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【小説】堤防と海(下)

『せりちゃんはかわいくないから、航平くんのカノジョにはなれないよ』

小学校の教室。私に向かってそう言い放ったのは、当時クラスで一番の美少女だった未希子だった。放課後、忘れた宿題をとりに一人教室に戻った私は、教室に一人いた未希子とはちあわせしたのだ。未希子の突然の言葉に目をまるくして絶句した私に、未希子は重ねて言ったのだ。

『せりちゃんは、航平くんと仲良くしすぎってみんな言ってる。学級委員を一緒にやってるからって、誰よりも近くにいるなんて勘違いだからね』

『別に、私は』

『せりちゃんは勉強ができるかもしれないけど、航平くんのほうがずっとずっとなんでもできるんだからね!一人占めしないでよね』

未希子はだーっと言葉を私にぶつけると、最後に「ふん」とそっぽを向いて教室を出て行ってしまった。一人取り残された私は、未希子の言葉を反芻し、憤慨し、泣きそうになった。私が一緒に学級委員を何度もやった航平のことが好きだったのは本当だった。

航平はみんなにわけへだてなく優しかったけど、どこか自分を特別に見てくれてる、そんな気もしていた。そんな心の中をのぞかれたようでとても恥ずかしく、身の置き所がなく、それから私はしばらく、クラスで一緒に行動する機会があっても、航平と顔を合わせられなかった。

中学校へ進学するときと同時に、両親の離婚があったらしい航平は、母方の実家の遠い県へと引っ越してしまい、私とはもう会う機会がなくなった。未希子は今も私と同じ中学にいて、あいかわらず気が強くて本物のアイドルみたいにきれいで、隣のクラスで幅をきかせている。

未希子は目がぱっちりと大きくて、髪はうっすら茶色に染めていて、抜けるように白い肌をしている。私は自分の顔が、あの日を境にだんだん好きじゃなくなってきて、黒髪を野暮ったく伸ばして、前髪も重くして、あまり顔が見えないように武装していた。未希子の目と全然違う切れ長の細い目に、顔に散らばったそばかす。

こんなコンプレックスだらけの顔で、モデルを引き受けられるとは、とうてい思えず、私はぎゅっと体を縮めて丸まって、そのまま眠りに落ちた。

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翌日、中学校がひけた放課後、私は堤防には行かなかった。あの男に待ち伏せされていたらと思うと、しばらく行くのをやめたほうがいいという結論に達したのだった。もちろん大好きな場所に行けないのはくやしく、やるせない思いだったが、とりあえず二番目に好きな場所に行くことにした。文化会館に隣接している図書館だ。

私はそれほど読書好きなわけではなかったけど、静かな空間が好きなので、図書館の自習室で勉強しようと思いついたのだった。図書館で今日の宿題を終わらせて、気分転換に自販機でアイスでも買って家に帰ろうと思ったのだ。

文化会館の入口から、図書館へのガラスの自動ドアを開けようと思った私は、ふと真横にあるホワイトボードに目を留めた。そこにはこう書いてあった。

「2F 県内作家 美術作品展会場5月23日~5月30日」

今日は29日だった。作品展。何があるんだろう。頭の中に浮かんだのは、絵とか彫刻だった。美術の時間は嫌いじゃなく、むしろ好きで、絵は描けないけど観るのには興味がある。ほんのちょっと、のぞいてみようか。私はそう思って、二階へと続く階段をゆっくり登っていった。

文化会館の二階にはたくさんブースがあって、私が最初に入った部屋は書道の展示室だった。背丈ほどもある大きなパネルの中に、墨くろぐろとした書が展示されてある。読めるものもあった。

「国破れて山河有り…あとはなんだっけ」

続きが思い出せないのが情けない。どの字も生き生きと紙の上で踊っていて、書いた人が書を楽しんでいることが伝わってきた。一回りぐるりと部屋を見て回ると、私は満足して次の部屋へと向かった。

次の部屋には「県内公募写真展」とタイトルが壁に貼ってあって、私ははっとした。喉がからからに乾く。

もしかして、この県の出身だと言っていた、人物写真が好きだと言っていた、昨日会ったあいつの写真があるかもしれない。

私はそれがあったとして、見たいのか見たくないのか、自分でもはっきりとわからなかった。撮られることは強烈に嫌だと思うのに、私をモデルにしたいと言った奴の写真を見てみたかったことに気づいた。

呼吸がうまくできなく、喉が乾く中、私は震える手で昨日もらった名刺と展示してある写真の名前を照らし合わせながら、牧村悟の名前を探した。写真展の会場は広く、探すのにも時間がかかった。でも、あった。一枚だけ、あったのだ。

「帰り道」というタイトルで、小さな子供と、若い母親が、手をつないで夕暮れの道を歩いている写真だった。二人の後ろには長く影が伸びていた。私は胸をつかれて、長くその写真の前で立ち尽くしていた。

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その夜、桃子と電話をした。

「私、なりたいものがない」

初めて友達にそう打ち明けると、桃子は笑った。

「せっちゃんが迷ってたの、知ってたよ」

「これだ、って懸けられるものがあれば、もっと強くなれる気がするのに、私にはまだ見つからないみたい」

私は、牧村悟の写真を見て、やりたいこと決まってる人ってすごい、と思ったのだ。あの母子の写真は、ぴしっと表現したいものが表現したいものとして撮れていて、そういうことができるのはすごい、と素直に思ったのだった。モデルになってほしいと頼まれたことも打ち明けたら、桃子はいいじゃーん、と微笑んだ。

「私、せっちゃんは雰囲気すごくあると思うよ。美人とは違うけど、なんかほかの女子と違うもの感じるっていうか。あの堤防で、海と一緒に写真に撮ってもらったら、きっといいものができる気がする。あの海、せっちゃんの大好きな場所じゃん。一高行ったらあの海にもしょっちゅう行けないわけだし。記念じゃん」

桃子にそう言われてみると、そうかな、という気がしてきて、でもやっぱりモデルなんて大それたことには自信がなくて、私は思わずベッドの上のくまのぬいぐるみを自分のもとへ引き寄せる。

「桃子も将来不安なときあるよ。そもそもちゃんと高校卒業できるのかなとか」

そう冗談ぶって私の笑いをさそうと、桃子は真面目な声に切り替えて言った。

「せっちゃんは、きっと、思ってる以上にいろんなことできる子だと桃子は思うよ。勉強に限らず。だから、大丈夫なんだよ」

それからしばらく話し込んで、ありがとうと電話を切って、私はベッドにもたれて窓から見える小さな爪の先みたいな三日月をずっと眺めていた。

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牧村悟は私がかけた電話口に出ると、ふふんと満足そうな声を出した。

「引き受けてくれるって、きっと思ってたよ」

 どうしてそんな自信満々なのだと言いたかったが、私はあの写真を見てからずっと気になっていたことを聞いた。

「『帰り道』のモデルも、街でスカウトしたんですか?」

「ああ、あれ、見てくれたんだ。あれは僕の奥さんと子供。いい写真でしょ」

「大学生じゃないんですか!?」

「大学生だよ。だから、学生結婚。でも、もともと奥さんもキャンパスで見つけてスカウトしたからね、君と一緒っちゃ一緒か」

「はあ」

どこまでも大胆なこの人に、ついていけるか自信がない。でも、私は、撮られてみようと思ったのだ。桃子の言うとおり、私の大好きなあの場所で。高校生になってこの町を離れてしまう前に。

「じゃあ、土曜日の朝7時に、あの堤防に来てね。待ってるから」

そう言って電話を切ろうとした牧村悟に、私は勇気を出して声をかけた。

「なんで、私だったんですか。ほかに、いい子、いっぱいいるのに」

彼は数秒考えたのち、言った。

「君が一番、あの海に映えたから」

じゃね、と一言ののち、電話は切れた。

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金曜日、中学校の人気のない階段で、ばったり未希子と出くわした。二人きりになるのは小学校以来で、お互いに天敵に出会ったような顔をしたのがわかった。よりによって、撮影の前日、一番会いたくない人に、と思っていると、未希子が口を開いた。

「せりちゃん、私ね、この前東京に遊びに行ったとき、読者モデルにスカウトされたの」

未希子はそう言って、私でも知っている有名な雑誌の名前を上げた。

「だから、中学卒業したら、東京に行くの。この町には帰ってこない」

「そう、よかったね」

 静かな声で私が言うと、未希子は言った。

「東京へ行って、もっともっときれいになって、せりちゃんの知らない世界いっぱい見るんだから。せりちゃんなんかに、絶対負けないんだから」 

私は何も言葉にならなくて、ただ呆然と未希子を見つめたあと、おそるおそる口に出した。

「なんで私なんかに負けたくないって思うの?」

「それは」

未希子は言いよどんだあと、きっと私を見ていった。

「未希子の初恋の人が、ずっとせりちゃんのこと、好きだったから」

そう言うと、未希子は、ばいばい、と言って、すごい速さで階段を駆け下りていった。

未希子は、自分にないものをたくさん持っている、と私は思った。美貌。東京まで出て行くパワー。なりたいと強く思えるもの。そのどれも、自分にはない。航平が私のことを好きだったかは、もう時の中にまぎれてわからない。私は、航平は、未希子のことが好きなのかと思っていた。

いまは確かめるすべはない。でも未希子でも、私のことをうらやましいと思ったりするのだ。私は大きく息をついて、階段をゆっくり一足ずつ登っていった。

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朝の海は、凪いでいた。私がセーラー服を着て堤防に行くと、牧村悟はもう待っていた。水面は太陽に反射してきらきらと光り、ゆっくりと青い波が堤防へ向かって、段々になって押し寄せていた。

「好きなポーズでいい、自由にして」

カメラを構えた牧村悟にそう言われたが、どういう風にふるまっていいかよくわからない。仕方なく、堤防の突き出ているほうに向かって横を向いて、髪を風になびかせた。次々と、シャッターが押される。朝陽がまぶしい。

「私、この町を、出たくないけど、出たい」

気がついたら言葉に出して喋っていた。桃子の気持ちも、未希子の気持ちも、わかると思った。

「なりたいものさえないくせに、外に出ていっていいのかわからないけど、もっと私、強い人間になりたい。だから、高校も、大学も、遠いところへ行く」

牧村悟が最後の一枚のシャッターを切り、「いいのが撮れたよ」と笑った。

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