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【小説】クリームパンをゴミ箱に

甘すぎる。これ、本当に、甘すぎる。

大学構内の売店で買ったクリームパンをひと口かじると、中から生クリームとカスタードクリームがいっしょくたの甘さとなって口内に広がり、私は思わず顔をしかめた。急いで無糖のカフェオレをストローで吸い、口のなかの甘さを消したが、二口目をこれから食べると思うと、少し気分がげんなりした。

そんな私の隣で、英文学科のクラスメイトである浜谷美咲はさっきからずっと、ずっと、飽きもせずに自分の恋人の悪口を、言い連ねていた。

「でさぁー、マコトの奴、本当にケチっていうか、ちっとも高い店連れてかないし、アクセも服も買ってくれないし? あたし、本当に、奴を男として見れなくなってきちゃったよ。てゆーか、美咲ちゃんすっげえ美人!って口説き落とされたから、つき合ってやったけど、ぜんぜんこっちにメリットないし。最低、あんな奴」

ぺらぺらと、立て板に水の勢いで、三か月前から付き合っている恋人「マコト」さんを、あっけらかんと罵倒する。

美咲はたしかに美しく、つやのある長い茶色い髪を巻き、ふさふさしたまつげに、いつも濡れている唇、爪にはネイルで彩りを忘れないような、そんな女子学生だった。

しかし、彼女の口から息もつかせず吐き出されてくる悪口のバリエーションに、私はいつも圧倒される。よくもまあ、そんな風に、こてんぱんに言えたものだ、とある意味では感心する。

「それにしてもさぁー」
「え?」

矛先が自分自身に向いたことに、私はやっと気づき、クリームパンの食べかすを口もとにつけた状態で、美咲のほうをまぬけづらで振り返った。

「文子(あやこ)はさー、なんかないの、カレシの愚痴とか。いっくらでも聞くよー」
「えー、あー、どうかな」

曖昧な笑顔をつくって、笑って見せる。高校生のときから、大学二年となる現在にいたるまで、四年の付き合いをしている町村昇平の話題にいきなりなって、私は焦った。

「えー、うーん、急には思いつかないけど」
「そうなんだぁー、いいな、ラブラブで」

美咲はそう言うと、私のほうに向きなおり、小悪魔、というような満面の笑顔で言った。

「文子、いい子だから、きっと思っててもあたしみたく言わないんだよねぇ。それって、偉いかもー」
「あはは、そうかな」

ぎくしゃくとした笑顔を浮かべ、私は応えた。美咲の悪口を聞きながら、まあ、私の恋人――昇平にも、それなりに問題はあるのだが、ここで嬉々として彼の悪口を言う気はなかった。

ひとしきり言い終えてしまうと、美咲は「じゃね、また連絡する」と言って、午後の授業が行われる5号棟のほうへ去って行った。私は溜息をつくと、もう食べる気になれなくなったクリームパンを、売店のゴミ箱にビニル袋ごと捨てた。ガコン、とゴミ箱のふたが閉まる音がして、それっきりだった。

授業が全部終わって、家に帰ったのは五時過ぎだった。私は、都心の大学に通い、多摩地区にある実家マンションで、母と暮らしている。父は半年前に、病気で死んだ。父がいなくなってしばらく、気がぬけたようにぼうっとしていた母が心配だったが、最近は少し活動的になり、安心しはじめているところだった。

「ただいま」

狭い玄関のたたきで、靴を脱いで入った私は、驚いた。廊下にゴミ袋の山がいくつもできている。掃除機の音も低く聞こえた。ゴミ袋が積み重なっていたのは、生前父が使っていた部屋だった。嫌な予感に、その部屋のドアノブをつかみ、乱暴に開けた。

「お母さん、何してんの」

父の部屋はきれいに片づけられて、物もないし、たくさん集めていた本も書棚から消えていた。最低限の家具だけが、残っている状態で、畳の上にも、何もなし。

「何してんの、って。お父さんの部屋、片づけようと思ったのよ。――あれからもう半年も経ったんだし、もうそろそろかな、と思って」

そう答えた母の髪には、だいぶ白いものが混じっている。目じりのしわが、疲れと老いを感じさせた。

「え、まだ半年じゃない。もう少し、このままにしておいても、良かったんじゃない」

私の問いに、母はこめかみを指で押さえると、言った。

「思い出に囲まれていると、母さん、次の未来へ行けないのよ。潔く、片づけてしまわないと、いつまでも、何もできないから」

――言えることがなくなって、私は口をつぐんだ。わりと仲の良かった両親の関係を思い返して、私の胸は痛んだ。

「まだ掃除が時間かかるから、文子、晩ごはんつくってくれる? 冷蔵庫に、鶏肉があるから適当に」
「ただ焼くのでもいい?」
「なんでもいいよ」

もともと母は片づけ魔ではあったが、あんな風に、長年連れ添った相手の私物も、死んで半年で片づけられる人だったのだ。そう思うと、母の潔さが、どこか冷たいものに思われた。

翌日は土曜日だった。私は、昇平に呼び出されて、いつも待ち合わせするショッピングビルの入口にいた。うっすら雨が降って、私の透明なビニル傘に、雨粒模様が描かれる。

約束の時間を、十分ほど回って、昇平が現れた。

「おー、文子。お待たせ」
「待ったよ」
「そうでもないだろ」

たわいないやりとりを交わして、私たちは、ビル内に入る。店内入口には、マネキンがビキニやセパレートの水着をつけて三体立っていた。もう夏になるのだ。

ぶらぶらとお互いのこの一週間の出来事を話しながら、カラフルな洋服の森へと私たちは入っていく。昇平は、このショッピングビルでのデートが大好きだ。彼はいつも、今時の髪型をして、新しい服に身を包んでいる。顔立ちはそこまで整っているわけではなかったが、無駄に清潔感だけはある。

メンズのブランドの店内につかつかと昇平は入って行くと、ハンガーにかかっている半袖シャツをいくつも見て「これいいなー」「そっちもいいな」と迷っている。このあとの展開が、予想できて、私は心の中で溜め息をついた。

試着を終えると、昇平が私のところに戻ってきて、そっと耳打ちした。

「文子、俺、今月金なくて。でも、このシャツとワークパンツがどうしてもほしいんだ。金、貸してくんない? 二万円ほど」

またか。やっぱりか。私は失望した。昇平がこのビルでデートしたい、というときは、きまって、私に服を買って欲しいときなのだ。昇平は、親と仲が悪く、都内に実家があるのにもかかわらず、家を出て一人暮らしをしている。

そのせいで、バイトで働いたお金も、あっという間に家賃や生活費で消えてしまうらしく、私に金をせびってくるのだ。昇平からしたら、実家にいて、バイト代はまるまるお小遣いとして使える私は「お金もち」なんだそうだ。父が死んで、遺産の一部を母からもらったことも、話さなければよかった、といまは後悔している。そうして、そんな昇平が、私にお金を返してくれたことは、いまだに一度もない。

「ごめんな。ランチは、おごるから」

そう言われて、二人でレストランフロアの、エスニック料理店に入り、昇平はカオマンガイ、私はフォーを注文した。

二万円の洋服代と、二千円の食事。全然、割りに合っていない。

でも、私は昇平の顔立ちが好きだった。ちょっと低い声も、いつもおしゃれな洋服を着ていることも、傍から見たら「なんで文子のような地味な子に、昇平くんみたいなイケメンが恋人として一緒にいるの」ということらしい。美咲にも言われたことがある。

でも、内実はこうなのだ。私は一方的に、金を巻き上げられ、でも、昇平のことがなんだかんだ好きだから、切ることはできない。

美咲みたいに、昇平をこの場で罵倒できたら。
母のように、連れ添った相手の思い出ごと、ぜんぶ片づけてしまえたら。

そう思うのに、私はどうしてもそれができなくて、ただ、熱いフォーを「美味しいね。ごちそうしてくれてありがとう」とすすることしかできない。

そんな自分は、ちょっと正直情けないと思うのだが、破顔して笑う昇平を見ると、もうなにもかもどうでもよくなってしまうのだった。


月曜日の正午。大学での英文法の授業が終わり、人波にもまれながら大教室から出て来た私は、女子トイレに入った。週末、急に生理がきて、今日はひどく下腹が痛かった。便器に腰掛け、痛みを個室でこらえていると、ふいによく知っている声が聞こえた。

「ねー、ちーちゃん、山根文子むかつかない?」

美咲の声だ、そして私の話題だ、と気付くと、体温が冷えていくような気がした。

「あー、あいつ、なんかさー、空気読めてないよね」
「そう! そうなんよ!」

美咲の相手が誰だかわからなかったが、きっと英文科の女子の誰かだろう。

「文子さぁ、あたしがマコトの愚痴言っても、全然乗ってきてくんなくて。自分はそんなダメ男とは無縁ですー、あたしは幸せですからー、みたいに涼しい顔して、絶対自分の男の悪口は言わないの。マジ、そういう態度、腹立つ」

「あー、そういう女だよね、山根文子って」

美咲と誰かが、きゃははは、と高い声で嗤うのを聞いて、トイレから出ようにも出られなくなった。

「文子の彼氏、わりとイケメンでさ。なんであんな女に、あのイケメンがつくのか不思議でさ」

「あー、それはね、きっとほかにも女がいるんよ。きっとそうなんよ」
「そうとしか、考えられんよね」

いますぐ個室のドアをぶちやぶって、美咲ともう一人の女に、私が聞いていたことを、教えてやりたかった。なのに、体は固まって動かずに、ただただ、下腹が痛く熱を持っていく。どろりと、便器の中に血の固まりが落ちる感触がした。

笑い声を立てたまま、美咲たちは、化粧直しを終えたのか、トイレから出ていったようだった。私はようやく、個室から出ると、化粧鏡のもと、自分の顔を見つめた。

まつげでふちどっているとはいえ、地味なひとえまぶたの、血色のない女の顔が映り込む。昇平に、ほかの女がいるかもしれない、という疑いは、私もかけたことがないわけではなかった。だけど、それを自分の中でくすぶらせるのと、事情も知らない他人に、言われるのはまた別のダメージだった。

暗い気持ちのまま、家に帰ると、母がぼんやりとダイニングテーブルの椅子に腰かけてテレビを見ていた。

「ただいま」
「ああ、おかえり」

どこか遠くを見ているような母の表情が心配になり、母の顔を覗きこむと、母は私の顔に視線の焦点をようやく合わせると、言った。

「文子、少し前から思ってたんだけど」
「なに?」
「大学を卒業したら、あなたは家を出なさい」
「なんで。……なんで。家賃とか、勿体ないじゃない」

母はこめかみを押さえた。頭痛をこらえているのかもしれなかった。

「お父さんがいなくなって、私、東京にいる意味を見出せなくなったのよ。このマンションは、あなたが卒業して、一人立ちしたら、売るわ。そうして、私は、自分のふるさとに帰りたいのよ。あちらには、友だちだって何人もいるし。寂しいのはもう嫌」

私は絶句した。母の故郷は島根県で、父に見染められて東京にお嫁入りした。東京は、ビルだらけで、落ち着かず、母の両親のお墓がある島根県に、いずれ骨を埋めたい、といっていたのも知っている。だけど、私は大学二年生だ。母と離れるのが、二年後なんて早すぎないか。

私はどこかで、母がずっと面倒を見てくれるのだ、と、成人になっても勘違いしていたのかもしれない。母には母の人生がある。ずっと、ゆりかごのなかで赤ちゃん然としていても、仕方ないのかもしれなかった。

美咲のあんな言動を聞いた日に、母からも引導を渡されるとは。今日はどうも、厄日のようだった。私が関係を切りたかったのは、切る勇気がほしかったのは、美咲や母ではなくて、昇平のはずだったのに、どうしてこんなことになるんだろう。

「――今夜は、友だちの家に、泊めてもらうね」

私は、ふらふらとボストンバッグに着替えをつめこむと、まだダイニングテーブルの椅子に座ったままの母を置いて家を出た。

もちろん、泊めてもらう女友達なんかいなくて、私が向かったのは昇平のアパートだった。

外階段からアパートの二階に上り、ドアベルを押すと、昇平は「おお」と言ってすぐに出て来た。サイケな柄のTシャツが似合っていた。

「ね、今晩泊めて」

そう言うと、昇平は頭をぽりぽり掻いて「なんかあったん」と訊き返してきた。

「あった。やなこといっぱい。でも、今は話したくない」
「まあ、入れよ。散らかってっけど」

昇平の後ろについて入った狭いワンルームは、洗濯ものとマンガ雑誌が床に散らばり、足の踏み場もなかった。かろうじて、ベッドの上にスペースがあったので、そこに腰掛けると、昇平が隣りに座って、肩に腕をまわしてきた。

「文子ちゃーん、どしたの。誘ってるの?」
「馬鹿。ほかに座るとこないんだよ」

がははと昇平は肩を揺すって笑い、「飯食った?」と聞いてきた。まだ、と応えると「チャーハンつくってやるよ」と答えが返って来た。

ほどなくして、油で飯を炒める音が聞こえ、化学調味料の香りがして、私の前にチャーハンの皿が本当に運ばれてきた。

一口食べると、塩コショウの濃い味が美味しくて、私はついでもらった麦茶と交互に、スプーンを口に運んだ。食べながら私が涙ぐんでいるのを見て、昇平は、
「やべっ! 泣くほどうまかったん?」
と茶化してきた。

ちげーよバカ、と言いながら、私は顔を膝に埋めた。

クリームパンをゴミ箱に捨てるように、昇平のことを捨ててやりたかったのに、どうして私は今ここで、昇平の作ったチャーハンを食べて泣いているのだろう。

クリームパンをゴミ箱に捨てるように、美咲や母に捨てられたくはなかったのに、どうして私は今ここで、昇平しか頼れる人がいないんだろう。

「文子、まじで大丈夫?」

昇平の手のひらが、私の頭の上に乗せられる。その体温を、頭のてっぺんに感じながら、私はいつまでも、この小さなワンルームの一角でうずくまり続けるのだった。


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