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【小説】つぼみ

枝に積もる雪の下で桜の蕾がふくらんでいくように、この人が大切なのだと、じょじょに大きくなっていく想いがあった。ただ、用心深い私は、相手を好きだという気持ちというものはただむやみにぶつければいいものでもないものだと、すでにいくつかの駄目になった恋から学んでいた。

彼のいちばんの大切な人に選んでもらえなかった私が大事にしていたことは、好きになった相手から、心からの信頼を勝ち取ることだった。それさえできれば、たとえこの思いが叶わなくとも、胸のつかえは少しは降りるだろう、そうもくろんでいたのだった。

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松井孝史に初めて出会ったとき、その身にまとうのびやかな育ちの良さと、まっすぐな心根が透けて見える様子に、私はすでに惹かれていたのかもしれない。大学に入学したばかりの私が、最初に決めたバイトは弁当屋だった。三人面接を受けたうちの、受かった二人が、私と孝史だったのだ。

おそろいのオレンジ色のエプロンをつけて、自己紹介しあったのを覚えている。おずおずと緊張しながら「山中あかりです。明京大学の英文学科一年です」と言った私に、孝史は「あ、俺はそこの歴史学科一年。同じ大学のよしみってことで、よろしくお願いします」と握手を求めてきた。びくびくしながら握った手のひらは乾いていてあたたかかった。

先輩バイトさんたちに怒られながら、バイトの初日を終え、私たちは並んでアパートまでの道のりを歩いた。会話から、二人がとても近所に住んでいることがわかった。

「この近くに、いい銭湯あってさ。アパートの風呂、あんまり熱くならないんだよ。俺、熱い風呂が好きだから、あの銭湯はまりそう」

「出た後は、コーヒー牛乳飲んだりしてね」

「そうそう、山中さん、わかってんじゃん」

孝史は本当に距離感をつかむのが上手くて、二人の間に緊張やこわばりをつくらせなかった。懐っこい笑顔と、自然と一緒にいる相手を丁寧に扱うやり方にとても長けていた。

この人いいなあ。ほんといいなあ。初めて一緒に帰っただけなのに、三叉路で手を振って別れるころには、私はもうそんな風に思っていた。ただ、いろいろと雰囲気の作り出し方が上手かったので、きっとこの人はもてるだろう、彼女だっていないはずがない、そういう結論にとりあえず落ち着いた。期待するのが怖かったのかもしれない。ただ、この人に私なんかは似合わないだろうな、と思い、そんなことを思う自分にびっくりした。手を振った孝史に背を向けて、その日は走ってアパートへ帰った。

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孝史とは、バイトのシフトの時間がかぶることが多くて、お客さんがいないときや、ほかの社員さんがいないとき、たまに立ち話をした。弁当にごはんをつめながら、隣でからあげを揚げている孝史に私は訊いた。というか、かまをかけた。

「松井くんは、お弁当彼女に持って帰ったりしないの?」

どきどきしながら答えを待った。孝史は簡潔に答えた。

「彼女、いないし。まあ、あげられたらあげたい相手はいるけどな」

「あげればいいじゃん」

「無理。死んじゃったし」

 私が思わず口元を押さえると、彼はくしゃっと困ったように笑った。

「山中さん、話しやすいからつい喋っちゃったじゃん」

「……好きだった人、亡くなったの?」

「うん。そう。初めての彼女だったんだけど、俺が高校一年のとき、事故に遭って。だからさー、俺、すっごい昔適当だったんだけど、今は違うのね。出会った人、一人一人、いつ会えなくなるかわかんないから、大事にしようと思ってんの」

「ごめん、へんなこと聞いて」

「いいよ」

そのままからあげを油の中から引き揚げ始めた孝史を見ながら、私はやっと腑に落ちた思いがしていた。彼の、独特の、周りの人をいつも気遣う感じ、大事にしている思いが伝わってくる感じ、それは、孝史の、亡くなった彼女にできなかったことへの思いから来ているのだ。それを、へんに私が気持ちを押し付けることで、乱したりしたくない。そのとき、静かにそう思った。と同時に、ああ、この想いは簡単には叶わないな、ということも直観した。

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高校時代の恋は、すべて私が気持ちを先走らせすぎたことが原因の自爆だったから、私はとても慎重になっていた。私はたしかに、孝史に恋をしていた。でも、彼のふるまいの端々から伝わってくるのは、亡くなった彼女を忘れられない、という気持ちだった。

写真を大事にとってあるのを見せてくれたこと。月に一度は、墓参りを欠かさないこと。彼女の実家にも、たまに焼香に訪れること。それらのことを、孝史はなんの屈託もなくバイト仲間である私に話した。

きっと、話すことで、私が孝史のことを好きにならないよう、牽制しているのだと私は感じた。そして、孝史はこうも言った。

「俺、大切な人ができるの怖いんだよね。だから、今彼女とかいらない」

もしかしたら、孝史は私の気持ちに感づいて、親切なことに念押ししてくれたのかもしれなかった。でも、そんなことはなくて、ただ心のままに本心を話してくれたのかもしれず、真実はわからなかった。

大事な人をつくるのが怖いと言いつつ、周りの人全員を、後悔しないように大切にしようとしている。そんな孝史の矛盾は、指摘することは容易だったが私は何も言えなかった。そして、月日だけが流れて行った。

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抜けるような青空は、夏の到来を意味していた。まだ7月だというのにうだるような暑さの中、バイト先の弁当屋に行くと、先に来ていた孝史が私に言った。

「夏休み、もらえるみたい、俺たち。お盆の間。山中さんは実家に帰るの?」

「うーん、どうしようかな。せっかく休みだし、バイト代も出たし、遊びに行くほうがいいなあ」

「あ、じゃあ一緒に俺とライブ行かない?社員さんからチケットもらったんだけど、どう見ても野郎と行く感じじゃないんだよな」

「私でいいの?」

「うん。山中さん、ギターの弾き語りとか好きなら」

「好き好き。行きたい」

「じゃあ決まりな」

私は内心びっくりしていた。まさか遊びに誘ってもらえるなんて思ってもいなかったから。でも、この春から夏にかけて、自分からは動かず、ただ孝史の気持ちを大事にして、好きだというそぶりを押さえていたのが良かったかなと思った。高校時代の自分は好き好きと気持ちを押し付けすぎて、いやがられたりふられたりしていたから。

走りだすような気持ちを押さえて、レジ打ちを間違えないようにするのが精いっぱいだった。こんなに、孝史と遊びに行けるのが嬉しいなんて思っていなかった。期待を捨てていたからこそ、なおさらだった。

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ライブの日は、すぐにやってきた。駅構内の待ち合わせ場所に現れた孝史は、ゆるっとした紺と白のポロシャツに、ベージュのチノパンというラフな服装で、私に「待ってた? ごめん」と言った。当の私といえば、あまりデートデートしすぎるのが恥ずかしくて、小さなドット模様の半そでシャツに七分丈のパンツを合わせた。デートじゃなくて、あくまで友達同士、そう言い聞かせながら、動悸を押さえた。

定刻通りに来た在来線の電車は、休日のせいか適度に混んでいたけれど、二人掛けの席に座ることができた。

「女の子と出かけると、うきうきするな。ずっとそんなことしなかったから、忘れてた」

「最後に出かけたのは、彼女とだったの?」

私が訊くと、彼は感情のない声で言った。

「うん、まさか、遊びに行ったその翌週に事故に遭うなんて思いもしなかったから、くだらないことしか話さんかった。もっとくさいこと言えばよかった。結婚しようとか。愛してるとか。後からだったら、いくらでもこうして話せるんやけどな」

その言葉で、彼がいまも高校時代のいつかの日に取り残されたままだということがわかった。それから孝史は、私を見て、まっすぐに伝えた。

「今日はライブ一緒に来てくれて、ありがとう。山中さんは、すごい、俺のこと、気を遣ってくれてるのがわかるから、いい子やなって思う」

「ありがとう」

少し照れながら、にこにこすると、孝史も笑いながら言った。

「みんな、思いやりあるように見えて、意外とないんだよ。大学来て最初に告白してきた子なんか、俺が彼女の話出して、やんわり断ったら、じゃあ私があなたの傷を埋めてあげる!とか本気で言ってくるの。かんべんしてよ、そういう押しつけがましいの。俺の失った恋を肴に、いつの間にか自分が主人公のヒロインになってるの。そういうの、たまらないでしょ」

聞いていて冷たい汗をかきながら、孝史が私のことはそういう女の子と一緒にくくってはいないということを確認して、胸をなでおろした。

「俺に必要なのは、時間だってこと、俺にだってわかってる。誰に言われなくても。山中さんは、とじた花のつぼみを、むりやりこじあけようとしないで、ひらくまでずっと時間をかけて隣で待っててくれる、そんな気がしたから、遊びに誘ったの」

「――私の気持ち、気づいてた?」

「うん。なんとなく最初から。でも、こうして俺が言うまで、言わないでいてくれたでしょ。俺、本当に今人を自分の懐に入れられなくて。でも、好いてくれて、ありがとう。それは単純に、嬉しい」

すべてお見通しだったのか、と恐れ入りながら、私は孝史ってほんと聡い人だな、と改めて思った。

「好きになってくれて、嬉しいけど、今の俺は、山中さんに何も応えてあげられない。時間がもっともっと立てば、違うかもしれんけど。だから、ずっと、俺にばっかとらわれないで、ほかの奴のいいところも、見てあげて」

「私が近くにいるの、邪魔じゃない?」

「うん、ぜんぜん邪魔じゃない」

「じゃあ、もうすこし、そばにいてもいい?」

「もちろん」

二人の汗ばんだ肩先が、ふれあうたびに、少し緊張しながら、電車にただ揺られていた。窓からの夏の陽射しが、楽しい季節を歌っているようだった。

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その日の夜のライブは、mimiという女性アーティストが、ギターを弾いたりピアノを弾いたりしながら歌うソロライブだった。小さな会場で、座席は椅子ではなくて床に座布団で、気を遣わなくていい、ゆるくて楽しいコンサートだった。

歌に合わせて、手をたたきながら、隣に今孝史がいること、そのことをふと実感して、そのそばにただずっといれたら、と祈るような気持ちになった。

私たちはいつか大人になって、この温かな夜さえ覚えていられるかわからない。ただ、こつこつと信頼を、孝史のために積み上げていきたいと思った。

孝史は花のつぼみと私の思いをたとえたけれど、私としては、割れやすい卵をひとつ、あやうい手のひらにのせているような気分だった。うっかり割ってしまったら、けして元には戻らない、でも、絶対壊したくないこの想い。

割らずにずっといられたら、最後はひよこが孵るだろうか。最上の結果を期待してはいけないことはわかっていた。でも、それでも、本当に大切な人に出会ってしまったとき、人はとても臆病になるのだとも思った。

会場のくるくる光る照明に、ときどき隣の孝史の楽しそうな顔が浮かび上がるのを見ながら、私は、コンサートのパンフレットを胸の前でぎゅっと握りしめた。この夜が終わらなければいいと、ただ願いながら。

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