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【第6話】ビーフカレー戦争

第1話「オムライスの届け先」
前話「ジェラシー入りのミックスサンド」

そのまま、季節は十月半ばになった。外を吹く風がだいぶ冷たくなり、暖かい上着が必要となる晩秋に、いつの間にか外は移り変っていた。九月下旬に、丹羽の部屋で告白した後、丹羽からの返事は、いまだになかった。

『ななかまど』にも姿を見せなかった。学会や就活で忙しいけど、真剣に考えてくれているのだと信じたい気持ちもあったが、このままフェードアウトされてしまうのではないかという疑いの気持ちも捨てきれないでいた。私は、週の半分のシフトを高瀬さんにまかせ、夜はなるべく勉強していたが、そんな中、大変なことが起きた。

その日は閉店してから、店の掃除だけを手伝いに、私は自室から階下の厨房へ下りていた。

「あ、痛っててて」

父の大きなうめき声に、私と母はさっと振り返った。コック服に身を包んだ父が、体を折り曲げて床にうずくまっていた。

「父さん、どうしたの!」
「あんた、大丈夫なの!」

私と母の声が重なった。父さんは、苦しい息の下から、たえだえに言った。
「カレーの鍋を持ち上げた拍子に、腰をやっちまったみたいだ。千夏、ちょっと支えてくれ」

「うん、父さん、私の肩に、そう、つかまって」

私は父を、厨房の奥の自宅、和室までなんとか運んで、布団を敷いて寝かせた。父はずっと、痛てえ、痛てえ、と呻いている。

「どうする、救急車を呼ぼうか」

母の一声で、大袈裟かとも思ったが、救急車に来てもらい、父はそのまま、入院することになった。

「えーっ、しばらく、臨時休業ですかあ」

翌日、高瀬さんに「今日は来なくていいよ」と連絡をすると、高瀬さんは驚いて言った。
「一週間ほどね」

「それで、店長は良くなるんでしょうか。たった一週間で」

「ちょっと、腰の骨に異常があるみたいなの。長年、重いものばかり、厨房で運んできたから。しばらく休むしかないよ。コックがいなきゃ、店はたちゆかないもの」

私と高瀬さんは、ふーっと大きなため息をつきあうと、頭を抱えた。

状況が動いたのは、父が入院して五日目に、お見舞いに行ったときだった。父は、個室のベッドの上で、点滴をされながら、私におもむろに告げた。

「なあ、千夏。ちょっと早いが、うちの店に、新しいコックを入れてえんだ。昔から、うちの店に来てもらうなら、こいつしかいねえ、って、昔から目星をつけていた男だ。今度、お前に紹介していいか」

「紹介、ってまさか、私のお婿さんに、ってこと」

「そうだ。もちろん、互いに気に入らなきゃ、別に結婚することもない。だが、あいつは俺が見込んだ、男振りも、腕もいいコックだし、今回俺が、こういうことになったと伝えたら、いまの勤め先で融通を利かせてもらって、すぐに行けますということだった。なあ、千夏。とりあえず、そいつが手伝いに来ることを、受け入れてもらっても、いいか?」

頭の中が真っ白になった。正直、父が見合いの話を持ってくるのは、まだまだずっと後だと、たかをくくっていたのだ。——ただ、今、店を閉めるのが長く続いてしまっては、お客さんも離れてしまう。うちの店自体、働けるコックがいなければ、このままつぶれてしまうかもしれない。

「わか、った。すぐ結婚とか、考える必要がないのなら、来てもらってもいい」

父は、少しだけ微笑んで「すまないな、千夏」と言った。少し頬がこけたその姿が、痛々しかった。

店を閉めて一週間目の日、母と一緒に、うちの厨房に新しいコック——私の婿候補でもある、紺堂(こんどう)がやってきた。

白く高いコック帽の似合う、がっしりとした体躯の青年だ。年は、二十五歳とのことだった。爽やかな笑顔で、挨拶をすると、彼はさっそく、父のレシピ帖を母から受け取り、目を通しはじめた。

「——うん、うん。僕も十七歳のときから、洋食屋で修行してきましたから、だいたい同じ味のものをつくれると思っています」

紺堂の、その頼もしい言動に、母はもうすっかり、気を許してしまっている感じだ。まっすぐで、素直で、温かい雰囲気を持つ紺堂——どこかほのぐらく、つかみどころがないくせに調子のいい丹羽とは、まったく違う感じの男だった。

いろいろ試作を繰り返した後、紺堂は言った。

「来週から、店を開けても構いません」
「ほんとかしら、たいした自信ね」

ついそんなとげのある言葉を言ってしまった私は、もしかしたら、彼のまぶしさに、少しあてられているのかもしれなかった。

「千夏さんは、何しろ、子どものときから、ずっとこの味に親しんできているわけですから、味の違いにもすぐ気づくでしょうね。——いろいろ、至らない点は、教えてください」

年下の私に、まっすぐ頭を下げる紺堂に、私は慌てた。

「そんな、いちいち私の嫌味なんか、本気にとらなくていいのに」

そう言うと、紺堂は、にこっと白い歯を見せて笑い、

「その強気なところが、僕の好みです」

ときっぱりと言ってのけ、私は首まで真っ赤になった。

「——そんなこといったって、何も出ないんだから」
「すみません、では、タマネギを剥く作業に戻ります」

そう言って、紺堂は厨房に入ると、オニオンスープ用のタマネギを、ひとつふたつ、カゴから取りだした。


店は本当に一週間後に空き、『ななかまど』の洋食を楽しみに待っていた常連さんたちが、わんさか押し寄せた。

「へーっ、店長の入院の間、新しいコックさんがねえ」
「なかなか、美味しいじゃないか。このグラタンも、味の違いがわからないよ」

常連さんたちは、紺堂の洋食の腕を次々に褒め、紺堂も、だからといって天狗になることはなく、常に謙虚に、お礼を言っていた。

その日は高瀬さんが、お子さんが熱を出して休みだったので、急きょ私がシフトに入り、接客をしていた。

ランチタイムの客が退いてしまい、がらんとなった店内を見回し、玄関に「クローズド」の札をかけてしまうと、店内は私と紺堂だけになった。

「お疲れ様。紺堂さんも、夕方まで休んで」
「——千夏さんの接客は、気持ちがいいですね。さばき方が、絵になっている」

「そう?」

なんと答えたらいいのかわからずに、適当な返事をした私だったが、紺堂は思いもよらない言葉を吐いた。

「僕は、千夏さんがとても気に入りました。将来、あなたと店をやりたいです」

ガシャーン、と派手な音を立てて、私の手から、しまおうと思ったカトラリーの籠がすべり落ち、ナイフやフォークが床に散らばった。拾わなきゃ、なのに、膝ががくがくして、しゃがめない。

「——それは、結婚したいってことですか」
「そうです」
「——私、好きな人が、います」

そういいながら、丹羽のことを思い浮かべて、私は泣きたい気分になった。一ヶ月以上も、私の告白に、返事を出してくれない丹羽。あの告白の日から、店には来てくれない、丹羽。

紺堂は、静かな声で言った。

「その人も、千夏さんのこと、好きなんですか」
「……わからない」

そう言うだけで精一杯で、私は膝を折って、しゃがみこんでしまった。紺堂が、私の肩に、そっと自分の片手を重ねる。そのぬくもりが、伝わって来る。

「いいです、僕、待ちますから。千夏さんが、僕に振り向いてくれるまで、待ちます」

私はそのまま、膝を抱えた。どうしたらいいのか、わからなかった。

店を開けて三日目の晩。その日は、いままでのカレーがなくなってしまったので、紺堂が新しくカレーをつくった。味見をさせてもらったが、たしかに父の味そっくりで、感心した。

「じゃ、今夜のセットメニューは、ビーフカレーでいいですね」

私はそう言うと、店頭のブラックボードに「今夜のセットメニュー ビーフカレー サラダ オニオンスープ」としゃがんで書き込んだ。

そのとき、頭上のドアベルが、チリリンと鳴った。あまりにふいだったので、思わず「わっ」と飛びのくと、見下ろしてきた顔があった——丹羽、だった。

「ちなっちゃん、そんなとこにしゃがんでたら、足ひっかけちゃうじゃん」

懐かしい、そのふわっと笑う笑顔に泣きそうになった。

「お、今夜はビーフカレーセットかあ。久しぶりに、カレー食えるの、嬉しいなぁ」

私は、なるべくポーカーフェイスを保ちながら、お冷やを丹羽のもとへと運び、厨房にメニューを伝えた。

ほどなく、出てきたビーフカレーを見るなり、丹羽が言った。

「あれ、これ、いつものカレーと、違くない? いつもは、らっきょうと福神漬けがついてるのに、今日はタマネギの甘酢漬けなんだ」

ふっと、丹羽の口から出てきた疑問に「それはっ」と私が答えようとすると、後ろから足音がして、紺堂が現れた。

「お客様、すみません。店長が倒れましたので、私が急きょ代理としてコックを務めさせていただいてます、紺堂です。もしお口に合わないようでしたら、いつもの付け合わせもございますので、取り替えますよ」


「——いや、珍しいなと思っただけだ、悪いね、わざわざ」

丹羽は、本当に気にしてないという風にそう言うと、今度は私に言った。
「代理、っていつまで?」

その言葉に、紺堂がにこやかに答えた。

「私としては、店長が戻られましても、ずっと、のつもりですが」

「あんたに聞いてないよ。——というか、あんたなんだ、この店を継ぐのって。昔から親父さんに聞いてた……いつか、千夏に婿を取って、この店を千夏にやりたい、って」

「丹羽さんっ!」

私の悲壮な声に、丹羽は顔を上げると、優しいのと悲しいとのが混ざった、複雑な表情で言った。

「ちなっちゃん、この店がどれだけ自分に大切か、ちゃんと考えたほうがいいよ。温かいご家族、優しいお婿さん、最高だよ。紺堂さん、だっけ。——ちなっちゃんを、幸せにしてやって」

みるみる泣き顔になった私から目をそらしながら、丹羽は言った。

「俺、東京の浮世絵メインの美術館に、研究員として就職が決まったんだ。だから、春には、もうこの町からいなくなる」
「そんな」
「ごめん、本当に、ごめん」

今度こそ、その「ごめん」が、私の告白への断り文句だと分かった。丹羽は、私とやっぱり付き合えない、そういう判断を下したのだ。

丹羽は、カレーをすべて食べ終えると、「またね、ちなっちゃん」と言って外へ続くドアを開けた。外は、いつの間にか、どしゃ降りになっていた。

「傘、傘をいま用意するから!」
「いいよ。走って帰る」

そう言って、丹羽は本当に、大雨の中を、水たまりを散らしながら、走り去っていった。

第7話「誘惑のクリームシチュー」


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