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【小説】きみと分けあう日々のこと

暦の上では今日から六月、もうすぐ梅雨入りが始まる。昨日まで晴れていた東京の空は、今朝はうすく雲が広がり、午後あたりからひと雨きそうにも見えた。最近の春の終わりは暑いから、雨でも降って少し涼しくなってくれるとありがたい。そう思いながら私は、冷蔵庫から冷やした麦茶のボトルを取り出した。遅く起きた休日の朝なので、いまから朝ごはんにしようと思ったのだ。

と、玄関からチャイムの音が聞こえたので、慌てて玄関まで出てみると、宅配便だった。小さな小箱を受け取って、サインすると、ドライバーのお兄さんは「ども」と笑顔をつくって、マンションの階段を下りて行った。

差出人を見ると、予想もしなかったことに、五年前に別れた哲からだった。紙袋に丁寧に包まれた箱を開けると、中から八個入りの栗のパイと、折りたたまれた手紙が出てきた。手紙を開くと、懐かしい哲の文字が並んでいた。相変わらずの、職人らしい不格好で走り書きの字だった。

「まどかさん お元気ですか。この間一人旅で丹波まで行きました。栗が名物だということで、試食してみたらおいしかったので、ぜひまどかさんに食べてもらいたいと思ってしまい、気が付いたらお店の人に発送を頼んでいました。

俺のほうは、やっと仕事の注文が少しずつ来るようになり、今度個展を開ける運びとなりました。吉祥寺のギャラリーを借りて、6月10日から20日までやります。よかったら、個展にいらしてくださいませんか。久しぶりに上京するので、まどかさんの顔が見たいです」

哲が、個展を開く。思わず私は「がんばったんだね」と口に出していた。哲と過ごした大学生活四年間の思い出が一気に蘇り、私はそっと目を閉じた。

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哲と出会ったのは、東京の西にある美術大学のキャンパスだった。デザイン科に在籍していた私は、同じデザイン科の先輩に連れられて入った散歩サークル(珍妙なサークル名だが、本当に都内のありとあらゆる場所を散歩したのだ)で、彫刻科にいた哲と出会った。

サークルの活動が終わったあとの、飲み会の席で、哲の手を見せてもらって感心していた思い出がある。ノミを持ち続けた、節くれだった大きな手。哲の木彫りの彫刻は素晴らしく、先生たちからも、あいつはなかなかの才能だ、と御墨つきをもらっていた。

私たちは気が合って、すぐに付き合い始めた。私も哲も夜型だったから、二人で、東京の夜をたくさん歩いた。大きな歩道橋の上から、ときには都庁の上から、ときには湾岸の近くから。私たちはたくさんの東京の街あかりの下、手をつないで歩いた。きらきら明るい夜の街で、私たちの未来も、この先ずっと続いていくように思われた。しかし、ことはそう簡単には運ばなかった。

二人の中がぎくしゃくし始めたのは、進路について考えはじめた三年生くらいのことだった。ポスターデザインやウェブデザインを勉強し、デザイン事務所や広告代理店にしぼって就活をはじめた私の隣で、哲は自分の進路について、まだ決めかねているようだった。

「哲の作品、いくつか賞をとっているわけだし、このままアーティストとしてやっていけるんじゃない? 一緒に住もうよ。家賃は私が多めに払ってもいいよ」

私はそう持ち掛けたが、哲は、最終的には、当時の私には信じがたい結論を出した。塗椀の勉強がしたい。その方面で職人になりたい。だから、東京を離れる。そうして哲は、さっさと、伝統工芸で有名な、石川県の加賀地方の山中塗の工房で修行する手続きをすませてしまったのだった。

哲は、別れよう、とはそのとき言わなかった。ただ、私はもう、だめだと思った。なぜ、彫刻の道を捨てて、よくわからないお椀なんかのために、遠いところへ行かないといけないのだ。それに、私のやりたい仕事は東京にしかなかった。私こそ、地方で仕事はできなかった。哲は、石川県についてきてほしかったのかもしれない。ただ、私にもやりたいことがあって、折れるわけにはいかなかった。

私たちは、卒業を待たずして、どちらからともなく、別れを言い出した。凍てつく真冬の寒さの中で、哲のアパートの合鍵を返した。哲も、私のアパートの合鍵を返した。この合鍵を、おんなじものにして、おんなじ家に住むのが、私の本当に叶えたいことだったのに。

お互いこれから仕事に打ち込み、ものすごく忙しくなるような予感から、遠距離恋愛には発展しなかった。「がんばって」と最後にかけた言葉の末尾がふるえた。哲も、マフラーに顔を深くうずめ、まるで泣いているのを隠しているかのようだった。

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冷たいお茶とともに、哲からもらった栗のパイは、私の今日の朝ごはんになった。あのとき、お椀なんて、と思ったけれど、今は、哲のつくったお椀がどんなものか見てみたかった。丹波とはどこだろう。そう思ったので、ネットで検索してみると、兵庫県のほうだということがわかった。哲は旅が好きだったから、ふらりと電車に乗っていったのだろう。

個展に行ってみたい、と素直に思えたのは、いま現在、恋人と呼べる人がいなくて、誰にも気をつかう必要がないからだった。哲と別れたあと、付き合った人は二人ばかりいたが、どちらも一年と持たなかった。一度は浮気されて終わり、もう一度は、相手のルーズさに嫌気がさして、私から別れを言い出した。なんだかんだ、哲と一緒にいたときが一番楽しかったな、そう思い返していたこの頃だったから、パイが届いてびっくりした。

栗のパイは口の中でさくさくくずれ、とても美味しかった。私に食べさせたい、といっては、大学時代も、和菓子やたこ焼きを買ってくるのがしょっちゅうだった哲だから、今回もふとした拍子に思い出してくれたのだろうと思った。

私は朝食の皿を片付けると、クローゼットを開けて向き合い、さて、個展には何を着ていこうか、と思案した。

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おろしたばかりのサンダルのかかとが、階段を降りるたびに、カツ、カツ、と音を立てた。結局、オフホワイトの半袖ブラウスにモスグリーンのロングスカートを合わせた夏向きの恰好で、私は吉祥寺駅の出口に降り立った。日曜とあってか、やっぱり人が多い。

人込みに流されながら、私は井の頭公園近くだというギャラリーを探した。都内なのにほどよく緑がある吉祥寺は、久しぶりに訪れた。ふだんは新宿で仕事をしているので、高層ビルが林立している都心から比べたら、少しは息がしやすいように思う。

ギャラリーを見つけると、私は重い木の扉を押し開けて中に入った。と、哲の後ろ姿がまっさきに目に入り、心臓がとびはねた。五年ぶりの再会というのは、やはり何かと心臓に悪い。

チリリンと、ドアの上に吊り下げられたカウベルが鳴り、哲が振り向いた。こちらを見るまなざしが、どこか温かい。

「まどか……さん、久しぶり」
「久しぶり。まどかでいいって。さん、いらないって」

照れ隠しで、そんなことを言ってしまう。哲は「よく来てくれたね」といって、よく展示物を見てもらえるようにか、私の視線を邪魔しない場所に立った。

白く壁が塗られたギャラリー内のあちこちに、哲がつくったのだろう塗椀が置かれていて、私は、その一つ一つを見て回った。

「木から、お椀の形を削りだすんだ。そして、漆で塗っていくんだよ。すごく細かい工程があって、最初の三年はそれらをひとつずつ身につけることに費やした。自分なりの作品ができてきたのは、そうだな、去年くらいかなあ」

まるみをおびた、温かい焦げ茶色をした汁椀をひとつ、哲の許しを得て手にとってみた。とても、なめらかでやわらかな肌触り。ここに、熱々のお味噌汁をそそいで飲めば、どんなに贅沢な朝ごはんになるだろう、と、心から思える出来だった。

「それ、気に入った? あげるよ」
「だめだよ、買うよ。お値段ついているんでしょう?」
「どのみち、まどかには一つプレゼントしたいと思ってたから、いいんだよ。そのかわり」
「そのかわり?」

汁椀から顔を上げて訊き返した私に、哲は和やかな目をして言った。

「ひさしぶりの東京の夜だから、ギャラリーを閉めたら一緒になんかメシを食べに行こう」

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居酒屋に私は誘ったが、哲は「今日は飲みたくないんだ」と言って、二人でチェーンの定食屋さんに入った。お互いにおかずを、それぞれ好きなものを選ぶ。哲は、サバの味噌煮に冷ややっこ、春雨サラダにとろろご飯、豚汁をトレイに載せた。私は、筑前煮と、ほうれん草のおひたし、筍の土佐煮、雑穀ご飯に、わかめと油揚げのお味噌汁にした。

「なんか、学生食堂みたいなメニューだね」
「ほんとほんと。大学の学食で美味かったのなんだっけ、ほら」
「もやしのキムチ和えじゃなかった?」
「そう、それそれ!」

私たちは、定食をつつきながら、それぞれの近況の話をした。哲の厳しい師匠の話。伝統工芸の奥深さ。冬は甘えびやぶりが美味しい、石川県のこと。私が今手がけているお菓子のパッケージのこと。転職して、ようやく落ち着いた休みもとれるようになったこのごろのこと。東京の街の、最近おいしいレストランのこと。

話は尽きないように思えたが、ふと、間ができて静かになった。哲の目が、こっちをじっと見ている。

「で、まどかは今、ひとりなの」
「うん。……哲は」
「俺は、ひとりだよ。ずっと」

どう答えていいかわからずに、私はうつむいた。だって、二人はいまだって離れているし、別れたのだって、五年も前だし、なんて言い訳をしているうちに、哲が言った。

「北陸新幹線ができたの、知ってるよね」
「うん」
「東京と、だいぶ近くなったよ。俺の街も。まどか、一度石川県に、旅行に来ないか。加賀温泉郷があって、俺の工房の近くにも、山中温泉っていう、温泉街があるんだ。まどか、温泉も、うまいものも、好きだろう?」
「そうやって、好きなもので、すぐ釣ろうとするんだから」
「そう言えば、まどかが欲望にあらがえないの、よく知ってるからな」

哲はひとしきり笑ったあと、言った。

「俺、少しはお給料、出るようになったよ。修行のはじめごろは、まったく金なかったけど、今は、まどかの温泉代を出せるくらいには、あるからさ。だから、来てよ」

断る理由は、もう見つからなかった。私は「じゃあ、行く」とうなずいて、三週間後の土日に、手帖を取り出してしるしをつけた。哲は「いいとこ予約しとく」と言って、食べ終えた箸を置いた。

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そして、六月も終わるころ、私は金沢駅に降り立った。東京から北陸新幹線で二時間半。金沢駅には、哲が車で迎えにきていて、そこからさらに五十分ほどかけて、加賀温泉郷へと向かった。

車窓から見える水田は、空を映して鏡のようになっている。東京よりも、空が広くて緑が多い。哲はハンドルを握りながら、機嫌が良いのか鼻歌を唄っている。私はときどき、運転席の哲にチョコレートの個包装をむいて渡す。こうしていると、恋人同士だった時代となにも変わらなくて、いまも付き合っているかのように錯覚しそうだ。

「もうすぐ着くよ。まずはお宿に荷物を置いて、それから散策しようか」
と哲が言うので、私は膝の上の空になったチョコレートの袋を片付けた。
 
本日泊まる温泉宿に到着し、フロントで鍵をもらった。緑に囲まれた、風情のある和風の建物に、どうしても心が躍ってしまう。荷物を持って、仲居さんに案内されてエレベーターに乗り、二階で降りた。通された和室は広々と明るく、窓から見える景観も素晴らしかった。

「わあ、雰囲気、あるねえ」
「いいでしょ、ここ」

座卓の上にあった急須とポットでほうじ茶を淹れると、私たちは向き合って、置いてあった干菓子をいただく。和三盆の落雁は、口の中で淡くとけていった。

「こんな、いい思いしていいのかな。ありがとう、哲」
「俺もいっぺんここの温泉、泊まってみたかったからさ」

夕食まで時間があったので、散策に出ることにした。外の空気は澄んでいて美味しい。自分の細胞ひとつひとつが、新鮮な空気を吸って、生き返るようだった。

「このあたりは、松尾芭蕉が訪れたことで有名なんだよ」
「松尾芭蕉って、あの俳句の?」
「そうそう、この橋は黒谷橋といって」

宿から少し歩いたところの渓流には、石でできた大きな橋がかかっていて、アーチ状になっている。

「芭蕉の時代は木造の橋だったらしいけど、芭蕉は『行脚の楽しみここにあり』とこのあたりの景観を称賛したらしいんだ。この橋を渡ると、小松の那谷寺にも続くんだよ」

その近くに、深い緑に囲まれて芭蕉堂があった。明治時代に建てられた、芭蕉を祀る小さなお堂らしい。

「芭蕉が山中温泉に来て詠んだ句はね」
「うんうん」
「山中や 菊は手折らじ 湯のにほい」
「ああ、いかにも、名湯の句って感じだね」
「そうでしょう」

そのあと芭蕉の館まで歩いていって、展示されている山中漆器の秀品の数々を見た私たちは、ゆっくりと、また宿まで戻ってきた。落ち着く和室に、ごろんと寝ころび、こんなにいい時間を過ごせたのはいつぶりかな、と思いをはせる。

日が暮れてきたので、夕食前に、それぞれひとっ風呂浴びることにした。浴衣に着替え、下着を紙袋に入れて、私は女湯へと向かった。かけ湯をしてから、熱い風呂に体を沈めると、ふつふつと体の奥から癒されていくのがわかった。

湯を上がると、肌がしっとりとしている。服をまた身に着けたあと、脱衣所内の鏡に向き合い、私は化粧水をはたきはじめた。

部屋に戻ると、哲が野球中継を見ながら、私に声をかけてきた。

「お食事は一階の大広間だってさ。もう食べにいこうか。お腹すいただろ」
「うん、行きたい」

出された懐石料理は、どれも素晴らしく美味しくて、私は、ひとつひとつ味わいながら食べた。哲が何を考えて、私を誘ったのか、まだ聞いていない。もしかすると、今日こそ、最後のつもりで、思い出に蹴りをつけるために、哲は誘ったのかもしれない。

日本酒の徳利を傾けていたら、そう多くは飲んでいないのに、酔いがまわってきた。哲の顔が、ぼんやりする。食事が終わり、部屋に戻ると、私は敷かれていた布団のひとつに、ごろんと寝転がった。隣の布団にあぐらをかいて、哲がこっちを見る。

「大丈夫、まどか」
「だいじょう、ぶ。少し酔いはさめてきた」
「ならよかった」
「ねえ、哲、どうして山中塗をやろうと思ったか聞いていい?」


哲はうなずくと、ひとことひとこと、噛みしめるようにして話し出した。


「うん、それは、器が好きだったんだ。器って、食事のときに必ずいるでしょ。俺にとって、食事の時間っていうのは、誰かと、一緒に過ごすもので、味わうもので、その幸せな時間に、俺の手でつくった、食器があったら、って思った。大切な誰かと一緒にものを食べる、たくさんの人のそんな時間に、俺のつくった椀があったらって、そんなこと考えてた。陶器の皿も、やってみたくないことなかったんだけど、こういう汁椀なら、木から削りだすから、俺が大学までやってきた木彫りの技術をそれなりに活かせると思ってさ」

「そうだったんだ。やっと、つながった」

「山中塗は、色が、温かいんだ。素朴な色でさ、普段使いにも気がはらずにちょうどいい。大学三年のとき、東京の伝統工芸フェスみたいなところに行って、『俺のやりたいのはこれだ』って思っちゃって」

哲はぽつぽつと、話しつづける。

「最初の三年は、修行でいっぱいいっぱいだったんだ。覚えることがとにかく多かったし、毎晩遅くまでがんばってて。いろんなことに気を回す余裕がなかった。まどかのことも、忘れてはなかったんだけど、それより、早く一人前にならなきゃって、そればっかりだった。

去年くらいから、少し落ち着いてまわりを見れるようになってきた。そうすると、忙しい間はわからなかった、この街の食べ物のおいしさや、温泉のすばらしさも、身に染みてきて。

そうすると、思うんだ。うまいもの食えば、これをまどかに食べさせたいなって思うし、温泉に入れば、まどかにも気持ちいいお湯につかってもらえたらなって、思うんだ。うまいもの食っても、いい思いをしても、きれいなものを見ても、ぜんぶこれがまどかと一緒だったら、って、そんなことばっかり、思ってた」

哲の思いをはじめて聞いて、胸がいっぱいになった。何か言わなきゃ。そう思っているさなかにも、哲はたたみかけてきた。

「俺、やっぱりまどかと、毎日の食事を分け合いたいよ。そう思えるのは、まどかしかいない。三百六十五日、何かしら食べているけど、その時間を分け合いたいんだ。俺のつくった椀で、まどかと味噌汁が飲みたい」

私は思わず泣いた。五年前、哲に置いていかれて、部屋で泣いていたあの頃の私が心の中にいて、その私の肩に、ふわっと毛布がかけられたような気分だった。「ただいま」の言葉とともに。

哲は私を抱きかかえ「まどかも仕事があるし、返事はすぐにくれなくていいから」とささやいた。哲の体はぬくかった。私が泣き止むと、哲は私を布団に寝かせ「眠ってしまっていいよ」と言った。

「俺はバーでもう少し飲んでくるから、先寝てて」
そう言うと、哲は部屋から出て行った。私はそのあとも、体を折って、嗚咽をこらえながら、まんじりともせずにいたが、哲が遅いので、結局は眠ってしまった。

朝方目を覚ますと、哲は隣の布団で背を向けて、いびきをかいていた。私は哲を起こさないようにして、身を起こす。昨日コンビニで買っておいたミネラルウォーターを飲み干すと、人心地がついた。

哲の告白、というかプロポーズに、答えを出してあげなくてはいけない。私は、自分の東京での仕事を考えた。そして、この緑多い山中の地に引っ越してくることを考えた。どちらが大事か。どちらが優先か。

私は着替えると、一人で朝の散歩に出ることにした。朝のきれいな空気と太陽の下で、一考しようと思ったのだ。そっと部屋の扉をしめ、エレベーターでフロントに降りた私は、ホテルマンに「ちょっと散歩にいってきます」と言うと、外に出た。

温泉街は朝の光に洗われて、しんと静かだった。時折、小鳥のチチチと鳴く声が聞こえる。ぶらぶらと歩きまわるうちに、小さなパン屋を見つけた。こぢんまりとたたずむそのパン屋に、私は吸い寄せられるように入った。

焼きたてパンのいい香りがただよい、私は思わず大きく息をすった。ああ、いい匂い。店頭には十五種類くらいの、いろいろな形や具を乗せたパンが並んでいる。たしか、旅館は夜の食事だけのコースだったから、朝食はなかったはずだ。

「哲のぶんも買って行ってあげようっと」

そう口に出して、パンを選んでいるうちに、ひたひたとぬくい気持ちが、胸のうちに押し寄せてきた。それは、今までの私に、なかった気持ち、足りなかった気持ちだった。

「おいしいものを、幸せな時間を、分け合いたい」哲がゆうべそういった気持ちが、わかるような気がした。おいしいものを、買ってあげたい、食べさせてあげたい誰かがいる。それは、その人が好きで、喜ばせてあげたいからだ。

なんだ、私はやっぱり哲が変わらず好きだったんだ。大学生の頃は、自分の気持ちをお互いに押し通すばっかりで、相手を思いやる気持ちがなかった。でも、今は違う。私にも、哲にも、お互いを気遣う余裕があった。

「よもぎパンと、桃のデニッシュ、オレンジピールのパンと、照り焼きチキンサンドください」

茶色いエプロンをした若い女の子の店員が「はい」と素敵な笑顔で気持ちよく接客してくれる。私はお会計をすますと、パンの袋を買って外へ出た。

宿の近くまで来たところで、向こうから哲が息せき切って走ってきた。私の前で立ち止まると、肩で大きく息をついている。

「よかった、まどか、いた。起きたら部屋にいなかったから、昨日の返事がだめで帰っちゃったのかと思って、焦った」
「朝ごはんを買いに出てただけだよ。大丈夫、大丈夫。はい、どのパンがいい?」
「パ、パン?」
「哲の言ってる意味、わかったよ。私もね、哲と、おいしいパンが、朝ごはんが食べたいよ。毎日、一緒に食べたいんだ」
「まどか、本当に?」
「ほんとうに」

哲がぱっと笑顔になり「やったああああ」と大声で叫んだのでびっくりした。私もにこにこしながら言った。

「しばらくは、私も、東京での仕事をすぐにやめれないから、めどがつくところまで終わらせるよ。でも、そのあとは、こっちに来ようかな」
「まどかほどのデザインの技術があれば、こっちも観光に力入れてるし、口はあると思うよ。俺も、仕事がんばるよ。まどかを師匠や仲間たちにも紹介したい」

新しい日々が、この街で始まる。その予感を胸に、私はまだ温かいパンの袋を抱えながら、心から元気が湧いてくるのを感じていた。

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