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【掌編】記憶

大人になった今でも、スーパーのお総菜売り場へ行くと母との思い出がよみがえる。料理の得意でなかった母が用意する食卓に並ぶのは、いつもお惣菜だった。それを決してよくないと言っているのではない。世の中には、ろくに食べさせてもらえない子供すらいるのだから、ちゃんとごはんとおかずと(インスタントだけど)お味噌汁が出て来たのだから、文句なんて言うほうが間違ってる。

ただ、今でもお惣菜を何か食べる機会があって食べると、三年前に亡くなった母のことを思い出さずにはいられないのだ。いかフライや、春雨サラダ、からあげに、えびグラタン。夜仕事から帰ってくると、いつもスーパーの袋をがさがささせて、特売だったのと嬉しそうに笑いながら、お惣菜のパックを出してくる、そんないつもの母の笑顔。私は女手ひとつで私を育ててくれた母のことが大好きだった。

ただ、そんな母に育てられた私だから、料理なんてものは、まるでできなかった。今の夫となる人がかつて恋人だったとき、私がはじめてつくったお味噌汁に、出汁というものは入っていなかったのだ。粉のだしの素があることすら、知らなかった。彼は黙ってわかめと豆腐の味噌汁を飲んで、それから私に、出汁のことを責めるではなく優しい口調で教えてくれた。

私は結婚生活を送るうちに、それなりに(下手ではあるけど)手料理というものがつくれるようになった。でも、なんだかこんなぬくもりのあるものをつくっている自分が居心地が悪くって、ときどきできあいの、味の濃いお惣菜が無性に食べたくなる。コンビニ飯を、袋スナックを「体に悪い」という旗をかかげて叩く人には、いつも複雑な気持ちになる。

実際そうなのかもしれないけど、体に悪いのかもしれないけど、親からの愛情を手料理ができるできないではかるのは、違っていると私は思う。ああ、違う、誰も私の母を責めてない、そのことは知ってる、ただ私が、母のことを好きなだけ。誰からも、母を否定されたくないという、それだけ。

レンジでチンして食べるお惣菜は、いつもちょっぴり、私にとってはせつない味だ。母への愛情をただ、思い出してしまう、そういう味だ。

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