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【掌編】ただいま

三十歳の誕生日を前にして、生まれた街に戻って来た。見慣れているはずの街は、少しずつ開発が進むところは進み、さびれるところはさびれ、変わらないところはちっとも変わらない。戻って来た理由は、都会にはもうこれ以上住めないという体のサインを受け取ってのことだった。

大学生のころ、もう一生地元には住まないだろうと直感していた。なにもない田舎。いろんな未来が開ける都会。そういう単純な二項対立が私の頭の中にはあった。今思うと、浅はかなところもあるのだけど。親さえ言った。「田舎には仕事がないからね、たくさん仕事のある都会で就職したらいい」と。

がむしゃらに就活をがんばり、高い倍率を潜り抜けて、そこそこの大手の会社に就職できた。センスのいいスーツをお給料で買えたときは嬉しかった。友だちや恋人といろんなお店で食べ歩くのも楽しかった。コンサートだって、美術館だって、遊園地だって、ショッピングだって、都会は私の育った田舎にはない素敵な顔をくるくると見せてくれて、私はその魅力に中毒になっていた。

でも、そういう刺激的な暮らしの中で、私の体はちょっとずつ悲鳴を上げていたらしい。満員電車も、人込みの多さも、きれいとは言い難い空気も、こんなもんでしょと、それをスタンダードだと思い込んでいたけれど、疲労は少しずつ体に降り積もり、いろんな症状がしぜんと出て来た。

ある日私は、いろんなことのストレスのあげくに倒れ、入院した。もう続けらないと身体が言っていた。ちょうど恋人とも別れたところだった。親に相談すると、ちょっと返ってきたらいいんじゃない、と言われて、私は都会のマンションを引き払い、地元へと帰ってきたのだった。

実家は三方を山に囲まれ、市街地の真ん中に大きな川のある、自然豊かな街だ。地元駅に下り立ってすぐ、空気が澄んでいることに改めて気づき、驚いた。家で食べるひさしぶりの母の手料理は、体に染みて行った。毎晩寝る時間になると、カエルの合唱が静かな夜の中に響いていた。

帰ったら負けだ、といままでなら思っていた。でも今は違う心境だった。田舎へ帰ったことを、正しかった道として、生きていけばいいのだな、と素直に思えた。どちらが勝ちとか負けじゃない、どちらを選んでも、選んだほうを正しいと思って、生きていけばいいのだと。

そうして私は、ひと月くらいゆっくり過ごしたのちに、バイト探しを始めることにした。すぐ正職員で探さなかったのは、貯金があったのと、体がまずついていく仕事にしようと思ったからだった。ハローワークの求人票には、少ないこそすれ、いろいろな職種が載っていた。民宿での調理補助、保健センターでの健康診断業務、眼科での医療事務、老人ホームでの仕事、などなど。その中に、道の駅での直売所のバイトがあった。ちょっとやってみたいな、と思い応募することにした。

道の駅は、楽しい思い出が多い。旅好きだった私は、国内旅行をするたび、道の駅に寄ってその土地の名産品などを買い求めることを楽しみとしていた。野菜も、果物も、その土地でとれた新鮮なものが、手ごろな値段で売っている。

面接に行ったら、すぐに採用されて、翌日から働けることになった。初日は、直売所を先輩社員と回り、どこに何が置いてあるか覚えることから始まった。天然酵母パン、季節の山菜にきのこ、名産品の蕎麦。葉をしげらせた野菜たちに、まるまると光る果物。

どれも見ているだけで、少しずつ元気が出て来た。レジ打ちも商品の陳列も、大学時代にもスーパーマーケットの店員のバイトをやっていたときのことを思い出せば、たいして難しくはなかった。揚げたてのコロッケやアジカツを、職場の昼休みに買い求めては食べられるのも嬉しかった。

笹で巻いたお寿司に、ハンドメイドクッキー。地元の和菓子屋さんの酒まんじゅうに、おいしい地酒。こういうものに囲まれていると、なんだかわくわくした。都会で勤めていた会社では、広報業務に従事したこともあって、私はまだ今はバイトの立場だけれど、もっと観光を紹介する仕事をやってみたいな、この街で、という気持ちが生まれてきた。

ちょっとずつ、心が元気でふくらんでいく。もう大丈夫。そう思いながら、私は昔の友だちに連絡をとってみようと、ここへ戻って来て初めて思った。

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