【小説】遺品整理の日
祖父が、ついに臨終のときを迎えた。僕と祖父の娘である僕の母が、その最期を看取った。九十二歳の大往生。不思議と涙は出てこなかった。祖父は終戦後小さなかまぼこ工場を起こし、工場長となって、七十歳まで働いていた。
魚が豊富にとれる海辺の田舎町では、魚の加工業はメジャーな商売だったようで、僕は祖父のかせいだ金で、大学まで行かせてもらった。頑固者だが、根はやさしい祖父だった。
それから葬式と火葬まで慌ただしい日々が続き、初七日が済んだ頃に、母がぽつりと言った。
「おじいちゃんの家、片付けないとねえ」
僕はほうじ茶を飲みながら答えた。
「空き家になるけど、売却とかできるのかな」
「どうだろう、もう古いからねえ」
祖父は死の直前まで、かくしゃくとしていて九十代にも関わらず一人暮らしをしていた。部屋で一人倒れているのを、母が発見した。その時点ではまだ呼吸はあったが、病院で亡くなった。医者は老衰です、と言った。
「誰かに貸すにしろ、掃除しないとな。僕、週末じいちゃんち片付けるよ。いっぱい捨てるものや売るものもあるだろうし」
僕の母ももう六十八歳で、最近は腰が痛い痛いとばかり言っているから、片付けの戦力としては見込めない。独身の僕なら、会社が休みの日は自由に動けるから、もう僕でいいやと思った。家族が逝った後の始末はきちんとしなければいけない。
「そしたら、土曜日はおじいちゃんち行く前に、おにぎりくらいは作っておくから」
母がそういうので、ありがたくお願いすることにした。
僕は祖父が残したかまぼこ工場を、祖父の引退後に譲ってもらい、工場長兼社長をしている。雇用しているのはわずか7人と、小さな小さな会社だ。もちろん僕は監督役ではあるのだけど、雇っている人は僕よりも年配の方がほとんどだから、僕自身も、かまぼこづくりの作業をみずからやる。
漁業組合から小さいサワラをたくさんもらってきて、まず三枚におろし、ゴットンという機械にかけて身と骨を分ける。油抜きをして袋につめ、圧縮機にかけてしぼる。ミンチにしてドロドロに練ったあとは、手作業で型を整えて蒸す。
祖父の代からずっとやっている作業だから、その大筋は変えていない。ただ最近は販売経路を現代ならではのインターネット通販にも広げることで、新たな購買者を増やそうとしていた。
僕をぬかしてすべての社員が、漁師を旦那にもつ奥さんだ。中にはもう死に別れた人もいるけれど、五十代から六十代のおばさんたちはみんなかしましくてたくましい。
蒸したてのかまぼこを冷ましながら、僕は祖父の葬式のあれこれで、工場に顔を出せない日が続いていたことを詫びた。もちろんみんな熟練のかまぼこ職人だから、工場長の僕がいなくたって業務は回るのだけれど、それでも「留守のあいだありがとうございました」と言った。
「先代のお見送りだもの、そっちをちゃんとやって当然よ。あたしたちのことは気にしないで。ちゃんと仕事は回るんだから」
口々にそう言われて「へへ」と照れ笑いをする。そのまま、作業に戻り、僕は三枚おろしをするための小さな魚切り包丁を手に取った。
母がにぎってくれたおにぎりと、味噌汁を水筒につめたものを持って、十一月の小春日和の日に祖父の家を訪れた。外の明るさと打って変わって、家の中は暗くて埃っぽい。居間で祖父は倒れていたそうだ。
仏壇を開け、中に飾ってある祖母の写真につもった埃を、きれいにはらってやる。祖父のお骨はいま母と僕の暮らす家に置いてあるのだが、はやくお墓にいれて祖母のお骨と一緒にさせてあげたいと思った。
そうして僕は、ここに来る前から、ひとつ気がかりだった「例のもの」に目を向けた。それは、床の間に鎮座ましましている。
すらりと長い「例のもの」の正体――それは日本刀だった。祖父は太平洋戦争のときに、この軍刀をたずさえて戦地に向かい、危ない目には何度も遭遇したものの、終戦のあと無事に生きて帰って来た。
太平洋戦争のことを話したくない、という態度をあからさまに取っていたのは、大学生の頃に母と離婚した父方の祖父だったが、つい先日亡くなった母方の祖父――工場長のほう――は、戦争に行ったことを誇りに思っていたようで、後生大事にこの日本刀を床の間にずっと飾っていた。
「おりゃあ、戦車九連隊の隊員で――」
酒に酔うと、戦争当時の話を「自慢話」として語った。鑑みるに、祖父にとって、戦争は若かった自分の「輝かしい姿」だったのだろう。戦後生まれの僕も母も、祖父の自慢がはじまると、「また始まった」と裏で舌を出しながらも、根気よく聞いてあげた。
僕は日本刀を見て、深くため息をついた。こういうのは、いったいどうやって処分したらいいんだ。祖父の形見のようなものだから、残しておけばいいと思う考えもないではなかったが、人を殺す道具をむざむざと自分の家にも持ち帰りたくない。
インターネットで検索すると、古美術商などで値がつく場合もあるようだった。
とりあえず最初の流れとして、「銃砲刀剣類登録証」があるかどうかを確認すること。これは祖父の書類箱のなかから見つかった。
そして次に処分したい場合は警察署の生活安全課に連絡すること。
いろいろ調べながら、僕は「もう処分でいいかな」と思ってきた。日本刀といっても、軍刀だから、そう大きな値にもならないだろう。さっさと警察に届けて処分してしまおうと思った。
一番気がかりだったことの処遇を決めてしまったので、僕は気分がすっとして、そのあと雨戸を開け放ち、畳の部屋に秋のひざしと風を通した。
埃だらけの部屋に掃除機をかけ、タンスの中の着物や洋服を引っ張り出して、捨てるものとしてまとめる。大変な作業ばかりだったが、陽が傾く頃には、だいぶ整理がされてきた。
「あ、昼めし食うのすっかり忘れてた。――もう味噌汁、冷めちゃってるな」
独り言を言うと、僕は母のにぎってくれた塩むすびに海苔を巻いたおにぎり3つを順に頬張り、味噌汁で流しこんだ。
片付けはあと数日かかりそうだったので、僕は夜のとばりが下りる前にと、いったん家に帰った。祖父の服はぜんぶ売ってしまうつもりだし、日本刀も処分するから警察に行く、という話をしたら、母は感慨深そうな顔をした。
「おじいちゃん、あの刀ずいぶん大切そうに持ってたものねえ」
「うん、でももう、手放せばいいかなと思った。僕たちは」
「そうよね。万一空き巣にでも入られて盗まれたら大変なことになるし。それでいいんでしょうねえ」
母のつくってくれた夕飯をかきこみながら、僕はふっと思い出した。祖父の家に行くたび――あの日本刀が怖かった、と。僕に霊感などはまるでない。でも、あの日本刀は、きっと人を切ったことがある。
僕は小さい頃から、そう感じていた。厳しいけれど優しかった祖父の、また別の顔を、あの日本刀は知っていると思った。祖父が戦時中敵軍を殺した可能性について、僕がわかることはなにひとつない。祖父自身も、戦時中、たくさんの人に日の丸を振られて見送られたことは、自慢話として話したが、自分が人を殺したかどうかなんて、僕には一言たりとも語らなかった。
それでも僕は、あの日本刀が血に染まったことがある、そんな厭な直感がぬぐえないでいた。
「あんたは、人を傷つけることが、昔から徹底して苦手な子だったからねえ。だから刀が家の中にあるのも、見ていられないんだろうねえ」
母にそう言われて、僕は苦笑する。
「そうかもな。早いとこ、手放すよ。そのほうがすっきりする」
そう言いつつ、焼けたサンマのはらわたを口にほうりこんだ。うまみある苦さが広がり、僕はふっと息をついた。
警察への日本刀の引き渡しが無事に済んだ日、僕は港へと足を向けた。いつもかまぼこ用のさわらを譲ってくれる、漁業組合の酒田さんに用事があったからだ。
港の敷地内でフォークリフトを動かしていた酒田さんを見つけると、僕は片手を挙げる。
酒田さんはリフトから降りると「こっち」と僕を漁協事務所へと案内した。
作業服の男二人で、事務所の会議席に対面して座ると、僕は酒田さんに
「で、このあいだの件」と声をかけた。「ああ」と酒田さんが応じる。
「その子、うちで雇わせてください」
「――いいんかね? 漁協のほうで働かせてもいいんだけど」
「はい、うちでお役に立てるなら」
酒田さんからこの間頼まれたのは、女子少年院を出た十八歳の女の子の雇先を探しているということだった。この町出身の子らしく、漁協で口を探すか、それとも――と思って僕に声をかけてくれたようだった。その子が十五歳で犯した罪は窃盗だった。スリの常習犯だったそうだが、今は更生したと聞いた。
ちょうど一人定年退職を迎えるおばさんがいるから、その方の代わりに入れようか、と思った。
酒田さんと話がついたので、面接の日取りを決めた。その子は電話口でぼそぼそと「橋本月子です」と言った。
罪を犯して、更生したという彼女の像が、不思議と戦時中をくぐりぬけた祖父の像とかさなった。
面接の朝、橋本月子は短いショートカットの髪と白シャツにズボンで現れた。僕は、いろいろと彼女に訊いた。黒々としたするどい瞳が、印象的な子だった。
「――橋本さん。あなたにとって大切なものはなんですか」
そう訊いた僕に、彼女は少し考えると小さな声で答えた。
「自分が再出発できる、その機会をもらえたことが大切なことです」
ふいに祖父の笑顔が脳裏をよぎった。祖父が人を殺したかもしれない、という直感は、いままで自分の心に重く巣くっていた。祖父が、自分の戦時中にやったことをどう思っていたかはわからない。けれど、祖父は戦後家族を養うために工場を立ち上げ、母を育て、僕もまた育ててくれた。そのことと、祖父の罪は分けて考えないといけないと思った。
人はいろんな顔を持つ。美しい顔も醜い顔も。再出発、という彼女の発した言葉を口のなかで転がしながら、僕は橋本月子に告げた。
「あなたを――雇います。次の勤務から、よろしくお願いします」
その瞬間、彼女の頬が紅潮した。明らかに「こんな私雇われるはずない」と決めてかかっていたのが予想外に裏切られた顔だった。
「よ、よろしくお願いします」
僕はふっと窓の外を見て、空高くに白線を描く飛行機雲を見つけると目を細める。じいちゃんにも「大切なことは何か」と訊けばよかったと思ったのだ。じいちゃんのこと、もっと知りたかったよ。何も聞かない孫で、ごめんな。
心のうちでそう祖父に話しかけながら、僕は立ち上がると、橋本月子のために契約書類をとってこようと、事務室の引き出しを開けた。
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