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【小説】あなたとおいしい時間を

小さい頃、学校から家に帰ると、ダイニングテーブルの上で母親がのびていることが多かった。テーブルや床に散らばる、缶ビールの空き缶たち。窓を閉め切った部屋に充満する、アルコールの匂い。

『お母さん、起きてよ、起きてよ』

私が揺り起こした振動で、母の口から吐瀉物があふれ出て、私は顔をしかめながら飛びのいた。げっほ、げっほとむせながら、母は空の空き缶を私に投げつける。

『――うるさい。あんたなんか、どっかにいってしまえばいい』

父の浮気が発覚してから、母はキッチンドランカーになり、その生活を五年続けた結果、ひどいアルコール中毒になった。私に暴言を吐いたり、ものを投げつけたりすることも増えて、私は高校を卒業すると同時に家を出て、母とは縁を切った。その後母がどうしているかは知らない。

親戚から、亡くなったという連絡はないから、たぶん生きてはいるのだろう。でも、もう知ったこっちゃなかった。あの家にはいられなかった。――そうして、私はお酒全般と、酔っぱらっている人が、社会人になった二十七歳になった今も、大嫌いなのだった。

「お疲れ様、さあ、高橋さんも飲んで」
「あ、すみません、飲めないので」

ビールをつぎに来た課長の手元を押しとどめながら、私は平に謝った。お酒を飲まない心情として、一番困るのはもちろんこうした会社の酒の席だ。
「んー、そうなのかね、ちょっとくらいならいいだろう」

赤ら顔で、なおすすめて来る課長に向かって、私は断りの決まり文句を吐いた。

「持病で薬を飲んでいて、アルコールとの併用は危ないので、ごめんなさい」

課長は残念そうな顔をしたが「それじゃ、仕方ないかな」と言って、隣の柴田さんに今度は勧め始めた。私はターゲットから外れたので、ほっとして、宴席のフライドチキンに手を伸ばした。

持病があるというのは嘘だった。薬など飲んではいない。けれど、前に別の宴席で、誰かがこう言って断っているのを見て、「これは使える」と思ったのだった。この断り文句で、たいがいの人は引いてくれるので、私はこの文句を重宝していた。

全員参加の飲み会でなければ、いまごろ家に帰って好きな音楽でも聴いているのになあ、と思いながら、私はチキンにかじりつく。この宴席は、揚げ物ばかり出ていて、あまり胃に優しそうでもなかった。

飲み会の席で、みんな声が大きくなり、酒の臭いが宴会場に満ち満ちて、遠慮がなくなる。みんなが距離を、ぶしつけに縮めてくる。その雰囲気がただ苦手だった。早く帰りたい、そう思いながら、ただ縮こまって、自席に座っていた。

会社はお盆休みになり、同僚の女の子たちはみんな実家に帰省すると言っていたが、私には帰る実家がない。4連休をどう過ごそうか思案したあげく、家の近くの食堂に行くことにした。ここは、私が一人で安心してご飯を食べられる店だ。私の事情を知っているから、店主の菜々子さんも酒はぜったい勧めてこないし、何より、その間違いない味にほっとできる。

「こんにちわぁ」

重い木製ドアを押し開けて食堂内に入ると、カウンター内から、店主の菜々子さんが、

「あら、美悠ちゃん、いらっしゃい」

と、大柄な体を揺すりながら、笑顔で迎えてくれた。鶏ガラのように細かったうちの母と比べると、菜々子さんのほうが、ずっと「お母さん」って感じがする。

カウンターには、すでに三十代くらいの男性が座って、さっきまで菜々子さんと話をしていたようだった。前にこの店で見たことがあるような気もするから、常連さんかもしれない。

「美悠ちゃん、いまね、あなたの噂をしてたのよ」
「噂ですか? あ、注文は、エビピラフで」

けげんに思って、私もオーダーしながらカウンターのスツールに座る。
「美悠ちゃんの会社、ポスター制作とかもやってたよね?」
「はいはい、やってますよ」

うちの会社は印刷会社で、化粧品や菓子箱のパッケージデザインとか、企業や市、個人のポスター制作、カタログ制作や、ホームページ制作なども請け負っていた。私は営業部員で、仕事を受注して、デザイナーにつなぐのが主な業務だった。

菜々子さんはさっきからカウンターに座っていた男性を、私に紹介しはじめた。

「この方ね、最近東京からこの街にUターンして帰ってきた、三崎酒屋さんの息子さん。こんどお店をリニューアルして、チラシやポスターなども作りたいので、あたしが美悠ちゃんとこの会社を紹介しようとしてたのよ。そしたら、美悠ちゃんが現れたから、本当にグッドタイミングだったわ」

酒屋さん、と聞いて、少し怯える気持ちもあった。でも、仕事は仕事だし、別につなぐだけで酒を飲む仕事ではないはずだ。私は名刺入れを取り出し、名刺を抜き取ると彼に手渡した。

「ハタモト印刷の高橋美悠と申します。そのようなことでしたら、いつでも弊社にお越しください。デザイナーが相談に乗ります。私のほうからも、上にあらかじめ伝えておきますので。お盆明けの十八日から営業になります」

男性は、いやいやすみません、こちらは名刺用意してなくて、と恐縮しながら頭を下げた。

「三崎酒屋の、三崎葉介と申します。今度会社にうかがわせていただきますね、よろしくお願いいたします」

三崎さんの髪はすっきりと短く刈られ、体は菜々子さんよりも大きい。がっしりとした体格で、首が太かった。菜々子さんが横から会話に割って入って来る。

「三崎さん、大きいでしょう。学生時代にアメフトをやってらしたそうよ」
「ああ、そうなんですね、どうりで」

そのまま雑談して、運ばれてきたエビピラフを食べて、その日は帰った。

お盆が明けて、会社に行くと、私は三崎さんの案件を上司に伝えた。数日後に三崎さんが会社に予約をとり、デザイナーさんと打ち合わせに来ているのを何度か見かけた。私が遠くから会釈すると、三崎さんもにこやかにお辞儀をしてくれた。

うまく仕事がつながってよかった、とほっとして、私はそのまま場を離れた。後ろから、三崎さんの視線が追いかけてきていることには、まったく気づかなかった。

八月の末に、菜々子さんの食堂にまた顔を出すと、菜々子さんはその第一声で私に椅子から落ちそうになることを言ってきた。

「三崎さん、この店に来るたび、美悠さんは今日は来てないですかって聞くのよ」

「は……はあ? それって、どういう」

「美悠ちゃん、たしかずっと恋人いなかったわよね」

「ちょっと待ってください」

私は腕を伸ばし、菜々子さんの前でぶんぶん振った。

「菜々子さん、私がお酒だめなこと知ってるくせに。事情も話したでしょう。酒屋さんのいい人になるなんてこと、できませんよ」

「べつに酒屋に嫁いだからって、酒を飲まないでもいいじゃない」
「だめですよ」

押し問答をしていると、なんとその場に、三崎さんが現れた。私を見て、ぱあっと花が咲いたような笑顔になる。

「美悠さん、お久しぶりです。おかげで、ホームページも、チラシも、いい方向のものができそうです」
「そ、それはよかったです」

私がうろたえながら話していると、菜々子さんが後ろでにやにやしていて、張り倒したくなった。もっとも、小柄な私の力で、倒せるような菜々子さんではなかったけれども。

三崎さんは、私の隣りのスツールに腰掛けて、言った。

「美悠さんは、おいしいものを食べるのは好きですか」
「――は、はい」

その前のめり感に気圧されてうなずくと、三崎さんは笑った。

「僕、うまいものに目がないんです。今度一緒に食事に行きましょう」

――なんだかんだと断れなかったのは、私の中でも、三崎さんに惹かれる部分があったからに違いなかった。でも、それよりもずっと「怖い」という思いが、胸の奥にじわじわと大きな染みをつくっていた。

(この人も、母みたいに、お酒を飲んで豹変するんじゃないだろうか)
(母のもとから逃げ出したみたいに、この人のところから逃げたくなるときが来るんじゃないか)

私の不安な気持ちを察してか、菜々子さんが言った。

「三崎さん、前にも言ったように、美悠ちゃんは、お酒本当に飲めないから。そこだけ、お願いね」
「わかりましたよ、そこのところは大丈夫です」

その晩、菜々子さんは私と三崎さんに、特製チーズグラタンを振る舞ってくれた。新作メニューだそうだ。その晩は、デートの約束をして帰った。男の人とデートに行くのは、大学時代、三か月ほどつきあって別れた彼氏以来、本当に久しぶりのことだった。

九月初旬のまだ蒸し暑い夜。三崎さんと待ち合わせしたのは、小綺麗な和食のお店だった。

「今日は僕も飲みません」

三崎さんはそう言って、メニュー表を開くと、いろいろ注文しはじめた。

烏賊の黒づくり(烏賊墨をつかった塩辛)、鶏肉の照り焼き香味ソース、お刺身盛り合わせ、がんもどきの含め煮、金時草の酢の物、などを次々に頼んで、最後にご飯を大盛と普通の二種類を頼んだ。

運ばれてきて、箸をつけると、そのどれもが驚くほど美味しかった。

「知っていますか、美悠さん。お酒に合うものは、ご飯にも合います。僕は、これらの惣菜を、お酒と一緒に味わうのが好きですが、それは、お酒によってこれらの味のうまみが引き出されるからです。でも、ごはんと一緒に食べても、もちろん美味しく食べられます」

私は、ごはんを口に含みながら、そうですね、と言った。

「僕は、お酒が好きですが、お酒の苦手な人に、無理に勧めるつもりはないです。ただ、酒屋のせがれとしては、お酒を飲む人のすべてを否定しないでほしいんです。僕も、含めて」

「――菜々子さんから、母とのことを聞いたんですね」
「はい、そうです。お辛かったと思います。お気持ち、お察しします」

「――私は、自分がお酒を飲んだら、やっぱり、どこか、自分が自分でなくなる気がしてしまって、すごく怖いです。優しかった母が、ああなってしまったのも間近で見てしまったし、自分がたがを外すのも、怖い。自分や他人が、飲んだ結果、変わってしまうのが、嫌なんです。すごく、嫌で」

「――僕は、美悠さんと、また美味しいものを食べに行きたいです。あなたと、美味しいものを、分け合って食べてみたい。その際、もちろんお酒がなくても大丈夫です。僕が知ってる、そして、まだ知らない、美味しい店を、あなたと開拓してみたい」

三崎さんの視線が、こちらに注がれるのを見ながら、私は、困ってしまって黒づくりを口に運んだ。塩辛さにごはんをすぐ口に入れると、深くて濃いうまみが、少し和らぐ。

「――いいですよ。たまになら」

答えてしまってから、私は、母のことを思い出した。母は、料理が上手くて、酒のつまみもいつも自分でつくっていたことを。少しもらって、ごはんと食べた、そのつまみが美味しかったことを。三崎さんとともに食事するこの時間が、どこに続くのかはわからなかったが、美味しいものを食べたその記憶は、母の記憶とつながっているのだ。

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