【小説】故郷へ帰る
食卓に並べられた筑前煮の皿から、よく煮えた里イモをつまみあげて口にいれると、甘い味付けが広がって、お腹があたたまるのを感じた。子供の頃から食べなれた、母のつくる懐かしい味付けは、都会で知らず知らずのうちに張っていた私の気をゆるませる。
さっきから母は、忙しげに台所の薄緑のタイルを磨きながら、私が東京でどんな風に生活しているかを聞きたがっている。会社の帰りは何時くらいになるの、お金が足りなくて困ったりしてないの、職場の人はいい人たちなの。
そのたびに生返事で適当に答えながら、私は食卓の上にあったリモコンを操作し、テレビのチャンネルを変える。たまたま入れた旅番組で、髪をきれいに茶色に染めた女の子が浅草寺でおみくじをひいているのを見て、浅草には東京に住むようになってからまだ一度も行ったことがないことに気がつく。
東京に戻ったら、休みの日に会社の子を誘っていってみようと思う一方で、このままあのビルの砂漠にバスに乗って帰らずに、実家にそのまま居座りたい気持ちが押し寄せてきて、私はため息をついた。実家に帰るたびに、こんな気分になっていては、私の東京暮らしもそう長くはならないかもしれない。そう思って、私は母がいれてくれたあたたかいほうじ茶をすすった。
私が東京で暮らすようになったのは、大学四年の就職活動のとき、どこからも採用をもらえなかったからだ。長く続く不況の結果、採用は冷え込んで、たくさん履歴書を書いて足が痛くなるほど採用説明会も回ったけれど、全滅だった。困った結果、東京で大企業に勤めている父の兄の口利きで、その企業の下請けをしている東京の小さな会社にコネでなんとかねじこんでもらったのだ。
地元の高校を出て地元の大学に進んだ私は、突如22歳にして上京し、東京の人となった。そして今は、台所とトイレが共同の、会社の狭い女子寮に住み、会社と寮の往復を、毎日コマネズミのように繰り返している。今日は、久しぶりの三連休ということで、昨日の夜に夜行バスに乗って、なんとか北陸の実家に帰ってきたところだった。
食べ終わった皿を流しに出すと、母が「お風呂わかしてあるから入んなさい」と言った。誰かが世話を焼いてくれるありがたみを感じながら、私は台所を後にして、自分の替えの下着とバスタオルをとりに二階へ上がった。
お風呂から上がって、髪をかわかすためのドライヤーを片手に自分の部屋へ戻ると、携帯のランプがちかちかと青く光っていた。メールが来ている。開いてたしかめると、幼馴染の加奈子からだった。昨日の夜、バスの中で加奈子に「今夜そっちに帰るけど、明日遊べる?」と聞いたその返事に違いない。
メールを開いて読んでみるとそこには「いいよー、会おう。レインツリーでお茶しよう」と書かれていた。加奈子は小学校からの友達で、高校を出たあと大学へ行かずにずっと地元でフリーターをしている。高校のときからつきあっている恋人のこうちゃんとはもう長く、私と会うたびに「そろそろ結婚かなー」と言っている。
穏やかで性格のまるい彼女と私はずっと気があって仲良しで、今回帰省したのも親への顔見せというよりは、加奈子に会いたかったからだった。私は腰をかけていたベッドから自分の小さな鏡台の前に座ると、化粧水をコットンに染み込ませて顔に塗った。東京でいつも自分が使っている化粧水と、実家に置いてある化粧水は違う、そういうことにさえ、何か感慨を覚えて、私は鏡の中の自分を見つめた。目の下の隈が痛々しかったが、私があの街で生き延びようとする限り、なかなか消せないしるしだと思った。
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翌朝は空から糸のように細い小雨が降る寒い日だった。私は傘を差して家を出て、歩いて駅前の喫茶店「レインツリー」へと向かった。駅前へ向かって歩いていても、この天気のせいですれ違う人は少ない。私は傘をくるくると回しながら二十分ほど歩き、喫茶店にたどりついた頃には傘からはみでた肩のあたりがしっとりと濡れていた。店内に入ると、加奈子はもう来ていて、奥の席からこちらに手を振った。
「恭子、お帰り」
「この前帰省したときに会ってからだから、二ヶ月ぶりだね」
私は加奈子の向かいの席に腰を下ろすと、彼女が渡してくれたメニュー表を手にとった。加奈子の前にはもうブレンドのカップが置かれて、湯気を立てている。
「ごめん、先に注文しちゃった」
「いいよ。私何にしよう。ミルクティーでいっか」
レジの前に立っているウェイトレスを呼んで、注文を済ますと、私は改めて加奈子の顔を見た。加奈子の一番魅力的なところは口元だと思う。小さい頃からのアヒル口に、丁寧にルージュが塗られている。加奈子はルージュを何本もそろえていることからもわかるように、いまだにマスカラがまともに塗れない私とは違って、化粧が上手いのだ。そんなきれいな口元に、熱いブレンドのカップを少しつけてすすってから、加奈子は聞いた。
「どう、東京で上手くやってる?」
「うーん、そんなに、上手くは、やれてない」
私は口に出してから、ああやっぱり加奈子に嘘はつけない、と思った。ここに来るまでの間、歩いているときにずっと、どう話そうか考えていたのだ。東京で一人でがんばっている自分、を彼女にアピールしたかった。地元を出ていくときに、加奈子は「がんばれ」「がんばれ」と何度も言ってくれたのだ。「私はずっとここを出ていけないから、その分恭子に東京でがんばってほしい」と。その言葉に応えたかった。加奈子の目にだけは「子供の頃からなんでもできた恭子ちゃん」として写りつづけていたかった。
「東京で暮らすのって、いろいろ大変そうだもんね。正直、恭子の顔見てちょっと驚いちゃった。だいぶやつれてるから」
「そっかな」
「うん。かなり無理してるーって感じ。この帰省期間は、のんびりするといいよ。実家で」
ほどなく熱いミルクティーが運ばれてきて、私の前に置かれた。甘い香りがたちのぼる。カップをそっと持ち上げて口をつけた私に、加奈子が明るい声で提案する。
「それ飲み終わったら、ちょっとドライブしない? 気分転換しに行こうよ」
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ワイパーがゆっくり動いて、フロントガラスの雨粒を、きれいにぬぐっていく。加奈子の小さな車の助手席は、居心地が良かった。私がこの車に乗るのは三回目だ。一回目は、加奈子が免許をとったばかりのとき。嫌がる私を無理やり乗せて、危なっかしく走った。二回目は、私が東京へ行く直前のとき。しばらく会えないからと言って、二人で山のほうのダムへ行って、ごうごう流れる水を二人で見ていた。そして、今日が、三回目。
「小学校の近くの自然公園に行かない?」
加奈子の提案に、私は一応聞いてみる。
「こんな雨の日に?」
「これくらいの小雨なら、傘を差して歩けるよ。外を歩くと気分が変わるよ。自然公園、二人でよく行ったじゃない」
「そうだね。じゃあ行こうか」
私が同意すると加奈子はなめらかに車を発進させ、大通りへと入っていった。恋人のこうちゃんとデートのときは、かわりばんこに運転しているというだけあって、加奈子はいまではだいぶ運転が上手くなった。電車でどこへでも移動できる東京では、必要ないのもあって、私はまだ普通自動車免許を持っていない。小さい頃は、どちらかというと私のほうが加奈子よりもなんでもできたのに、今では加奈子のほうが私よりもできることが多い気がする。化粧にしろ、車の運転にしろ、男の人との付き合い方にしろ。
ハンドルを操作しながら、加奈子がなんでもないことのように私に聞く。
「東京で、気になる人とかはできた?」
「とくに、いないよ」
加奈子は少し口を閉ざしてから、静かに聞く。
「恭子は、本当は慎くんのこと、まだ忘れてないんじゃないの」
私が黙っていると、加奈子は前をまっすぐ見ながら、つぶやいた。
「恭子が東京行っちゃったのは、私、慎くんと別れたせいだとずっと思ってたよ。慎くんのいる地元を離れたかったから、東京で就職したんじゃないの。もちろん、おじさんの勧めもあっただろうけど」
「そうだね。そういうところも、ないではないかな」
私は小さな声で認めた。加奈子の推論の全部が当たっていたわけではなかったけど、だいたいはそのとおりだった。大学四年の秋、私は恋人だった慎にふられた。恋人といっても、たった半年しかつきあってなかったけれど、それで私はひどくめいるようになった。地元のいろいろなところで私たちはデートしていたので、地元のあらゆる景色が二人でいた頃を私に思い出させた。
駅までの道も、銀杏並木も、いつもにぎわうファミレスも、どこを歩いても思い出がよみがえってきて私を落ち込ませた。私が東京へ行ったのは、この景色から逃げ出したかったからだった。そうして私は、ずっと近くにいてくれた加奈子を置いて、一人東京で働きはじめたのだった。
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自然公園に着いた頃には、雨は降りやんでいた。私と加奈子は傘を持って、カバンを肩から下げて公園の駐車場に降り立った。公園内に入ると、雨に濡れた芝生を私たちはゆっくりと歩いた。しめった土と緑の匂いがする。自然公園は、私と加奈子が昔から、何度も何度も訪れた場所だった。最初は、お互いの親に連れられて。そのうち、自転車に乗れるようになると自転車を走らせて来るようになった。二人とも、この公園の芝生に座っておしゃべりするのが好きだった。いつまでも飽きずに、しゃべり続けていたものだ。左手にはめていた時計を見ると、十二時を少し回ったところだった。
「そういえば、お昼食べてなかったね」
「お茶だけ飲んで、あわてて出てきちゃったからね。売店になんかあるんじゃない?」
私たちは公園の入り口近くの売店に立ち寄って、ホットドッグを買った。赤と青の縞模様の紙袋に包まれたホットドッグはまだあたたかく、食欲を刺激する安っぽい匂いがした。私はケチャップとマスタードを両方つけたけれど、辛いものが苦手な加奈子は、ケチャップだけをしぼってかけていた。
ベンチも芝生も濡れていたので座る場所がなく、私たちは立ったままホットドッグにかぶりついた。昔もこういうこと、よくあったなと私は思う。いつの間にか、自分がまだ高校生のような気がしてくる。
食べ終わって紙袋をゴミ箱に捨てると、私たちは園内の坂道になっている場所を登り始めた。山に隣接したこの公園は、少し分け入ると林の中の道を歩くことになる。枯れた木の枝や落ち葉を踏み分け、私たちは坂を登って展望台を目ざした。ぬかるんでいて少し歩きにくく、履いてきたスニーカーが泥に汚れていく。しばらく黙って歩いていた私だったが、ふと思い立って加奈子に声をかけた。
「加奈子、いまなんの仕事してるんだっけ」
「いまは、学童保育のバイト。小学生と遊んだり宿題みたりしてるよ」
「加奈子、勉強苦手なのに」
私がからかうと、加奈子は口をとがらす。
「小学生の算数ドリルくらい見れるよ」
登りきって展望台に出ると、一気に視界が開けた。柵の前に立って前を見るとはるかな山並みが見えて、ところどころに薄い雲がかかっていた。肌に触れる空気は冷たく、秋を感じさせた。私たちはしばしたたずんで、目の前に開けた風景を見ていた。隣の加奈子が、小さな声で私に聞く。
「恭子はこれからずっと東京にいるの?」
答えられなくて、ただマフラーに顔をうずめた私を、加奈子はじっと見つめていた。
帰りの車の中、カーラジオから流れる音楽を聴きながら、私も加奈子もしばし無言だった。離れがたいという気持ちが、ふいに胸をついた。私は、加奈子と離れがたい。加奈子だけでなく、本当はこの街からも。
加奈子がゆっくりブレーキを踏み、車はすべるように自宅の前に止まった。運転席の加奈子を見ると、加奈子はにっと笑って、車のエンジンを止め、カバンの中からピンクのパッケージの小箱を取り出した。
「これ、お土産」
「ありがとう」
「いつでも、帰っておいで」
加奈子があたたかい声でそうつぶやいた声は、水がひたひたしみこむように、私の胸の奥をゆっくりとうるおしていった。玄関に明かりがともり、台所に面した窓からは、今夜の夕餉の匂いがした。まだがんばれる、まだがんばれる。帰りの東京行きのバスを予約しなくちゃ、と思いながら、私は加奈子にばいばい、と手を振った。
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