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【小説】女の暮らし(下)

なずなの母親は、身を粉にして働いた看護婦だった。星の見える夜道を歩きながら、うちは本当に簡単なごはんしか出てこなかったな、となずなは苦笑する。カレーとか、よくわからない煮物とか。お世辞にもおいしいとはいえなくて、なずなはだから自分で料理をするようになったのだ。

雑誌に出てくる、素敵な写真の料理たちは、まさになずなが求めていた家庭の甘さだった。夜勤が多い母は、あまり子供もかまえず、なずなにとっては寂しい子供時代だった。でも、父が仕事に失敗して離婚したとき、本当に母のお給料が、母となずなと弟、家族三人の命綱だったのだ。

「働くことは、当たり前のことだよ。そう思えるようになりなさい」

そう教えてくれた母は、退職して穏やかに余生を送っているが、ときどき病院ボランティアとして、もといた病院で活動しているらしい。

働いてもっと貯金がしたい。その反面、全部を投げ出してゆっくりていねいに暮らしたい。その両者の思いにひきさかれながら、なずなは今日も台所に立つ。朝食の皿を洗って片づけ、買ってきた肉と冷蔵庫に残っていた野菜で、肉野菜炒めをつくり、麩とキャベツで味噌汁をつくり、もやしの酢の物をつくる。洗濯機を回し、干してあったものを取り込む。でも、掃除機をかけるのは土曜日まで待つ。

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帰ってきた浩介と、食卓を囲みながら、なずなは訊く。

「こうちゃん、仕事やめたいと思うことある?」
「そりゃあるよ」

浩介の答えは簡潔だ。内心ではこう続けるだろう。でも簡単にはやめられないよ、男だから。そう、いろんな男の人が世の中にはいて、新しい時代に即した自由人な人も増えてきているとはいえ、たいていの家庭を持った男の人なら、そうだろう。

やめて好きなことができる、という選択肢を考えられる女性のほうが、楽なのかもしれない。でも。それでも。私がぜんぶ自分で選んだ結果なのに、ていねいな暮らしが思うようにできないことに、これほど苦しめられるのはなんでなんだろう。

「私の料理、おいしいかな」
「なずなの飯はいつだって、こんなもんだろ。おいしいよ」
「私、もっと料理できるようになりたいんだ」

「ネットでも見てなんでも研究すればいいじゃん、どうぞ」
「料理を撮るときの、カメラも買ってもいい?」
「俺は携帯でも十分だと思うけど、でも、なずなのお給料分から、買えばいいんじゃないか」

食事をすませると、浩介はテレビの前にどっかりと陣取り、サッカーの試合を見始めた。私は、流しに皿を運び、水道の蛇口をひねると洗い始めた。

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深夜、眠りからふっと覚めたら、寝付けなくなってなずなはゆっくり身を起こした。横で寝ている浩介を起こさないようにして、キッチンへ向かい、ちいさく明かりをともすと、レンジで牛乳を温めた。ダイニングの椅子に座って、スマートフォンを片手に、朝見たSNSの続きを見始める。また、お洒落な暮らしの写真を中毒のように眺める自分を見ながら、思った。

そういう暮らしに憧れる気持ちと、今の自分の現実との落差。この気持ちを覚えておこう、となずなは思う。ふと思い立ち、なずなは暗いキッチンで明かりの下、ミルクを入れたマグをスマートフォンで撮ってみる。少し手元がぶれて、失敗した。二枚目、今度はさっきよりましに撮れた。

かっこ悪いのはわかっているけど、その気持ちをふりきって、なずなはスマートフォンを操作し、今撮った写真をつけて、初めての投稿を、SNSにしてみた。

「はじめまして。夜中に眠れなくて、あっためたミルク飲んでます。みなさんの暮らしの写真、いつも憧れて拝見しています。仕事と家事でいっぱいいっぱいで、なかなか理想の暮らしぶりができないですが、マイペースでがんばろうと思います」

投稿してほっと息をつくと、スマートフォンが震えた。確認すると、ひとつハートがついていた。誰かすらわからないけど、ひとつだけもらえたハート。ミルクを飲んだだけじゃなくて、指先から少しだけ、あたたまった気がした。

眠ろう、となずなは寝床に入る。明日も仕事を回さなくてはならない。明日も、忙しくて、きっとなずなの思い描く「ていねいな暮らし」は難しいだろう。ただ、それでも。「いつかやる」という言葉は、あまりいいこととしてとらえられないけれど、今は先延ばし、「いつか/ていねいに暮らす」という目標でもいいかもしれないと思った。

いつか、がいつ来るのかはわからないけど、もしかしたら来ないのかもしれないけど、こういうことをやりたい、って自由に思い描くのは、悪いことではないかもしれないと思えてきた。

いつか、朝食にふわふわのパンケーキを焼こう。
いつか、お重においなりさんをつめてお花見に行こう。
いつか、ふきんにお花の刺繍をしよう。

その夢が、自分の足を前に進めると、なずなはそう考える。スマートフォンがまた震えた。もうひとつ、ついたハートを確認すると、なずなは今度こそ、眠りに落ちた。

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