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【小説】ふたり(上)

厨房に立っているとき、思い出すのはいつも父の背中だ。ラードを入れて煙がたつほど熱したフライパンに、キャベツともやしを放り込んでひとふりする。使いこまれた鉄製のフライパンは、たぶん父がこの小さなラーメン屋「天竜」を身ひとつで始めたころから、ずっと変わらず使っていたものだ。このフライパンと、厨房付きの店を私にゆずるのを決めて二か月後、父は帰らぬ人となった。末期の胃がんだったのだ。


「女がこんな力仕事、やらんでもいいさ。お前はまだ甘くみとる」


誰がこの店を継ぐかまだもめていた頃、病床の父は入院した病院のベッドで、何度も何度も繰り返した。兄は会社員をやめてまで継がないと言った。弟はまだ大学生で仕送りがいる。結局、大手チェーンのカフェの副店長をしていた長女の私が、名乗りを上げた。調理も接客も好きだった。いつかは自分の店をもつために、と思ってカフェで働いていた。つくりたかったのは、誰かがほっとできる味で、それなら別にワンプレートの小料理でも、ラーメンでも、あまり変わらないと思ったのだ。そう言った私に、父は「お前はほんとざっくりしてるな」と天を仰いで、少し笑った。


私がいま野菜を炒めている厨房は、ラーメン屋「天竜」の奥にあって、店自体は今「すこしの間お休みします」の張り紙をしてある。その少しの間が、どのくらいになるのか、まだ未定ではあった。私がいましているのは、店のメニューひとつひとつの試作だった。調理師免許を持ってはいたが、まだ、どのメニューも、父と完全に同じ味がしない。せめて三大看板のラーメン、炒飯、餃子だけは、少しでも似せた味をつくりたかった。そう思って、暗い店内の奥の厨房に、深夜であろうと明かりをつけて、私はこの一週間ずっと、ラーメンや炒飯を作り続けている。

父の葬儀の日、常連さんたちが何人も来てくれて、お悔やみを述べてくれた。みんな店がなくなるのは惜しいといい、その反面、娘の私が継ぐ予定ですと言うと、驚いたような顔をした。はっきり「ねえちゃん、そりゃ無理だ」と口に出した人もいた。私の腕を信用してなかったわけではなく、それほど父の味のみんなファンで、なかなかそう真似しようにもできないものだと暗に言っているのが察せられた。


「もし、父さんの味が再現できなかったら、店はたたむよ」


心配する母に、私はそう言って、いままでの人生で感じたことのない気迫で、毎晩厨房に立った。父はレシピなど残さなかったので、すべては、厨房にある材料を使い、子供の頃から舌が覚えている父のラーメンに近づけようと、いろいろ工夫してみた。それでも、どこか、何かずれた味にしかならない。やってみて、今夜もだめで、あきらめて、私は調理場を片づけて手を洗うと、上着を着て外へ出た。


真っ暗な冬の空に、星が一面またたいていた。自転車にまたがって大きく息をはきだすと、たちまち白くなる。自転車のライトをつけ、道路を横切る野良猫を上手によけて、私は晋の家へと向かった。

付き合って6年になる恋人の晋の家で、私は半同棲をしていた。半、というのは週の半分は実家に帰って寝ているが、週に三回ほどは晋の家で、暮らしている、という意味だ。入籍の話も出ないこともなかった私たちだが、私が勝手に父のラーメン屋を継ぐことを決めたせいで、どうやら最近の晋は私との仲についても、いろいろ考えているようだった。それでも、6年の月日は長く、お互いに馴染んだ相手を、そう簡単に手放せるものでもない二人なのだった。
 

晋のアパートに着いた私は、合鍵でドアを開けて入ると、靴を脱ぎ捨てて彼の寝室へと向かった。だいたい晋は、この時間はいつも会社から帰って、仮眠している。ネクタイをゆるめただけで、ワイシャツも脱がないままベッドで熟睡している晋を揺り起すと、私は声をかけた。

「メシだよ」
「――ん」

晋は寝ぼけたまま、「なんだ、ちさとか」とつぶやいた。「あー何も食わんと寝てた」


そう言う晋に、私はリュックの中から炒飯のおにぎりをふたつ取り出す。水筒には中華スープがたっぷり入っていて、ふたをひっくり返してそれも注いであげる。


「すげー、人って、すっごい疲れると、飯食わんでも寝れるんだな」

そう言いながら炒飯おにぎりにかぶりついた晋を見ながら、私は恋人が食べ物を食べてるときって、犬みたいでかわいいな、と思っていた。

晋は、大手食品メーカーの営業職をしていて、夜遅くまで働き詰めだ。おいしいものを食べるのが好き同志だったので、始まった恋だった。そんな晋はとても優しく、ちさとはやりたいことをやればいいんだよ、と私がラーメンの試作を、父が遺した店を継ぐために始めたときも反対しなかった。ただ、自分も一緒にやる、とは言わなかった。

二人の行きたい道は、分かれ始めているかもしれない。私も、晋も、内心そう思っていることをお互いうすうす感じ取っていたが、ほかに気持ちに沿う相手がいるわけでもなく、宙ぶらりんのまま、私が晋の家で週3回眠る、そのサイクルはずっと続いていた。

ようやく眠さがひいていったような顔をした晋が、私に向かって言った。

(下につづく)

#小説


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