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わたしの街にならなかった東京と、魔女の宅急便を見ていたあの頃

みなさんは、スタジオジブリの長編アニメ映画「魔女の宅急便」を何回ほど、観たことがあるだろうか。私が魔女の宅急便を繰り返し見ていた思い出は、思春期の頃と、東京で暮らしていた大学生の頃にほぼ集約される。

映画の中で「魔女の家に生まれた子は、十三歳になったら一人立ち」という母からの教えを受けて、少女キキは、小さな故郷の街を離れて大きな海の見える街で、暮らし始める。

私も、十八歳で、故郷の能登半島の街を離れて、東京で大学生活のスタートを切った。愛読していた作家たちの出身大学を調べて、そのほとんどが東京の大学を出ていると知った私は、どうしても上京したいと、受験をがんばって合格した大学は、都心・四ツ谷にあった。

最初に住んだのは文京区の女子学生会館。ウサギ小屋ほどの狭さで、古く、綺麗とはいいがたく、そんなに良い環境とはいえなかった。

一年生の春から、母校・上智大学の児童福祉サークルに入り、二年生の冬から、早稲田大学の児童文学研究会もかけもちした。それもこれも、児童文学に関する仕事をどうしてもしたかったから。子供と関わることと、児童書の研究と、両方から攻めようと思ったのだ。

東京の街は、人が多くて、故郷に比べたら、よどんだ空気をしていて、でも、毎日が無我夢中で過ぎて行った。仕送りのお金は、ほとんど本を買うことで使ってしまい、食費はいくらも残らなかったから、どんどん痩せた。

いっこうに見込みのない、苦しい恋もしていた。いまでもサークルのみんなと連れだって歩いた、新宿の夜には、私の痛い片思いの記憶が、染みついている気がする。

そんな中、近所のTSUTAYAで、ときどき魔女の宅急便を見ては、キキの姿を自分に重ね合わせていた。温かく包んでくれる故郷を離れて、自分を試すために、新しい街で、一人がんばるキキ。

都会の街で、最初は冷たく感じられた回りの人も、だんだんキキの味方になっていく。そして最後には――「落ち込むこともあるけれど、私、この街が好きです」と、両親への手紙でしめくくられる、素敵な映画。

――結論を言うと、私は、大学四年間ののち、東京に居続けることはできなかった。就活の時期ごろから、大幅に体調を崩し、逃げかえるように故郷・石川県の会社に、卒業ぎりぎりの2月に就職を決めた。

東京が私を拒絶したのではない。でも、東京は私の街にならなかった。この街で生き続けるのは私には無理だと、身体じゅうの声が叫んでいた。

その後、入院することになったり、快復してまた金沢でアルバイトからはじめたり、そんな日々を過ごすうちに、国立大学図書館のパート職員として拾われ、四年間弱働いたのちに、夫の転職で、富山県の今の街に来た。

何がどう、とうことはいえないのだが、住み始めてすぐに、この街が好きになった。スーパーに並ぶ生鮮野菜や魚介類の新鮮さ、どこかのどかな路地の風景、近所の小学校から聞こえる子供の声、公共図書館サービスの充実。そして、今働いている職場。

どれも、うまく言えないのだけど、なぜか、しっくりきている。土地の水が合う、といったらいいのだろうか。まだ来て二年目なのに、ずっとここで暮らしてきたような、ずっとここで暮らして年を重ねていきたいような、そんな気持ちにすでになっているのだ。

正直、前に夫と住んでいた街に、ここまで思い入れることはなかった。

今日は、急に仕事帰りに果物が食べたくなって、お気に入りのスーパーまで、夏の夕焼け空の下散歩がてらてくてく歩いていってきた。水色とオレンジに暮れなずむ空が、夢のようにきれいで、桃やりんご、温室みかんなどをどっさり入れたリュックを背負って、帰り道を歩きながら「あっ、ここが『わたしの街』かもしれない」って、人生で初めて思った。

キキが見つけた「落ち込むこともあるけれど、私、この街が好きです」――という言葉に値する、私自身の街を、私も齢三十半ばにして、ようやく見つけた気がする。

大学時代、あの頃見ていた夢も、まだまだ笑えるくらい途中で、自分の力不足にため息をつきたくなることばかりだけど、それでも言える。

「私、この街が好きです」と。






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