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【小説】ベランダにバジル

一週間前、二人で住んでいたマンションから、姉の依織が自分の荷物一式を運び出した。妹の私は、次の借りる先が決まるまで、ここに残る。依織はこの夏に結婚式を挙げるので、婚約者の斎藤さんと暮らしはじめたのだ。

私と依織は、北陸の実家を出て関西圏の大学を卒業したあと、そろって大阪の会社に就職し、吹田市で家賃や生活費を折半して二人で暮らしていた。

それぞれ一人暮らしをするよりは、安心だし費用も抑えられるでしょう、と依織が提案したのだった。

ごちゃごちゃと置いてある家具や、体のサイズがほぼ同じなので二人で着まわしていた服のなかから、依織はちゃっかりお気に入りのものを持って行った。

計算外だったことが二つあった。

ひとつは私も相当気に入っていた空色の地に白いハトの絵が描いてあるカーテンを持っていかれたこと。

そしてもうひとつは、凝った手料理が得意な依織が、ベランダのハーブの鉢をほとんど新居に持っていかず置いていったことだった。

仕事が立て込んでいた私は、新しいカーテンを買いにいくことがなかなかできず、なにもかけてない窓に差し込む初夏の太陽の光を浴びてこの一週間過ごしている。幸いここは三階で、ベランダも胸の位置ぐらいまでの高さがあるから、人に見られることはないが、しょっちゅうそこに置いてあるハーブの鉢たちと目が合う。

こまめに水をやる姉から置いていかれた緑の鉢たちは、ちょっとしおれて元気がなくなりかけているみたいだ。

気まぐれでわがままで、でも天真爛漫な依織に『この先も一緒』だと選ばれたものと選ばれなかったもの。

その二つに何の差があるのだろう、と私は少し苦い水出しアイスコーヒーをすすりながら考えた。

依織は結婚が決まったが、私は二年間付き合った恋人から振られた。ざわざわしてうるさい大阪駅の御堂筋口で、佐久間くんは私と視線を合わせず、スマホをいじりながらうざったそうに答えた。


「だって、実織はしょっちゅう休日出勤になって俺と出かけられなくなるし、女らしい恰好もしないし、それに……」

もう終わりだと気がゆるんだのだろうか、佐久間くんは最後にひどいことを言い放った。


「実織は手料理だって、ろくに作ってくんねえし。会社の昼休みにさー、こないだ同じ課の女子と食堂で一緒になったら、すごい丁寧な弁当作ってきてんの。実織、そういうこともやらないじゃん。だから結婚とかはないかなって」

言われたことの意味がわからないまま、咀嚼しようとしているうちに、佐久間くんは「じゃ」と言って私から目をそらしたまま、ネオンが輝く夜の雑踏へ消えていった。

佐久間くんが私に近づいてきたとき「仕事のできる女のひとって最高ですね」「しっかりしたダブルインカムなら、男性側も安心してプロポーズとかできそうですよね」と言っていたのはなんだったのか。

ここぞというときに選ばれるものと選ばれないもの。むしゃくしゃしてコンビニで発泡酒とチーズ鱈を買って帰った。カーテンのない部屋から見える、こうこうとした満月を肴に飲んだ。くやしかったが泣かなかった。


料理は、まったくできないわけではない。けれど依織と同居していたときは、手料理の得意な彼女にまかせっきりだった。依織は会社員のかたわら、大手の料理教室に通い、ちゃくちゃくと資格をとっていた。普通の家庭料理やパンのコースだけでなく、アジア料理や本格的な洋風料理も習っていた。

依織の手料理が何皿も食卓に並ぶ、そんなマンションに帰るのが毎晩楽しみだった。女でもお嫁さんがほしい、とこぼしていた年上の会社の先輩の気持ちがわかるような気がした。でも、依織は斎藤さんのもとへと行ってしまった。

佐久間くんとの失恋から立ち直るころに、ベランダのハーブが枯れかけそうになっているのに気づいて、あわててたっぷり水をやった。今日はカーテンも買ってこようと思って、ホームセンターに出かけた。

ホームセンターのカーテンコーナーには、ところせましとさまざまな柄のカーテンがかかっていて、私はどれにするか迷いながらも、楽しい気分になった。

失ったら、また見つければいい。その単純な理屈が、佐久間くんのこととも重なり、あんな私のことをちっともわかっていない薄情なやつではなくて、もっといいひとを探そうと思えた。

いや、そもそも探さない手もあるな、と私はまた思った。カーテンのない窓辺も、なかなか風情があった。ベランダの緑がすぐに見えて和めるし、昼間はまっさらな青空、夜は月が見える。着替えなどは見えないところですればいいことなのだし、カーテンが要るというのも思い込みなのかもしれない。


もちろん、男だって自分が要らないと思えば要らないのかもしれない。よいものが見つからないうちは、このままでいい。私は、もうしばらくカーテンなしの生活を続けようと思った。


会社の昼休み、同期の桃花ちゃんと偶然食堂で一緒になった。桃花ちゃんとは、新卒のときに同じ部署に配属されて、慣れない社会人生活のスタートを励まし合ってきた仲だったから、いまでも会えると安心感がある。戦友といってもいいくらいだ。


おろしそばとミニカツ丼のセットをトレイにのせた桃花ちゃんは、食堂のテーブルで私の真ん前に腰を下ろすと、開口一番言った。


「ね、実織ちゃん、トマトいらない? うち、実家が農家なんだけど箱いっぱいに送られてきちゃってさあ。女の独身一人暮らしで、食べれるかっつうの。そう親に言ったら誰かに分けろっていうんだけど、もう持て余してどうしようと思って」


「持て余すかあ。わかるよ。うちもさ、姉が結婚するからってこないだ同居していたマンションから先に出ていったんだけど、ハーブの鉢をいっぱい置いていっちゃって。ハーブ使った料理なんてめったにしないから、どうしようかと思ってんの」


「ハーブ、何あるの?」
「ええっとね」


私はベランダの鉢たちを思い浮かべた。


「フェンネルでしょ、ミントでしょ、紫蘇でしょ、あと、それからバジル」
「バジル!」

桃花ちゃんは目をきらきらさせた。


「トマト、もたないからいっそ全部トマトソースにしちゃおうかと思って。そしたら冷凍できるしさ。そこにバジル刻んで入れたら、たぶん美味しくなると思う」


「すごい名案じゃない? どっちの家でやる?」
「実織ちゃんちに、私トマトのダンボール持って、行くよ」


私たちはきゃっきゃと笑い合った。女友達と一緒の料理なら、きっと楽しい。男に作る料理とは違って、へんな女らしさや媚びを意識しなくていい。

私も日替わりランチを平らげると、スマホのカレンダーアプリを立ち上げて、桃花ちゃんを家に呼ぶ予定日を考え始めた。


桃花ちゃんが私のマンションのリビングに入るなり、笑い出した。


「なに、この部屋。カーテンないの?」
「やー、相当気に入るものが見つかるまで、要らないかなと思って」

私がそう言うと、桃花ちゃんは大きな口を開けて笑った。


「いいね、実織ちゃんのそのざっくりかげん、大好きよ私」

桃花ちゃんがリュックからエプロンを取り出すのを見て、私は「そっか」とつぶやいた。


「汚れてもいい服じゃないと、トマトソースついたら困るもんね」

私はそんな服がないか、タンスをひっくり返すことにした。しかし仕事に着るオフィス用の服しか、あさってもあさっても出てこない。

困ったな、と思っていたところ、タンスの奥から丁寧に折りたたまれて、わざわざビニール袋に入れてある服が出てきた。

広げてみて、それがなにかすぐにわかった。佐久間くんと付き合い始めたころ、彼が買ってくれたTシャツだった。薄いグレーの地に、ハワイの風景がプリントされているきれいめのTシャツ。

付き合ったばかりの頃は嬉しくて、このTシャツを着て、二人で応援しているバンドのツアーに行った。

いつか二人で、ハワイに行こうねとも約束していた。

でも、でも。
――このTシャツ、もう要らない。


私がそのTシャツに着替えてキッチンへ戻ると、トマトの下処理をしていた桃花ちゃんは目を丸くした。


「えっ、それ汚れていいやつなの?」
「うん、いいんだ。どんなにソースがついたってかまわない」

そっか、と言うと桃花ちゃんはボウル一杯のトマトをざく切りにし始めた。


「実織ちゃん、バジルとってきて」
「りょうかーい」

私はベランダに出て、バジルを摘んだ。このあいだから、水をたっぷりやっているから、バジルの葉は六月のおひさまを受けてきらきらと輝いていた。

もう、少しも残らないほど摘み終えて、キッチンに戻った。桃花ちゃんがトマトを炒めているフライパンからは、ガーリックの香りがして食欲が刺激される。

私はバジルを刻むと、フライパンの中に散らした。桃花ちゃんと交代して、フライパンを木べらでかきまぜているとき、ふいに大きくかきまわせすぎて、トマトソースがTシャツに大きくはねた。

もう要らないから、汚れてかまわない。
でも、いままで楽しかったこともあったのは、本当。

出来立てのトマトソースで、パスタをつくって桃花ちゃんと食べた。バジルの風味が、トマトとガーリックと合わさってひき立っている。残りもいっぱいあるので、ジップロックに分けていれて、冷凍庫に入れた。桃花ちゃんは冷凍したまま、実家にも送ると嬉しそうに笑った。


私がお気に入りのカーテンを見つけたころ、依織から電話があった。


「ね、ベランダのハーブたち、置いていったけど引き取りにいっていい?」

どういう風の吹き回しかと思っていたら、依織は言った。


「あのね、斎藤さん、ハーブとか薬味とかが苦手で、最初はそういう料理をつくらないでほしい、って言ってたの。だから実織の家に置いていったんだ。でも、ずうっとあれから考えていて、やっぱり、私は私の好きな料理を作りたい、って斎藤さんにちゃんと言ったの。私はハーブ料理が好きだから、あなたが食べなくても、たまに作らせてほしいって、きちんと」


私は思わず口元に笑みを浮かべた。


「依織らしい料理を、つくってね。ハーブはいつでも取りにきていいよ」

桃花ちゃんとトマトソースをつくったときからもだいぶ日が経ち、バジルはまた新たな葉を伸ばしてきている。最近は、酒の肴にモッツアレラチーズと桃花ちゃんからもらったトマトを切って、バジルもはさんでカプレーゼとしてよく食べていた。


「バジル、時々食べたけど美味しかったよ」

そう言うと依織は電話ごしにころころ笑った。

窓辺には、オフホワイトの地にたくさんのラベンダーの花が描かれたカーテンが、初夏の風にやわらかく揺れている。

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