ものの見方が粗くはないか
世界を解釈するときに、五色のクレヨンで描き出すことと、百色のクレヨンで描き出すことでは、やはり解釈のレベルには差が出るだろう。
最近、私は自分がたいして画材の数をもっていないことに気付き始めた。それでいて世界を描きだそうとするために、壁にぶつかっている。
丁寧に編まれた小説や記事の文章を読んでいると、書いた人が「どんなに世界を細やかに、またシビアに見ているか」が伝わり「私はまだまだものを見る技術をつける必要がある」と、感じてしまう。
私「私って、全般的に現実を直視する力が粗いし甘いよね」
夫「そうだね。英語でfidelityという単語があって、通信機器の解像度などの忠実さ、みたいな意味があるけれど、それが足りてない感じはあるね」
私「やっぱりか」
なにも、文章を書くことに限った話ではない。現実を地に足をつけて向き合うことが得意じゃないので、台所などの水回りの片づけや、部屋のほこりとりなども苦手だし(母親がするようにぴっかぴかにできない)動いているものを視認するのもへたくそなので、ずっとペーパードライバーで、ほぼほぼ運転は夫にまかせきりだ。
最近、やっと映像もの(動画や映画など)を前よりも楽しんで観られるようになった。本も、一文一文を読み飛ばさないで鑑賞できるようになった。
鑑賞能力が上がるたびに、自分にはできないことも以前より見えてくる。
現実に向き合うときも、文章を書くときも、私はたぶん、生まれながらの性格によって、また自分が経験したり学んできたことによって歪んでしまった眼鏡をかけて、それを通してそれらを見たりつづったりしている。
文章を書くこと、それは「世界を自分なりの言葉で編集したり」「自分に見えたことを全ての人に伝わるように意訳したり」することなのだと思う。
人はたまには、自分の眼鏡が「どのような形に歪んでいるか」を振り返るべきなのだろう。
私はそもそも、つい最近まで、自分のものの見方の粗さや甘さには気づいていなかった。というか、気づかないフリをしていたし、それでいいとすら思っていた。
でも「良い作品を書きたい」と思ったときに、少ない画材しか持っていなかったり、眼鏡の歪みに無自覚なままではダメだなと感じた。
ものの見方のバラエティ=画材の数を増やす必要があるし、現実を正しく解像度を上げて見つめるために、眼鏡の歪みは自分なりに矯正しないといけない。
眼鏡の歪みは、自分なりの「考え方のクセ」であり、その考え方に依っていれば、日々は悩まずに楽に運ばれていく部分もあるのだけれど、ときどき「いつもこのクセで物事を見てるけど、本当にそれでいいのかな?」と、立ち止まることは大事だろう。
最近やっと、三次元の現実を、生まれたての赤ちゃんみたいな目でそろりそろりと見ることを覚え始めた、私だった。
いままでよりもずっとクリアに、ビビッドに飛び込んでくる視覚情報に、正直ちょっとくらくらしている。この見つめ方に慣れるころ、もっと今よりいいものが書けることを信じて。
いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。