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【小説】夏の朝の音楽室 #2000字のドラマ

早朝の校舎で、三階の音楽室へ向かうため階段を上る私の足音だけがやけに大きく耳に響く。廊下の窓からは五月終わりの朝陽があふれ、遠くに見渡せたグラウンドで野球部の子たちが一心に走っているのが見えた。

階段を上り切ったところで、耳に流れ込んできたのはピアノの音。大切にしまってある銀の小箱からこぼれでるような音色だった。突き当りの音楽室からだ。私はゆっくりと引き戸を開ける。

グランドピアノの前に座っていたのは、後輩の吹奏楽部員、萩尾岳だった。弾いている曲の名前は知らないが、美しい曲だ。岳は私が入ってきたのに気付くと、手をとめてこっちを見た。

「永岡先輩、おはようございます」

「ピアノ、続けてて。もう少し聞きたい」

私がそう言うと岳は笑った。

「僕ら、市民祭のための朝錬をこっそりやろうって、他の部員にも内緒で集まってるんじゃないですか。ピアノ弾いてたら時間なくなっちゃいますよ。あくまで先輩が来るのを待つあいだに、暇だから弾いてただけで」

「それもそうだけど」

私はそう言いながら、練習用のゴムパッドをスティックで叩きはじめると、岳が私の隣で、リズミカルにスティックを扱いはじめた。うちの弱小吹奏楽部のパーカッション担当は私と岳の二人だけ。

パーカッション部員だけで朝錬をやろうと言い出したのは私だった。高校三年生の私は、今年大学受験を控えていて、夏のコンクールが終われば部活をやめる。本番まではあと数か月しかなく、二年生である岳のすぐ隣で、その姿を見ていられるのもわずかだった。

朝のホームルームぎりぎりまで私は岳と譜面を見ながら練習を重ね、それぞれの学年のクラスがある階へ分かれた。

――本当は、パーカッションの部員はもう一人いた。

岳と同じ学年の、秦野侑歌。彼女の練習光景がふいに脳裏をよぎる。茶色く透ける髪が、グロッケンシュピールを叩くために少しかがむと、ふわりと鍵盤まで落ちそうになっていたことを今でも思い出せる。

『邪魔でしょ、くくっちゃえば』

先輩風を吹かせてそう言ったら、彼女はにこっと笑って言った。

『でも、岳くんはくくらないほうが好きって言うんです』

岳と侑歌は付き合っているのかも、と鈍い私にもすぐ察することのできる一言だった。私の気持ちを知っていて、けん制したのだとも思った。

だけど、侑歌は一年生の終わりで部活をやめた。

『私、受験したい大学を決めていて。勉強しないといけないから、部活はやめます』

他の部員は口さがなく、受験というのは言い訳で、岳から乗り換えてきっとほかの彼氏ができたのだ、だから岳と一緒にいられなくて、部活をやめたんじゃないかと噂した。当の岳はどこふく風で、とくにショックを受けた様子も見られず、淡々と部活に出てきていた。

市民祭が日に日に近づくなかで、私と岳は毎朝の朝錬を欠かさなかった。岳は最初のうちこそピアノを弾くこともあったが、この頃は私が音楽室に行くと、一人で楽器を出してきていて真剣に譜面を見て練習していた。

市民祭当日、私たちは文化会館のホールの袖で、他の部員と前の団体の演奏が終わるのを待っていた。私はちらちら客席をのぞいて、友達や両親が来ていないか確認しようとして――気が付いてしまった。

客席の前から三列目、侑歌が一人で座っていた。隣に誰か男がいるわけでもなく、一人で。

私は思い切り動揺した。岳と侑歌は、いまも付き合っているのかもしれない。すぐに本番が始まったが、頭のなかは真っ白で、演奏する手が震えた。一度、マレットを取り落としさえした。

本番が終わると、うなだれた私に「ちょっと来てください」と岳が低い声で言った。二人で会館の出口まで来たときに、岳が怒鳴った。

「なんなんですか、今日の演奏! 先輩らしくもない。朝錬の成果、いっこも出せてないじゃないですか」

「ごめん」

声が思い切り震え、風にさらわれた。

「――侑歌が、来てたね」

やっとのことで、それだけ言った。岳は「ああ」と言った。

「俺が呼びました。夏のコンクールは夏期講習で忙しくて見に来れないだろうから、市民祭で、永岡先輩の雄姿最後に見とけって。あいつ、先輩のこと実は慕っていたし」

「二人は、一年生のとき、付き合ってたんだよね? いまもそうなの?」

聞いた声が震えた。ずっと怖くて確認できないままだった。岳がちょっとためらったようにしてから言った。

「侑歌とは、付き合ってないです。恋の相談によくのっていただけで。あいつには、大学生の彼氏が最初からいるし、その人と同じ大学に行くんだって受験を息巻いています。――そして、俺の好きな人も、最初から一人だけだから」

そう言って、ふいと岳は横を向き、耳を赤くして言った。

「先輩の最後のコンクール、最高なものにしたいです。明日から、また朝錬しますよ。本番こそ、今日の演奏をリベンジしてくださいね」

言われたことが信じられなくて、棒立ちになった私の髪を、初夏の風がゆらしていった。















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