みたいだった。今年これから受験のヤマなのに、とか、どうせ三月で卒業したら離れ離れになるじゃん、などと野暮なことを彼は言わなかった。

私たちは刹那を生きていて、今がすべて。今よければ、それがすべて。たぶん私はそういう時間を生きていた。それは有沢くんも、同じのような気がした。

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高校から家に帰ると、祖母が国会中継を見ながら枇杷を食べていた。甘い果汁の匂いが感じ取れて、思わず「ひとつちょうだい」と言っていた。

祖母は「たくさんあるからね。もらいもので」と言いながら、冷蔵庫から私の分の枇杷を出してきた。冷えた枇杷をむくと、甘いしずくがしたたり落ちる。この季節だけの、みずみずしく美味しい果物。

制服のまま座卓に座り込み、枇杷にかじりついていると、祖母が話しかけてきた。

「佳乃ちゃんは、やっぱり、高校出たら遠くに行ってしまうんね」

その声に寂しさがにじんでいた。私が出ていけば、そういえばこの家は母と祖母だけになる。二人は上手くやっていけるのだろうか、と思ったところで祖母が言った。

「ばあちゃんは、佳乃ちゃんが家出たら、老人ホームに入ろうと思っとる。そのために、お金も貯めてある。そろそろ、足腰も弱うなってきたし、あんたのお母さんの世話にこれ以上なりとうない」

ぽつりともれた祖母の本音に、私はああそうか、と思うと同時に、祖母もいろいろ考えていたんだな、と思った。とすれば、この家には、母一人が残されることになる。私にはきょうだいはいないので、父、母、祖母、私はばらばらになる。それは家族が解体するのと同じことになるのかもしれない。


「大学に行ってしまっても、こっちへ帰ってきたら、ばあちゃんのホームにも寄ってえな」
「うん、寄るよ、もちろん」

そう言いながら、私は枇杷の大きな種を皿に吐き出した。おいしい果実は食べられてしまった。うちの家族にも、美味しい果実そのものといえる幸せな季節があったのだろうか。そんなことを思いながら、小雨の降りだした外を、窓の内から眺めた。

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塾が休みの日曜日、有沢くんをいつもの海に連れて行った。有沢くんの家は、山側のほうにあるから、バスでうちの近くまで来てもらった。

二人で浜辺へ降りて、水平線を眺めた。
「このへんぜんぶ、俺の海」とふざけて私は紹介する。

「魚の匂いがするな」と有沢くんが言った。漁協が近くにあるので、潮の香りに混ざって、少しなまぐさい匂いもしていた。私自身は気にならなかったが、はじめて来た有沢くんにとっては、すぐに気づく匂いのようだった。

「……で、受験勉強はどうなの、奥田さんは」
「あんまり成績上がらない。駄目なんだけど、やる気が出ない。きっと、受かったところに行くしかないんじゃないかな」

「俺は文学部に行くんだ。ぜってえ食えねえから経済とか社会学部とかほかの学科にしたらどうだ、って担任は一応念押ししてくれたけど、親もとくに反対しないし、そっち行く。まあ、あんまうちは金ないから国立しか選択肢には入れられないけどな」

「将来は小説家になるの?」訊いた私に、有沢くんは首をふる。
「俺自身は、あまり空想って得意じゃなくて、もっと理路整然と説明できるものが好きだから。だから、学者には興味あるけど、どうかなあ、それこそかなり狭き門だしな」

私よりも、ずっと自分自身について分析できているようだった。二人並んで浜辺を見下ろす石階段に腰掛け、遠い海原と空をわたるウミネコの群れを見る。

「家から自由になりたいけど、家が壊れてしまうのも悲しい」

私はかいつまんで、家族がばらばらにこの先なるかもしれない話を有沢くんにした。有沢くんは黙って聞きながら、

「俺も、親いなかったらいいのにと思うことある」と言った。
「有沢くんちみたいに理解のある親でも?」
「うん。この世に最初から一人で生まれたのなら、良かったなあって。俺の親が俺に理解あるように見えるのは、親からしたら、俺のことが全くわからないんだと思う。

いつも、難しい本ばっか読んで、部屋にこもってるから。だから、もう放置されてる。でも、いっそしがらみが全くなかったら楽なのに、って思っちゃう」

彼のクールな物言いに、ちょっと不安になって訊ねた。

「私とのしがらみも邪魔?」
「そんなこと言ってない」
「だったら、ね」
「うん」

私たちのキスを、たぶん誰も見ていなかった。うす曇りの空を旋回するウミネコならば、もかしてはるか上から見ていたのかもしれないけれど。

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塾から帰って、部屋で漫画を読みつつまったりしていると、母が階段を上ってくる音がした。慌てて机の上のコミックを教科書の下に隠し、母のノックに備える。

「佳乃、入るわよ」
「はい」

母は私の部屋のドアを開けると「ちょっと話があるの」とベッドの上に腰掛けた。

「どうしたん」と私が訊くと、母はためらうようにしてから、話し出した。

「お母さんね、今度子宮筋腫の手術することになったわ。だから、二週間ほど入院する。あなたが受験の年にごめんね。佳乃が忙しくなる夏期講習が八月からでしょう。だから、七月のうちに終わらせようと思って」

「ずっと痛かったの?」
「わりとね。でも、ちゃんと手術して治るものだから、大丈夫。そして、その間、お父さんが帰ってきてくれるって。休みもとれたみたい」
「ほんとうに」

「佳乃にも、おばあちゃんにも、迷惑かけるけど、手術は早いほうがいいから。だから、お母さんがいない間、よろしくね。晩ごはんはおばあちゃんがつくってくれると思うけど、お弁当は用意できないから、自分でパンとか買って食べて。お金はちゃんと置いておくから」

父が帰って来るとは思わなかった。母とちゃんと連絡をとっていたのだ。母が部屋を出ていった後、私は勉強の気分でも漫画の気分でもなくなって、椅子に腰かけてぼんやりしていた。

解体していくと思った家族。でも、今はおそらく入院する母を支え合わなければいけないようだった。私は窓を開けて、流れ込む潮の匂いのする風を部屋の中へと招き入れた。寄り添ってくれる潮の香りにだけ、今は心が安らぐのだった。

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母の手術を控え、父は本当に隣県から帰ってきた。母と一緒に、入院準備のパジャマやタオルなどをかばんにつめて整えている入院前日の日のことだった。

「ただいまー、帰ったぞ」

玄関から父の大声がして、私はばたばたとスリッパをはいて玄関へ出た。体の大きな父が、真っ黒に日焼けして、そこにいた。私に向かって「土産だ」と袋を手渡す。父は、この地方三県にまたがって工事を行う土木会社の現場所長をしている。私が小さい頃は、この町から仕事場に通っていたけれど、今は隣県で一人でアパートを借りて住んでいた。土産袋には、母の好きなおかきが入っている。

「よく休みとれたね」と私が言うと「普段真面目に働いているからな」と野太い声で返事が返ってきた。普段女しかいない家に、父の気配が充満すると、少し緊張した。

「佳乃は今年高校何年だ?」
「三年だよ。受験生」
そのくらい把握してほしいと思ってしまう。
「そうか、大変だな。でも、大学は楽しいぞ、がんばれ」

ざっくりとした励ましを送られ、父のこの雑さは変わらない、と思った。父は居間から台所に上がり込むと、家族の分の素麺をゆでている祖母に声をかけた。

「おふくろ、ただいま」
「あれぇ、庸二。もう帰ったんかいね」

祖母がはしゃいだ声を上げる。実の息子に会えるのはやはり嬉しいらしい。祖母が大ざるに素麺をゆであげたものを座卓へ運び、久しぶりに家族四人で食卓を囲んだ。

場を盛りあげようと、父が会社での失敗談を話す。母と祖母がころころと笑う。久しぶりに会った父の前では、母と祖母はさすがに口喧嘩は始めない。私はもくもくと、ショウガとネギを効かせたつゆに、素麺をつけて食べた。途中で思い立って、つゆの中に生卵をいれたら、父が「それ美味そうだな、俺にも卵くれ」と真似してきた。

笑い声はしても、どこかぎこちない食卓だった。みんな内心、母の入院が気がかりで仕方ないのだった。その不安を埋めるために、父はふざけ、母と祖母は笑う。私は、ばらばらになりかけた家族が、すんでのところで、お互いをつなぎとめようとしているように思えて、複雑な気持ちだった。嬉しいのか嬉しくないのか、自分でもよくわからなかった。

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母の手術が終わった夜、有沢くんに電話をかけた。父が酒を飲み、祖母があとかたづけをしている居間には居づらくて、自室から電話した。有沢くんは電話に出て、

「寂しいの?」と聞いてきた。
「たぶんちがう。でも、なんだか落ち着かなくて、一人でいられない。会いたい」

そう言うと、有沢くんは少し考えて、

「チャリで佳乃のうちの近くまで行く。もうバス出てないし。お父さんとおばあさんが寝てしまったら、こっそり家を出られる?」と提案してくれた。

すぐさまうなずき、電話を切った。祖母は寝るのが早いし、父もあのペースで酒を飲んでいれば、すぐに正体がなくなって眠りこけてしまうだろう。私は夜が更けるのを待った。

夜中の十二時。家をこっそり出て、待ち合わせ場所の夜の浜辺に降りていくと、有沢くんは待っていてくれた。自転車は浜の上の駐車場にとめてあると彼は言った。

二人で手をつないで、そろそろと夜の波打ち際を歩く。こんなに真夜中の海辺を歩くのは初めてのことだった。ちょうど今日は半月で、月明りが波間にも揺れていた。

「家族って、なんだかわからない。いると邪魔だけど、いないと落ち着かない」

私がそうもらすと、有沢君はつぶやいた。

「近すぎるから、きっとそう思うんだね。たぶん佳乃が、俺と一緒にいて楽なのは、俺がまだ佳乃にとって遠いからだよ。二人がもっと近くなれば、佳乃も俺のこと、うざったくなるんじゃないの」
「そんなことない」
「そんなことある」

少し悲しくなって、離れようとすると、有沢くんは強引に私の手をとった。かさついた手のひらがあたたかい。

「お母さん、早く退院できるといいね」そっぽを向きながらそう言った有沢くんに、私はうん、とうなずいた。

一時間くらいで、私は有沢くんと別れて、自室の布団にもぐりこんだ。父にも祖母にも気付かれた気配はなかった。私は目をつむると、さっきのかわいた手の感触を思いだしながら、眠りに落ちていった。

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学校でも塾でも「この夏こそ天王山」という声がしきりに聞こえてくるようになった。勝敗や運命の大事な分かれ目がこの夏で決まるんだぞ、と先生たちは生徒の私たち以上に真剣な目をして言った。

数学のサインもコサインも、英語の文法も読解も、漢文も古文も何もかも、ごっちゃになる頭の中で、私はシャープペンを走らせて問題集を解きまくりながらも、どこかまだ必死になれない気持ちでいた。

このままずっと、高校生でいられたらいいのに、などと、やくたいのないことを思う。有沢くんといる時間はもちろんのこと、家族といる時間も、もう少し先伸ばしできたらいいのに。そうしたら、ばらばらだったパズルピースが、もういちど落ち着くべきところに落ち着くところを見られるかもしれないのに。

祖母は、父の運転する車に乗って、毎日母の病院へ行き、洗濯物をとってきているらしかった。腰を丸めながら、母の下着を洗濯機から取りだして、物干し場の竿にかけている祖母を見ると、人と人の間には、目に見える関係性だけじゃなくて、目に見えない思いというのもあるのだな、としみじみと思った。

母がいなくなって、祖母のつくる質素な田舎風の晩ごはんを、私も父も文句も言わずに食べた。母のほうが料理は上手だけれども、祖母の料理は、煮魚も酢の物も子どものとき食べた味とまったく変わっていなくて、どこか安堵する味だった。

私も母の入院先に、何度も見舞いに行った。母の過干渉が面倒だと思っていた私だけど、実際に手術後の母を見ると、肌つやにも白髪混じりの髪にも、老いを感じて、何も言えなくなった。

そっと目を開けて、私を見た母に、声をかけてみた。ずっとこれを言ったら、叱られると思っていたから、言えなかったけど、私は思わず口に出していた。

「お母さん、私、今付き合ってる子がいる」
「そう、なの」

母は少し弱い光を宿した目で、私を見ると思いがけない言葉を言った。

「それもいいかもしれないわね。おばあちゃんはもちろん、お父さんもお母さんも、あなたより先に死んでしまうもの。佳乃には、新しい家族が必要だわ」
「結婚なんてまだ早いよ」
「それでも、よ」

命に別状はないとはわかっていても、病床の母が口にする「先に死んでしまう」という言葉は、普段よりずっと重く聞こえた。

家族はいつの日か解体する。でも、みんな、新しい家族を作っていく。
私の脳裏に「解体」の「そのあと」がふいに浮かんだ。

有沢くんと私が、将来結婚するかどうかなんてわからない。二人はたぶん、春がまた来れば別々の県で生活を始めるはずだ。遠距離なんて難しそうなものができるのかなど、そのときが来てみないとわからなかった。

「果物、食べていいわよ。持って帰って、おばあちゃんと食べなさい」

ベッドの横のサイドテーブルに置いてある大きな果物かごを、母はあごでしゃくってみせた。母の友人という人が届けてくれたものらしかった。小さなメッセージカードがついている。「みっちゃん、早く良くなりますように。またみんなで会おうね」と書かれていた。

「これは外して置いておくよ」
ベッドの母にそう言うと、私は果物かごを持ち上げた。メロンに桃、マンゴーにぶどうとたくさん入っていて、ずっしり重かった。

またみんなで会おうね。私たち家族がばらばらになるときも、最後にはそう言えたらいいと思った。

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病院から帰り、家の座卓に果物かごを置くと、私は一人で海へと向かった。梅雨明けの太陽がめちゃくちゃにまぶしく、波間にその光が乱反射していた。

浜辺でサンダルを脱ぎ、寄せる波に足をつける。ざらざらした砂が、足の指の間をすりぬけて心地よかった。そのまま、少しずつ、足を沖のほうへ進めた。泳ぐ気はないから、少しだけ、少しだけ、足を夏の海に浸けるだけだ。

沖合に、白い船が一艘遠くを行くのが見えた。目をこらす。

私も小舟で、このまま大きな海へ出ていくのだ、とふいに思った。有沢くんだってそうだ。彼の小舟と、私の小舟。最初は並走できても、きっとどこかで、分かれ道がくるだろう。私たちの家族に、分かれ道がきたように。でもそのことを、過剰に悲しがってはだめだと思った。

いつまでも、同じ場所にはいられない。私たちは、生きて、出会って、別れて、また出会って、最後は死ぬ。だから、大丈夫だと、なんだかよくわからないけど、大丈夫なんだと、そう思った。

私は波に浸かりながら、携帯を取り出し有沢くんに電話をかけた。

「いま海にいる。すぐ来て」と。

長くて短い一生の、さらに一瞬しか一緒にいられない。その一瞬をせいいっぱい大事にすることが、今私にできること。

電話の向こう側で、有沢くんが「すぐ行く」と言ってくくっと笑った。

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