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【小説】ふたり(下)
「店はいつから開けるん」
「まだ。父さんの味と一緒なものがつくれてない」
「ちさとの味じゃなんでいかんの。俺は、ラーメンも、ほかのも、うまいと思うけど」
「なんでって言われても。常連さんに申し訳ないよ」
「なあ」
ふいに目の奥を見つめられて、言われた。
「ちさとが本当にやりたいことはなんなん。親父さんが好きだったから、店を継いであげたい。その優しい気持ちはわかるよ。でもちさとは、人のことばっかり考えすぎて、自分がいつもおろそかなんだよ。俺がいまちさとに対してどう思ってるか、わかる? 考えてみたことある?」
「……晋。私と、別れたいん?」
黙った晋に、私はたたみかけた。
「そうやよね。こんな毎晩ラーメンのことばっか考えてて、晋だって仕事すごい忙しいのに、支えてくれる人の一人もほしいよね。ひょっとしてもういい子、いるん? わぁ、ばかだなあ、私、気づかんかった」
「あほう」
ぺちっと頭をはたいて、晋は私を見て言った。
「だから、人のこと考えすぎだっていうんだよ。ちさとは、なんで俺に『一緒に店やって』って言わんのさ。なんで一人で抱え込むかな」
「ええ」
「ちさとの夢、昔から聞いてたし、知ってたよ。自分の店を持ちたいって。だからカフェで修業してたときから、応援してた。でも、その頃から、一緒にやってと言われなくても、俺一緒にやるつもりでいたよ。でも、今回ラーメン屋を継ぐと決めてから、ずっと一人でやってるから、もしかしたら、ちさとの夢に俺はいらないんかなって思った。なんにも相談なかったから。ちさとこそ、俺と別れたくて一人で店やろうと決めたんかと思った」
「ちがうよー、もー。そんなわけないじゃん」
話しながら、目の奥が熱くなった。
「俺、結構貯めたよ。今の会社で。しばらくちさとが店休んでても、心配ないくらい。俺はすぐには会社やめれんし、やめんけど、一緒にラーメン屋、そのうちに俺も加わっていいんだろう? 言っとくけど、舌にも腕にも自信あるんだからな」
ありがとう、と声を湿らせた私に、晋が最後にかけた言葉で、とうとう私は泣いた。
「でもな、店長はちさとだから。親父さんのお店は、あくまで、ちさとのもんだからな」
鶏ガラと昆布。金沢の醤油。これが父の味の決め手だとようやく気付いたその晩、私は完成した一杯のラーメンを、母に振舞った。白髪交じりの髪に、丸くなった背中で、母は私のつくったラーメンをすすると、開口一番に「よくがんばったね」と言って涙ぐんだ。
店の奥からつながる廊下をつたって、自宅の居間の仏壇までどんぶりを運ぶと、私は父の位牌と遺影の前にも、ラーメンを供えた。
店は、来週から開けることになっている。正直、常連さんの反応が怖くないかといったら、うそになる。でも、私は、ようやく目の前が晴れてくるのを感じていた。
紺の作務衣が、いつも父の正装だった。俺の一張羅は仕事着だと、いつも自慢げに言っていたものだ。
私の背筋は、どのくらい今伸びているだろうか。父と同じくらいの仕事はまだまだできなくても、伸びしろや可能性を、信じていたいと思う。
もう父のつくった味を、私は二度と食べられない。でも、自分のつくったスープ、麺、野菜やチャーシューなどの具材、すべてをつくるたび、口にするたび、たぶん父を思い出す。
ほんのりとスープの香りがただよう居間で、さっきまで調理していた汗がゆっくりひいていくのを感じながら、私は位牌の父に「お疲れ様」とそっと声をかけた。
(了)
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