見出し画像

【小説】堤防と海(上)

いつものように今日も、私は港のそばの堤防まで歩いて行った。中学校の授業が終わるのがだいたい三時で、部活を引退したばかりの私はとくに何の用もなければ必ず海を見に行く。新学期が始まったばかりで、五月終わりの今日は空も気持ちよく晴れていて絶好の散歩日和だ。

私の住む街は南側に山があり、北側が海に面している田舎町だ。中学校から家に帰ってくる途中に港はあって、いつも気持ちいい潮風が吹いている。別の町から来た人には、魚の匂いが気になるらしいが、生まれたときからここに住んでいる私にとっては、気にならないものだった。

私は今14歳。6月の誕生日が来れば15歳。中学三年生であり、受験生だ。地区大会で敗退した陸上の部活も、後輩たちに見送られて引退し、これから高校受験の季節が始まる。

コンクリートで固められた堤防にたどりつくと、私は一望できる目の前の海を眺めながら、大きく深呼吸した。気持ちいい。少し強い風に長い髪をなぶられながら、私は地元のこの海の景色が大好きだと思った。

*****************************

「せっちゃんとは離れ離れになるね」

今日の二限目の授業が終わった休み時間、隣の席の桃子が私に向かってそう言った。

「せっちゃんは、一高受けるんでしょ。桃子はせっちゃんほど頭がよくないから、こっちの大湊高受けるけど、せっちゃんは一高でしょ、もちろん」

桃子が言う一高というのは、一ノ瀬高校の略で、私の住む県の中心部にあるいわゆる進学校だ。対して大湊高というのは、この町にある、実業高校のことだった。この町の中学生は、高校卒業後すぐに就職する生徒はだいたいが大湊高、そして大学への進学を目指す生徒は、一高に限らず、町から離れた進学校へと散っていくのだ。

「私、わかんないよ、一高受けるかは」

そう桃子に言うと、彼女は頬をふくらまして、
「せっちゃんは、この学年で三番以内に入ってるでしょ。キータンだって絶対に一高にしろって言うよ」と言った。

キータンというのは、担任の木下先生のことだ。まだ20代で、一生懸命英語の授業をするけどときどきトロい木下先生のことを、クラスメイトはキータンと呼んでいた。

「桃子だって、大湊以外の選択肢があるかもしれないじゃん」

私がそう言うと、桃子は顔をくしゃっとして笑った。

「桃子はいいの。一生この町で暮らしていくの。大学行けるほどのお金だってうちにないし、この町にずっといて、この町で結婚して、そうやって暮らすの。だけど、せっちゃんにそれはもったいないよ」

私が口をつぐんでいると、三限目の始まりのチャイムが鳴って、桃子は顔をそむけると机の下から数学の教科書とノートをひっぱりだしていた。

******************************


海を眺めているのは、いつまでも飽きないことだ。私は堤防に腰掛けると、遠くの白い灯台と、いくつもの漁船が波間にゆらいでいるのを、ただじっと眺めていた。紺地に一本白線の入ったセーラー服のえりが風にあおられてはためく。沖合の空にはかもめが何羽も連なって飛んでいた。潮の匂い。紺碧の海。私は、いつまでも、いつまでも、ここに座っていたいと思うのだった。

ふと、じゃりっと砂を踏むような音が聞こえて、私ははっと振り返った。そのとたん、パシャリと音がして、写真を撮られたのがわかった。かまえたカメラから顔を外してこちらを見て笑ったのは知らない男だった。日に焼けて、短い髪の茶髪で、薄いグレーのTシャツに茶色のバミューダズボンをはいている。大学生だろうか。

「何するんですか、急に」

思い切り顔をしかめて眉根を寄せて、低い声を出すと、彼は屈託のない笑顔でごめん、と誤った。

「ずいぶん、絵になってたから、思わず撮っちゃったよ。俺、これっていう被写体を見ると撮らずにいられないんだ。堤防。海。紺のセーラー服。完璧だね」

あまりにも悪びれた様子がなく、堂々としているので、逆にこっちが気圧されてしまい、私はますますぶすっとした顔になった。

「あなた、誰ですか。この町の人じゃないですよね」

「俺は東京に住んでて、東京の大学に通ってるけど、出身はここの県だよ。ここより開けたところの町だけど。もうすぐ学園祭で、展示する写真をたくさん撮ってたんだ。風景より人物が好きで、モデルを探してた。今決めた。君にする」

「はあ?」

何を言ってるんだこの人は、と言う前に彼がカバンからさっと名刺を差し出した。真っ白で四角い名刺には「明京大学映像学部写真学科 牧村悟」と記してあり、携帯の番号と東京の住所が載っていた。

「なんなら、地元の実家の住所も教えるよ。ここ一週間ほど、実家に泊まって写真撮ってたから。君の名前、聞いてもいい?」

「やです」

そう一言言うのがせいいっぱいだった。モデル?そんなの冗談じゃない。私は自分の顔を鏡で見ても、ろくに好きだとも思えないのに。

「断ります。いやです。私帰ります」

私は大きな声でそう言うと、ぱっと背を向けて堤防から逃げた。

****************************


私の家は、家族四人が揃ってはじめて、夕飯になる。小六の弟がサッカーのクラブチームから帰ってくるのが7時。市役所に勤めている父が帰ってくるのが七時半。母はパートから五時に帰ってきて、家族の夕飯をつくってくれる。

受験生の私はみんなが帰ってくるまで、自室で黙々と問題集を解いて、ご飯の時間を待っている。私は勉強するとき、だいたいラジオをつけている。桃子なんかは、音が聞こえてたりしたら集中できなくない?って不思議そうな顔をしてたけど、私はほどよく人の声かしているほうが、気分よく勉強できる。

学校からもらった英語の課題集の問題を、ノートに書き写してシャープペンを走らせていると、とても静かな気持ちになる。勉強は嫌いじゃない。わかると楽しい。でも、私は看護師になりたいとか、教師になりたいとか、将来の夢みたいなものを一度も明確に持ったことがなかった。なりたいものがなかった。

だから、この勉強という行為が、何につながっていくのかわからない。わからないのに、進学して、大学へ行って、それで本当にいいんだろうか。私は最近ずっと、そんなことを考えている。

部屋のドアが乱暴にノックされ、私はやっと顔を上げた。弟だ。ご飯の時間の合図。私はノートを閉じて、椅子から立ち上がると、居間へと向かった。

のれんをくぐり居間へと入ると、料理の皿を並べている母と目があった。
「せり、あんたも一緒に並べて。ほら早く」

母の言葉に従い、居間とつながっている台所から、皿を運ぶ。野菜と肉の味噌炒めのおいしそうな匂いがただよう。ねぎの入った卵焼きに、えのきのお味噌汁。パートから帰るといつも急いでつくってくれるのだった。

私は台所にたたせてもらったことがあまりない。最近は家事を手伝おうとすると、いいから勉強しなさいと言われることが多い。

新聞に目を落としていた父が、食卓に料理が並んだことに気づくと、口を開いた。

「食べるか。皆、手を合わせて」
「いただきます」

家族の声が唱和した。弟に目をやると、さすが育ち盛り、勢いよく箸を動かし炒め物を口に運んでいる。小さいころはかわいかったけど、小学校高学年になってからはあまり口を聞かなくなった。そもそもうちの家族はそろって寡黙なので、食卓での会話というものは、あまりない。

椅子に座った母が、テレビのリモコンをぴっと押した。バラエティ番組のどっという笑い声がテレビからあふれ、私はテレビのむこうはいつもにぎやかだな、と思った。

食事のあと風呂に入って、少しまた勉強し、十時半を過ぎたところでパジャマに着替えて自室のベッドにもぐりこんだ。眠ろうとしたけど、今日の出来事を思い出してなかなか寝付けない。

(私の大好きな場所に、ずかずか入ってきて、何を言うかと思ったら――)

自分の大切にしていた場所と、その場所にいた自分が、勝手に切り取られたことがくやしいのだと思った。大げさかもしれないけど、あの場所が汚された気がした。また堤防に行ったら、あいつに会ってしまうのだろうか。モデルだって、ばかみたい。私は、ぎゅっと目を閉じた。本当はそうしたくないのに、勝手に頭が記憶の底をさらっていく。思い出した思い出は、やっぱりろくなものじゃなかった。


いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。