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【小説】こたつから出てこない

姉がこたつから出てこない。文字通りの意味だ。夕方六時にバイト先から家に帰ってくると、朝僕が出て行ったときに見た姿勢と同じ状態で、姉の紗那は居間のこたつに寝そべり、NHKのニュースを見ていた。紗那の視線はテレビを本当に見ているのかいないのか、ただ虚空を見つめているようにも見える。


ひきこもりとこたつは、異常に相性がいい。僕はもうずいぶん前から持っている諦念とともにそう考えた。僕はコンビニで買ってきた牛丼をひとつ、紗那のこたつテーブルに乗せてやる。飼い猫に餌でもやるみたいだ、といつも思う。


僕は紗那と同じこたつに入る気がせず、台所のフロアのダイニングテーブルで、自分の分の牛丼のパックを開けた。さっきコンビニであたためてもらったが、2月の雪のなか帰ってきたので、熱はもう逃げてしまったようだ。


朝から五時までコンビニのバイト、その後は、週に三回ほど、市民会館の警備員の仕事を僕はしている。僕の家族は母と紗那と僕の三人暮らしで、母は七時まで練り物工場の仕事をしてから帰ってくるので、ひきこもりの紗那の夕食は、しぜん僕が買ってくることになる。


この寒いなか、疲れているのにまたこれから警備員の仕事に出ないといけないと思うと、とても気分が憂鬱になる。コンビニの仕事はフルタイムだが、このご時世そこまで給料は出ないので、警備員の仕事を掛け持ちしている。ダブルワークというやつだ。それもこれも、父が出奔したせいだ。僕や紗那が中学生のときに、親戚中や友人から金を借りるだけ借りて、消えた。


父の居所はつかめず、僕と母が、父のつくった借金を必死に返すはめに現在なっている。もちろん、恨むべくは父なのだが、家族のこの状況を知りながら、もう六年も働こうとしない紗那に、ただ腹が立つ。なので、僕は、紗那には口を聞いてやらない。夕食を買ってくることすら本当はやめたいけれども、もしそれで紗那が餓死でもしようものなら、僕は姉のせいでお縄をちょうだいすることになる。自分の人生に足かせをつくるのは、これ以上避けたかった。


紗那は動かない。入浴嫌いの紗那が風呂に入るのは、二週間に一度が限度だから、毛玉だらけのセーターとも相まって、彼女はとても汚い。不潔だ。だから、僕は、牛丼をかきこんでいるあいだ、歯を磨くあいだ、警備服に着替えるあいだ、なるたけ紗那の存在を、視界に入れないようにする。徹底しての無視。「行ってきます」の一言も紗那に言わないまま、僕はふたたび、重い体を引きずって、家のドアを閉める。


雪の中を運転して、警備員としての仕事先である市民文化会館にほうほうのていで到着した。疲れているなかでの雪道の運転はキツい。重くなるまぶたを、缶コーヒーのカフェイン成分でやっと開けながらの道のりだった。


「おつかれーす」
「おつかれさま」


警備室に入ると、中はストーブが焚かれて暖かかったのでほっとした。僕はこの会館の警備の夜間担当として、週三ほど働いている。会館は貸し出し研修室や、市立図書館の分館、市民相談センターなどが入った建物で、警備員の仕事としては、主に会館の駐車場に利用者の車が出入りするときの管理や、館内のパトロールなどを主に行っている。


「おつかれさま」と僕に挨拶をしてくれたのは、ベテラン警備員、山下さんだ。年齢はもう五十代後半。しわのきざまれた色黒で恰幅のいい、頼りになる先輩だった。


僕らは、会館が閉まる十時まで、警備室に一人が常駐、もう一人が館内の巡回を交替で行い、最後は鍵を閉めて帰る。山下さんは、僕の顔を見ると、ついこのあいだ隣の市で起きた、小学校襲撃事件のことを話題にしてきた。


「あの小学校をナイフで襲った犯人、中学生のときからずうっと、ひきこもりだったんだってねえ。まったく、恐ろしい世の中だよ」


ひきこもり、という単語に、僕の背中が粟だった。山下さんは、僕の姉である紗那がひきこもっていることは知らない。家族のことについては、一切話していないのだから。僕が紗那に死ぬほどいらだっていることも、さっさと働け、と内心思っていることも、知らない。ただ、最近のニュースの一つとして話しているだけだ。僕はぼそっと、つい言葉にする。


「ひきこもりって、最後はやっぱり犯罪につながっていくんすかね」


山下さんは「どうだかねえ」と肉づきのよい頬を揺らす。


「そういうバイタリティーのないひきこもりも多いとは思うけど、中には一部過激な奴もいるんだろうねえ」


僕はふと、紗那が犯罪を起こす可能性について考えてみて、ないない、と頭を振った。あの紗那に、そんな大胆なことができるわけもない。ただ、冬のあいだはこたつに、夏のあいだはクーラーのそばで、寝そべっているだけの紗那に、何ひとつできるはずがない。


紗那は、ただ寝ているだけだ。冬じゅうこたつの中で、ばっちい眠り姫として。紗那が何を考えているのか、もうさっぱりわからない。昔は、本が好きな紗那に、よく絵本を読み聞かせてもらった。父が出奔する前は、うちの家庭は普通程度にはお金もあったから、紗那はよく両親に本を買ってもらっていた。ベッドのなかで本を読んでいることがずっとできたら、それだけで幸せ、と中学生だったころ紗那が僕に言っていたことがあった。


父がいなくなり、うちの家計が一気に赤字に傾いて、紗那は望んでいた大学への進学ができず、高卒で病院事務として働くことになった。戦場のように忙しい総合病院は、事務員であっても切ったはったの世界で、ちゃきちゃきしてもしっかりしてもいない紗那は、こってり先輩事務員たちから「使えない子」としていじめられたらしい。


紗那は病院事務員の仕事を、半年でやめた。精神科のドクターに「鬱により働けません」との書類をもらってきたのよあの子、と母がぼやいていたのをつい昨日のように思いだせる。紗那はその後も、薬局でのレジや、荷物の梱包の仕事などを、数ヵ月ほどやったが、そのあとは、もう何もかもダメだと思ったのか、ひきこもり生活に突入した。


僕も大学へ行くことができなかった。高校を出たあとは、コールセンターで最初働いたが、あまり向いていなかったのでコンビニの仕事に切り替えた。コンビニでは四年働いている。お客さんに怒鳴られることもあるし、店長にきつい嫌味を言われることもある。それでも、僕は、仕事をやめない。やめた先が、真っ暗な地獄だということは、わかっているからだ。


山下さんと交替で、夜の会館内を巡回する。会館の研修室の設営をする、清掃業務のおばさんたちとすれ違う。清掃員は年配の人が多い。僕が独身だと聞いて、いい子いないの、と余計なおせっかいをしてくる人もいた。僕にだって、人を好きになる権利も、結婚する権利もあると思いながらも、うちの厄介な事情に、好いた娘を巻き込ませるわけにはいかないと、強く思っているのだった。


警備員の仕事が終わり、家に着くと十一時だった。紗那はもう自室で寝ている。起きて待っていてくれた母が、僕に「夜食」と言っておむすびを二つつくってくれていた。塩だけのおむすび。具は入ってないが、ありがたくいただく。


母もここ数年で、ぐっと老け込んだ気がする。山下さんと母の歳は、おそらくいくつも違わないのに、母はもう「おばあさん」という言葉が似あいそうだ。


「昨日給料日だったから、銀行で金おろしてきた」


忘れないうちに、と僕は、十四万円の入った封筒を鞄から出して母に渡す。


「ありがとう、義昭は、本当にいい子だよ」


「もう、いい子って歳じゃないけどな。あー、明日はやっと休みだ。昼まで寝る」


「ねえ」


母が声をひそめる。何事か、と思って耳を近づけると、母はいぶかしむように言った。


「紗那、今夜お風呂を自分で入れてはいったみたいなのよ。いままでそんなことなかったから、びっくりよ」


「風呂に? あいつが?」


これは何かの前触れか、と僕は緊張した。ここ何年も、紗那は業を煮やした母にせっつかれてしか風呂へと入らず、自分で湯をためて入るようなことなど、覚えている限りなかったはずだ。


「これで面接でも行く気になっていたら、いいんだけどねえ」
「まさか、ないだろそれは」


僕と母は顔を見合わせて肩を落とした。僕はもう体力が限界だ、ということを母に告げて、風呂場へ向かった。風呂の湯はきれいに抜かれていたが、たしかに風呂場には蒸気が満ちていて、入浴の形跡があった。


僕はいぶかしむ余裕すらなく、熱いシャワーで体と頭を洗い、風呂から上がると、自室のベッドに倒れ込んで、泥のような眠りについた。

結局昼まで眠ることはかなわなかった。泡をくったような母の声で、僕は無理やり起こされるはめになったからだ。


「紗那がいないの」
「ええ」


事態をすぐに飲み込んで、僕も飛び起きた。寝巻のまま、居間に飛び込むと、たしかにいつもそこで化石のように寝そべっている紗那がいない。こたつが空だ。僕はいっぺんに最悪の事態を考えてしまった。事件、事故、自殺。昨日紗那が風呂に入ったことから、何かがあるかもしれないと、予測すべきだったのに。


「母さん、家の中の包丁とか、ナイフとか、ハサミとかなくなってない?」
「何を言うの」


「こないだの小学校襲撃事件。ひきこもりが起こした」
「まさか」


僕もまさかと思いたい。紗那は携帯を持っていないし、外に出ていったとしても、やみくもに捜すしかない。紗那は帰ってくるだろうか。それとも、どこかで何かをやらかしていないだろうか。


「とにかく、町に出て紗那を捜す!母さんは家で待機して。もし紗那が帰ってきたら、携帯に連絡して」
「わかった」


おろおろしている母を残し、僕は小雪が降る外へと飛び出した。瞬間、ずるっとすべって転んだ。道路が凍っていたことに気づかなかった。


「いってえ」


痛さに顔をゆがめながら、なんとか起き上がって前を見た僕の視線の先に、紗那がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。傘を差して。雪の中を。こちらへと一歩ずつ歩いてくる。まだ尻もちをついている僕の前で止まると、紗那は言った。


「何してんの」


紗那の声を聴いたのは、一年ぶり以上かもしれない。


「バカ。どこ行ってたんだよ。こたつから出てどこ行ってたんだよ」


紗那はおもむろに、肩から提げていたトートバッグから、一冊の本を取りだす。


「水原千紘先生の、サイン会。今日市民ホールで無料の講演会があるってひと月前にテレビで見たから」


へなへなと体から力が抜ける。ミズハラチヒロ、という言葉を聞いて、やっと思い出したことがある。


「水原千紘、ってたしか、紗那が中学生のころ好きだった小説家だっけ」
「よく覚えてんね」


僕や母が、無言で「働け」と念じていても、一向に動かなかった紗那を、こたつから出してしまう水原千紘先生とは。とにかく、犯罪や自殺という杞憂が思い過ごしでよかった、と安堵しながら、僕はふてぶてしくそこに突っ立っている紗那に、猛烈に腹が立ってきた。


「こたつから出れるんじゃん」


ふてくされてそう言うと、紗那は肩をすくめた。


「出るときは出るのよ」


僕は息を大きく吸い込み、紗那へ向かって言った。久しぶりに言葉を交わした今、言わなくてどうする。でかいでかい声で言った。


「おっまえ、働けよ!俺や母さんばっかに労働押しつけんなよ!」


紗那は、少し遠い目をする。長い前髪で、紗那の表情は見えないが、彼女がぽそりと言った言葉を、僕は聞き逃さなかった。


「水原先生に、がんばってね、って言われた。六年も家に閉じこもってたけど、今日先生に会いに来れました、って言ったら」


紗那は息を継いで言った。


「先生、神様みたいだった」


神様、という言葉にめんくらったあと、おおそうか、と思った。紗那にとっての神様が、紗那に「がんばってね」と言った日だったのか、今日は。それが喜ばしいことなのか僕にはよくわからなかったが、先生の存在が紗那の何かを動かしたことは事実なようだ。


「じゃあ先生の言う通り、がんばれよ、紗那」


僕がそう言うと、紗那は、


「まずこたつから出るのを、がんばる」と言った。そこからかよ、とずっこけそうになったが、とにかく今日は、いい日のようだった。


本降りになってきた雪の様子を見て、僕は紗那に「はよ家に入ろうぜ、お前ひきこもり生活で免疫ないから、風邪気をつけろよ」と促し、二人して家へと入った。

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