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ジャッジする視線ごと投げ捨ててしまおう

誰かのことを自分より下に見たことってあるだろうか?

私は聖人君子じゃないので、もちろんある。情けないが、それを人に向かって言ってしまったこともある。

結論を言えば、誰かを自分より下に見たあとに、最後はブーメランとなって自分にはねかえってきた。

それで、私は「自分と誰かを比較して上だとか下だとかジャッジすること」の馬鹿馬鹿しさとみっともなさ、ダサさにようやく気が付いた。

主に、私が過去にはずかしくもジャッジした二つを紹介しよう。

「あの人は働いていないから働いてる私のほうが上」

「あの人は太っているから痩せている私のほうが上」

どうだろうか、こんなことを思ってしまったのは、私だけだっただろうか?

私には、子供のころずっと仲良くしていた友人が、高校時代にひきこもりになって、不登校となったという経験がある。

詳しくはこの記事を読んでいただきたい。

彼女に対して「たいへんだ」「かわいそう」「助けてあげなきゃ」と思いながら、私自身は高校大学と問題なく通い「私はレールを外れなくてよかった」と内心思っていた。

ところが、そんな私は、社会人一年目でつまづき、入院することになり、そのあとの療養にだいぶ時間がかかって、二十代のうち三、四年を家で無職として過ごした。

そのころ「ニート」という言葉がはやっていて、親のすねかじりの自分をかなり責めた。ぐさぐさと自己肯定感がけずられていく日々だった。

二十代の後半、アルバイトから社会復帰をし、だんだん元のように元気にはなったが、それから、人生の一時期、または長期間働けていない人のことを、前のように厳しい目で見ることなんてできなくなっていた。

誰でも、つまずくことも、病気になることもある。それが、いつ自分の番になっても、まったくおかしくないのだ。

私は「働いていない人」をジャッジすることは、できないと気が付いた。

そして「体重と体形」について。

私は、子供のころから大学時代までずっと痩せていた。体調をくずして、具合が悪くなってしまうこともしょっちゅうだったけど、それでも「食べても太らない」自分が好きだった。

そして、太っている人を見ると「あの人は自己管理できてないのかな」などと不遜にも思っていた。

でも、先述のように、社会人一年目で病気をして、実家で薬を飲みながら療養するようになって、私の体重はぐんぐん増えた。

告白すると、20キロ増えた。そして、簡単には落ちなくなった。

太っている体形になってはじめて「太っている人の気持ち」がわかった。痩せていた私は、知らず知らずのうちに、太っている人を見下していた、そんな自分の気持ちの醜さにも気づいた。

健康のために、いままた少しずつダイエットをしているが、もし今回うまく痩せられたとしても、自分は一生、太っている人を馬鹿にしない。そう心の底から思った。

働いてないから、痩せていないから、バカにされるのは悲しい。私は自分がその当事者になってみてはじめて、当事者の気持ちに気が付いた。

それまでは、気づけていなかった。

人は生きているうちに、いろんなものに恵まれることがある。

それは美しい容姿だったり、経済力だったり、いい家族関係だったり、素晴らしい恋人や伴侶だったり。

でも、持っている人が、持っていない人を、バカにしたりかわいそうだと思ったり見下したりするのは違う。私自身知らずにやっていて、恥ずかしながら気が付いたことだけど、絶対に違う。

「あの人はきれいじゃないから」

「あの人はお金がないから」

「あの人の実家はああだから」

「あの人は結婚していないから」

……だから、見下していいと、誰が言えるだろう?

また、ジャッジの矛先は、自分から自分へと向くことも多々ある。

私は役に立たない、何も持たない人間だ、なんて、自分をどうか責めないでほしい。

あなたは、あなたを、もっと大切にしていい。ジャッジなんて、誰にもされるべきじゃない。

自分を、他人を大切にしたいと思うとき、ジャッジはいらないのだ。

ジャッジする視線ごと、投げ捨ててしまおう。

そうしたら、あなたの目の前にいる人の美しさに気が付くだろう。

また、あなた自身の美しさにも、その人が気づいてくれるはずだ。


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