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【小説】ひとりで生きる

目を落としていた文庫本から顔を上げると、蓉子は仕事鞄からのど飴を取り出して、個包装をひとつ剥くと、口の中へ放り込んだ。八月の後半、夕刻を少し過ぎた電車の中は、冷房がきつすぎて寒いほどだ。鞄からさらに長袖のカーディガンを取りだすと、蓉子は隣の邪魔にならないよう注意しながらそれを羽織った。少し、寒さが軽減された。


県立高校で国語教師をしている蓉子にとって、喉のケアは毎日必須だった。生まれつき喉が弱く、腫れやすいため、授業で声を張った後は、こうして帰りの電車の中でのど飴をなめている。薬用ハーブのど飴の、独特の甘苦い香りが、鼻先へと抜けていって、蓉子はほっと息をついた。家につくまで、あと二十分、こうして電車に揺られながら過ごさなくてはならない。


対面の窓の外は、ちょうど沈みゆく太陽の最後の光が、ビルとビルの間に落ちていっているところだった。空の上部を覆う重たい灰色の雲とのコントラストが、きれいといえばきれいだった。プロのカメラマンなら、上手く写真に収められるだろう、と蓉子はふと考えた。


その一瞬の美しさも、電車が停車駅に止まった途端にどっと乗り込んできた乗客たちの背中に、あっという間にかき消された。ため息をひとつついて、蓉子はまた文庫本に視線を落とす。ざわざわとする電車の中ほど、読書がはかどるのは不思議だ、と思いながら、蓉子は眉間を指で揉んだ。


降車駅に電車が停まると、蓉子は人並みに押されるようにしてホームに降りたった。争うように出口への階段を下りていく、背広姿の一団とともに、改札まで流されていく。改札機に定期をタッチして、東出口から外へ出ると、生ぬるい夏の終わりの湿気た外気に包まれた。


少し気分が憂鬱だったが、その理由は自分でもわかっていた。学校の昼休みに届いたメールが原因だ。妹の真知子からだったのだが、生まれたばかりの赤子の画像が添付されていた。「お姉ちゃん、久しぶり」と題されたメールは、子どもがついに生まれたから、夏休みには実家に帰ってきたらと、蓉子の帰省を促す内容のものだった。


妹の出産を素直に喜べない自分がまぎれもなくそこにいて、蓉子は菓子パンを食べながら一瞬たじろいだ。真知子は三年前に結婚し、今も両親と同じ田舎街で暮らしている。両親も、さぞ相好を崩して喜んでいるだろう、そう思うと、ますます帰り難かった。


昔から、愛想が良くてちゃっかりしている妹は、両親にも可愛がられていた。一方で、本ばかり読んで気難しかった自分は、両親からもよく「何を考えているかわからない」と言われ続けた。大学時代に教員免許を取って、翌年県立高校の採用試験にパスすると、実家を出た。


三十七歳になる今も、結婚はせず、一人で暮らしている。誰かと住んだり、子どもを持ったりする、そんな人生は、自分にはきっと向いていない。そう認識しているからこそ、無邪気に、子どもの写真を送って来る真知子に、どう応えたらいいのかわからなかった。


家へと歩く道すがら、蓉子はコンビニエンスストアに寄った。ぺかぺかとしたコンビニの青い明かりに吸い寄せられるように店内へと入り、夕食を調達する。明太子おにぎりと、コーンサラダと、唐揚げを買った。チョコレート菓子も買った。蓉子は自炊が苦手だ。たまに思い立って野菜や肉を買っても、結局使い切らずに駄目にしてしまう。


長く働くためには健康が第一、そのためには栄養のある食事を、とは思っていても、仕事に忙殺される日々の中、自炊の習慣を続けるのは蓉子には難しいことだった。たまには、と思って野菜ジュースのパックも買い、まとめてレジへと持って行った。明るい茶髪につけまつげをした若い店員の女が、目にもとまらぬ速さでレジを打ち、会計をすませてくれた。


新しい号が出ている週刊少年漫画誌の、目当ての漫画の回を立ち読みし終えると、蓉子は薄暗くなってきた外に出た。夏が楽しかったのはいつの子供時代だっただろう、と思う。いつからか、夏は暑さと冷房に辟易しながら、じっと終わりを待ちわびる季節になってしまった。頭の上の街灯がまたたきながらついて、少し明るくなった道を、だらだらと歩いて、自宅マンションへと帰った。


郵便箱に入っていたデリバリーピザのチラシを仕事鞄につっこみ、鍵を開ける。室内に入った蓉子はすぐに冷房をつけて、冷蔵庫から麦茶を出して飲む。もちろん市販の2リットル入りのペットボトルのものだ。以前、職場のベテラン教員から「麦茶くらい手作りせずに、どうやって節約するの」と言われ、癇に障ったことがある。手作りとか、全然好きじゃない。そこでいちいち手間取るのが嫌いなのだ。


小さな丸テーブルの前に座り込むと、コンビニの袋を開けて、おにぎりにかぶりついた。胡麻ドレッシングの小さな袋を切り、コーンサラダの上にかけて、プラスチックのフォークを使ってサラダも口に運ぶ。野菜と肉があったら、まず野菜から食べると、太らないんだよ、と教えてくれた元恋人の教訓を、蓉子は今でも律儀に守っている。


くだらない、と思いつつも、太るのが嫌なので、気付いたら守ってしまっているのだ。その恋人と別れたのが、十年も前のことだと思うと、自分がひどく歳をとってしまったように思える。


シャワーをすませ、形だけともいえるスキンケアを三分で終わらせると、蓉子は髪をかわかしてベッドへともぐり込む。電車の中で読んでいたのとは別の文庫本を、ベッドサイドテーブルから取り、ページをめくりはじめる。


本があれば、どんなにつまらない一日も、やり過ごすことができた。本の世界にいったん逃避すれば、もう嫌なことなど感じなかった。真知子への返事は明日にしよう、と思いながら、蓉子は眠りがやってくるまで、読書をつづけることにした。

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教壇の上からは、どの生徒が何をしているかが一目で分かる。夏季補修中、つっぷして寝ている男子生徒は二、三人には収まらず、鏡を見てこそこそ化粧をしている女子生徒、小さく折り畳んだ手紙を回し合って、忍び笑いする生徒など、とにかくあまり蓉子の授業を真面目に聞く生徒はいない。高校生の集団からは、蝶が鱗粉をまき散らすように、若いエナジーが、そこかしこに放たれているように思えて、少し息苦しい。


二階の教室の窓の外は雨模様で、冷房のない教室の中はひどく蒸し暑い。その中で授業というのは、聞く方もやる方も大変だ、と蓉子も思う。徒然草の中の一節を解説し終え、文法の小テストをやらせ、テストを回収し終えたところでチャイムが鳴った。


途端にざわつきはじめる生徒たちに「今日は終わり」と声をかけると、席を立つ音とはじまったお喋りで、あっという間にうるさくなった。職員室へ戻ろうと、蓉子がテストを持って廊下に出たところ、一人の女子生徒がぱたぱたと追いかけてきた。


「津端先生、ちょっと待って」


耳の左右できっちりと結ばれた黒髪と、意志の強さを感じさせるまっすぐな瞳を持つ少女は、井原香菜といった。蓉子が担任している生徒でもある。彼女は、蓉子が授業をしているときも、黒板から目をそらさずにまっすぐ蓉子自身の言動を見てくれる数少ない生徒の一人だった。


「さっきの授業、分からないところがあったんですけど」


香菜の質問に、蓉子は小テストの束を片手に抱えながら答えた。蓉子の授業で説明しきれなかったところを突く、的確な質問だった。香菜は、これまでも蓉子の授業の後、質問しにくることがたびたびあった。ほかの先生にもきっと質問に行っているのだろう、と推測しつつも、蓉子自身は、さほど人気のある教員ではなかったから、きちんと質問しに来る香菜のことをひそかに、良い子だな、と思っていた。


「井原さんが指摘してくれたところ、センターのひっかけとかで出やすいよ。覚えておくといいね」


そう言うと香菜は、頬を上気させて笑った。


「先生、ありがと」


お辞儀をして教室のほうへ戻って行く香菜を見ながら、蓉子も職員室のほうへと歩みを向けた。


職員室の自席に戻ると、机の上にお菓子の包みがいくつも置いてあった。向かいの席の藤原先生に蓉子は聞いてみる。


「お菓子、どなたが下さったんですか」
「ああ、そっちのキビ団子は山下先生から。クッキーの袋は西川先生。二人とも、夏休みは帰省してたみたいよ」


教職員は、お盆休みとは別に、七月後半から八月の間で三日間休みがとれた。先生たちで休む日を調整して少しずつずらし、全員が順繰りに休みを取るようにしている。


「津端先生も、夏休みはご実家に帰るんでしょう。もう八月も半ば過ぎちゃったから、新学期始まる前にちゃんとどこかで三日休んでくださいよ」


藤原先生が、額の汗をタオルでぬぐいつつ野太い声で言う。学年主任の藤原先生が、スケジュール管理をしているから、本来は早めにこの日が休みだと言わなければならなかった。次々にやってくる仕事に追い回されて、伝えそこねていた。蓉子は手帳を取りだすと、


「じゃあ、八月の二十二日から二十四日に休みます」


と告げた。藤原先生も、それを聞くと、学年用のホワイトボードに「津端先生 八月二十二日~二十四日 夏季休暇」と黒いペンで書き込んだ。


帰省日が決まった途端、憂鬱さがいっそう重たくなる気がしたが、それをふりきるようにして、蓉子はキビ団子の包み紙を勢いよくはぎとると、もう冷めたコーヒーとともに口の中に入れた。団子の味は、コーヒーの味の強さに、消えてしまった。もっとちゃんと味わえばよかった、と一瞬思ったが、後の祭りだった。


ふいに窓の外からぱっと閃光が差し、間を置いて地面をゆるがす大きな雷鳴がとどろいた。雨音も、バケツをひっくり返したように、いっそう大きくなった。


「最近の雨は、まるで熱帯のスコールですよね。熱帯地方、行ったことないけど」


社会科の鈴木先生が、蓉子の隣でもごもごと言った。「そうですね」と相槌を打ちながら、蓉子は、今度はクッキーの袋を開けた。今度はちゃんと味わおうと思いながら口へと入れる。粉っぽい甘さが口内へ広がり、結局すぐにコーヒーを飲むはめになった。雷光が、ふたたびまたたいて、藤原先生が「パソコンのデータ飛ばないように気を付けてくださいよ」と、周りに注意を促した。

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帰りの電車を、自宅方向とは反対のものに乗り、蓉子は街の中心部のデパートに向かった。中心街の駅で改札を出て、雨上がりの道路を歩いた。平日であっても、人通りは多く、みんなこれから飲んだり遊んだりしに行くのか、少し浮足立った空気の中、足早にデパートの入り口玄関をくぐる。


デパート一階の化粧品売り場には、すらりとした美容部員がそれぞれのブランドのブースに並んでいて、蓉子は背をかがめながら、こそこそとその一角に向かう。


無添加を売りにした、自然派化粧品のとあるブランドの化粧水を、今日は買い求めにきたのだった。蓉子の肌はとても荒れやすく、普通のスーパーに並んでいるものでは、すぐに肌の調子が悪くなる。いろいろ試し、やっと合うものが見つかったが、県内ではこの大きいデパートにしか売っていないのだった。

デパートに来る客層に、垢抜けない自分はあてはまらない、と思っている蓉子だったが、学校で全くメイクしないというわけにもいかず、メイクするには化粧水は必須なので、しぶしぶ、切れるたびにこのデパートに足を運ぶのだった。


びくびくしながら、応対してくれた店員に「これください」と指さす。「お肌チェックしていきませんかー? 似合うお洋服のカラー診断もできますよー?」と、語尾をのばした猫なで声で笑顔を見せる美容部員に、「いえいいです」と断り、蓉子は急いで会計をすませた。こんな落ち着かないぴかぴかの店内、とても居づらい。


とくに裕福でもない家に育った蓉子にとって、デパートは「手に届かない価格のものばかり売っている場所」という印象をぬぐえなかった。化粧水一本買うのに、八千円も払うのか、と、自分の荒れやすい肌を恨みながら、蓉子は財布を出した。八千円あれば、文庫本がいったい何冊買えるのか、計算したらきーっとなることは自分でもわかっているので、あえて頭からそのことを追いやる。


美容部員の美しすぎる作り笑顔に、消耗した気分になって、化粧品売り場を後にした蓉子は、デパートを出て、繁華街近くの、一軒の喫茶店に入った。レトロで落ち着いた内装のこの喫茶店は、昭和のころから変わらない、懐かしい味わいの洋食ばかりがそろっていて、蓉子は街へ出ると必ずここに立ち寄る。


注文を聞きにきた店員に、「ナポリタンひとつ、あとホットの紅茶」とオーダーして、蓉子はソファ席で一気に体の力がぬけるのを感じた。疲れがたまっている。そして最近、疲れからの回復が遅い。自分の体力も精神力も、四十代に近づいていることを、ひしひしと実感した。


ほどなくして、湯気をたてたナポリタンが運ばれてきて、蓉子はフォークを手に取った。サービスでついてきたコンソメスープも嬉しい。熱いスパゲティをふうふうしながら口に運ぶと、ようやく胃が落ち着いてきた。お行儀が悪いと思いつつも、ラックから女性週刊誌を取ってきて、読みながら食べる。

照明はものを読むには暗めだけど、この暗さがかえって落ち着くのだ。さっきのデパートには居場所がなかったが、ここにはある。そう思いつつ、少し冷めてきたスープを、蓉子はすすった。


会計をすませ、店の一歩外に出ると、すっかりあたりは暗くなっていた。日中はあんなに蒸し暑いのに、夜となると涼しさが降りてくる。もう夏も終わりだな、と思ったとたんに、真知子にメールを返していないのに気が付いた。慌てて携帯を取り出し、「二十二日に帰ります」とだけ書いて返信する。すぐに真知子から「で、赤ちゃんの感想は?」と秒速で返ってきて、うんざりしながら「かわいいね」とお世辞を打ち込んだ。


電車の駅まで歩く途中で、酔っ払いの若者集団と行き違った。男性女性交えて五、六人いて、その誰もが酒臭く、蓉子は思わず顔をしかめる。その中に、見知った顔がいたような気がして、蓉子はぎくりとなった。井原香菜に似ている女子が、その中にいた、気がした。井原香菜に似ている女子は、遠目から蓉子を見て、すぐにパーカーのフードをかぶった。知らないふりをしろ、と蓉子の中の声がつぶやいた。


蓉子はうつむき、自分は何も見なかった、と、自分自身に言い聞かせながら、まっすぐに駅を目指した。喧噪が遠ざかる頃、蓉子はほうっと息をついて、手に提げた化粧水の袋の重さを改めて感じた。明日もまた補講がある。早く帰って、簡単にでも授業準備をすませてから寝なければ、と思い、蓉子は駅の明かりが見えてくるところまで、一心に歩いた。


改札を通って、電車を待つホームに立つと、さっき井原香菜を見たのは、夢だったような気がした。若い女の子は、みんな同じ髪型をして、同じように見える。多分錯覚だ、と蓉子は自分に言い聞かせた。

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蓉子は国語の教諭だが、同時に司書教諭も兼任していて、毎月の図書室での展示図書をセレクトするのは、蓉子の仕事だ。今回は古典文学を中心に、十冊ほどを取りあげて、パートの司書二人にリストを渡した。彼女たちが、展示作業をしてくれるのだ。


仕事を彼女らに頼み、少し世間話をしたあと、蓉子が図書室から出てくると、見計らったように一人の生徒が、ぱっと目の前に現れて通り道をふさいだ。井原香菜だった。蓉子は面食らい、「ああ」だか「わぁ」だか声を上げると、香菜は真剣な面持ちをして言った。


「津端先生が図書室のほうへ行くのあっちの廊下から見えたから、終わるの待ってたんです」
「何か用?」


蓉子が尋ねると、香菜はワントーン声をひそめて、言った。


「津端先生に相談したいことがあって。いま、お時間いいですか」


香菜の表情があまりにも固かったので、蓉子は「それなら」と言って、進路指導室へと香菜を連れて向かった。進路指導室の奥の相談室は、個室になっているから、まわりに聞き耳を立てられることもない。


進路指導室に入り、テーブルを挟んで向かい合って座ると、香菜は思い詰めた表情で言った。


「先生、私、大学進学をやめるかも」
「……それはまた、どうして?」


井原香菜は優秀な生徒だった。ついこの間の、進学のアンケートでも、難関国立大学の名前を挙げていたはずだった。模試の成績もよかったし、狙えないことはないはずだった。


香菜はためらうように、指を組んでうつむいていたが、顔を上げると、強いまなざしで口を開いた。

「結婚してほしいって、言ってくれる人がいて。その人のこと、好きだから、大学進学をやめて、卒業したら家庭に入ろうかと思って」


突拍子もない話に、蓉子はうろたえた。現在の日本の民法上、香菜の年齢で結婚はたしかにできるけれども、香菜ほど優秀な生徒が、進学しないというのは、蓉子からしたら、勿体ないと思えることだった。


「親御さんは、何て言ってるの?」
「親にはまだ言ってないんです。絶対反対するから。別れさせられるかもしれない。うちの両親は、学歴とかすごく大事にするタイプだから。でも、彼は、卒業したらすぐに結婚したいっていうんです」


「結婚生活しながら、大学に通うのはなしなの? 結婚したあとで、働きたくなることだってあるでしょう。そのときに、大卒の資格があると、採用してもらいやすいよ?」


「働くのって、そんなにいいことですか。女の人の人生にとって」
「え?」


不意を突かれた質問に、蓉子は言葉を失った。香菜は、あ、という表情をして、口元を手で押さえ、言葉を継ぐ。


「私、津端先生に相談しようと思ったのは、家族以外の働いてる女の人の意見を聞きたいと思ったからで。別に、独身の先生に対する嫌味とかじゃなくて、ネットとか見てると、二十代のうちに子ども産んだほうがいい、って意見も多いし、結婚も年とればとるほどしづらいみたいだから、プロポーズしてくれる人がいるうちに、さっさと結婚して、子ども産んじゃうのもいいかなと思って」


働くのって、そんなにいいことですか。女の人の人生にとって。さっき香菜が無邪気に口にした言葉が、蓉子の耳の中でリフレインする。蓉子の頭の中に、次々と若いうちから結婚し、子どもをもうけていった同級生や友達の顔が浮かんだ。真知子の顔も浮かんだ。


「私が、津端先生に相談したかったわけは、先生の授業が好きだからです」
顔を上げた蓉子に、香菜は少し微笑みを浮かべながら言った。


「津端先生は、たぶん、プライド持って働いているから。先生のこと、陰でいろいろ言う子もいるけど、私は先生の古典の授業が好き。本当に文学に詳しくて、好きでやってるんだろうなっていうのがわかるから。だから、先生に、大学行ったり、働いたりする中でいいことがあるか聞きたかった。嫌な風に聞こえたら、ごめんなさい」


香菜はそう言って頭を下げた。蓉子は、頭の中を整理しつつ、答える。


「私の母はね、大学も家が貧しくて行けなかったし、好きな仕事も就けなかった。子どもを産んでパートで働くだけの人生だったとよく言っててね、だから娘の私には、女の人も好きな仕事で働ける時代が来たのよって、大学のお金を出してくれた」


香菜はまっすぐに見透かすような瞳をして、蓉子自身を見ている。


「女の人が大学へ行く権利も、好きな仕事に就くことも、先人の女性たちが必死で勝ち取ってきたものなの。だから、簡単に、子どもを産むだけの人生に、井原さんは戻らないでほしいかな。まっとうに好きな仕事で働けるかもしれない権利を、大学進学しないことで手放してほしくない」


とつとつと語りながら、蓉子は、でもまだ言い足りてない、何か言い足りてない、と思った。そう、若いうちに結婚して子どもを産むことのメリット、それは蓉子が――蓉子自身が、人生で知らないで終わったことだった。


「先生は、先生の人生で得たことからしか、アドバイスしてあげることはできない。だから、親御さんはじめ、いろんな人の意見を聞いてみて。即断しないで、落ち着いて考えてみなさい」


香菜はうなずくと、深々と蓉子にお辞儀をして、進路指導室を出て行った。

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自宅に帰り、蓉子は久々に冷蔵庫に一本だけ残っていた缶ビールをあけた。明日から夏休みで、帰省のために朝から電車に乗らねばならなかったが、どうせ学校に明日行くわけではないんだし、香菜の相談事が胸のうちでわだかまって、久しぶりに飲みたくなったのだ。つまみとして駅ビルの中で買ったあたりめの封を切り、テレビのチャンネルを音楽番組に合わせると、蓉子は冷えたビールをすすった。


結婚しないということを、子どもを持たない人生を選んだという選択を、誰も表だってとがめる人はいない。香菜だって、仕事をしている蓉子自身を、素敵だと思ってくれたからこそ、相談を持ち掛けてくれたのだ。


ただ、このべったりと背中に貼り付くようなヘドロめいた気分はなんなのだろう。自分は自立していて、自由なはずなのに、どこか「人としての正しさ」からはじかれている気がして、しんどい。


テレビのモニターの中では、香菜と同じくらいの、若いアイドルが、ひらひらした衣装に身を包んで踊っていて、その体躯から発散している若い無謀なきらきらしたものが、自分の体のどこにももう残っていない気がして、蓉子は切なくなった。


蓉子にも、過去一回だけ、結婚したいと思えた人がいた。サラダは肉を食う前に食べるべき、と主張した元恋人だ。二十二歳の頃から、二十七歳の頃まで、五年も付き合ったが、最後は駄目になった。


蓉子の恋人だったのは、大学のミステリ研究会の二個上の先輩だった倉本という男だった。蓉子が県立高校の採用試験に合格した大学四年の秋ごろに、倉本が交際を申し込み、蓉子のほうも倉本を憎からず想っていたので付き合い始めた。


倉本は一足先に、二人が卒業した大学の大学職員として働き始めていた。交際のはじめごろは、二人でお互いの家に行ったり、休みを合わせて旅行をしたりと、楽しい日々が続いた。蓉子も、初めて倉本との結婚を意識した。

けれども、一年ごとに、二人とも、責任ある仕事を任せられるようになり、会える時間が減って行った。仕事疲れもあり、ささいな喧嘩がつづいた。五年の歳月は、二人の間に、絆よりも「この人とは合わないかもしれない」という溝を結局はつくるはめになった。


二十七歳の秋に、蓉子のほうから別れを言いだした。倉本も、すぐに了承した。蓉子は、倉本と交際するうちに、自分は人と一緒にいるのがそもそも向いていない人間なのかもしれない、結婚も、育児も、自分には無理に違いない、という結論を出していた。倉本は、蓉子と別れて、すぐに同じ大学職員の後輩と付き合い始めたようだった。二年後に、結婚の知らせが届いた。蓉子はそれを見て、少しだけ泣いた。


でも、そのショックも日々の繰り返しの仕事にあっという間に忙殺されて、遠い記憶になった。二十七歳のときから、三十七歳の現在に至るまで、蓉子は誰とも交際できなかった。本ばかり読んでいる偏屈な女に興味を持ってくれたのは、人生でただ一人、同じミステリ好きの倉本だけだった。


遠く、爆発音のような音が耳をついて、蓉子は立ち上がり、ベランダへ出てみた。真夏の夜気の中、遠くに花火が打ちあがっていた。赤、緑、金、そしてまた赤。夜空に開く大輪の花を見ながら、自分はどうして今の自分を肯定できないのだろう、と蓉子は考える。

誰の迷惑にもなっていない、税金も社会保険も納めて、一人でちゃんと生きている。なのに誰からも褒められる気がしないのは、なんでなんだろう。


大人でも「偉いね」って言って欲しいときがあった。ちゃんと仕事に行って偉いね。風邪ひいても、一人で耐えて偉いね。一人でご飯食べて寝て、偉いね。
遠い花火を見ながら、蓉子はふいに真知子から昔言われた言葉を思いだした。


『蓉ちゃんって、全然寂しがりじゃないよね。きっと、本さえあれば、寂しくないんだろうね。あたしは駄目。寂しがりだから、絶対家族が欲しい』


その言葉通り、真知子は二十代のうちに結婚して、三十歳になった今年、出産した。真知子に言わせれば、これでも遅すぎるくらいなのだそうだ。たしかに自分は、本があれば寂しくない。その事実は、明確な希望であり、同時に絶望でもあるのだ、と蓉子はしみじみと思った。

花火が終わったのがわかったので、蓉子はサンダルを脱いで、ほろ酔いの頭で部屋へと戻り、ベッドに倒れ込んだ。旅の用意は、明日早起きしてすることにしよう、と思い、あっという間に眠りに落ちた。

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実家へと向かう特急電車の車内で、蓉子は窓に映る夏の緑を見ながらぼんやりと手持ち無沙汰でいた。朝急いで着替えやら携帯やら財布やらを詰め込んで家を出たが、肝心の旅のお供、文庫本を数冊持ってくるのを忘れたのだった。


いつもは、旅となると、移動時間はずっと読書をしているから、今日は本当にやることがない。自分の来し方行く末に思いをはせようか、とも思ったが、そうすると余計、もやもやした悩みのどつぼにはまりそうなのでやめた。


車内は遅い夏休みをとっているのか、家族連れが多かった。きゃあきゃあと電車内にも関わらず走り騒ごうとする子供たちを、親が厳しい声でたしなめている。


蓉子は乗り込む前に買った駅弁の箱を開けた。幕の内弁当の中の鮭を箸でつまみあげ、口に入れてからゆっくりと噛んだ。これは地元の仕出しで有名なところが作っているから、わりと美味しい。小さいペットボトルのあたたかいほうじ茶をひと口含むと、冷房で冷えていた体が少しだけあたたまった。


弁当を食べ終えた後は、ゴミを片付けると座席にもたれて眠ってしまった。家の最寄り駅に着くまでには一時間半もある。寒くないようにとブランケット替わりにカーディガンを上半身全体にかけ、目を閉じると、すぐに蓉子は眠ってしまった。


目を覚ますと、降車予定の駅まで、あと一駅のところまで来ていた。アナウンスが、間延びした声で、次に停まる駅名を告げている。蓉子は網棚の上からボストンバッグを降ろすと、降りる準備を始めた。


途端、盛大な声で、近くの席で、誰かが抱えている赤ん坊が泣きだした。どうして自分は子どもの泣き声を聞くと、落ち着かないざわざわした気分になるのだろう、と考えながら、蓉子は腕の中にボストンバッグをもう一度抱え直した。


降車駅で何事もなく降り、改札を抜けたところに、父が待っていた。車で迎えに来てくれたらしい。大柄な父は白髪に、眼鏡をかけて、ボーダーのポロシャツとハーフパンツという軽装だった。蓉子のボストンバッグを持とうとする父に、「いいから」と断って、蓉子は足早に父を追い越して駅出口へと歩いた。


駅前駐車場に止めてあった父のカローラの助手席に蓉子が乗り込むと、父はすぐに車を発進させた。駅から家までは車で7分ほどだ。


流れていく車窓の景色は、懐かしい蓉子の生まれ育った街並みだ。きょろきょろしていると、父が声をかけてきた。


「蓉子も、もっと帰ってきていいんだぞ」
「うん」


どう答えていいかわからず生返事をすると、父もそのまま黙った。蓉子自身の無口さは、どうもこの父譲りらしかった。会話がそれ以上ないまま、実家横の駐車スペースにカローラは停められて、蓉子は車から降りた。


「ただいま」


玄関の古い引き戸をガラガラと開け、蓉子は家の中へと入った。ぱたぱたと奥から足音がして、母が出てくる。


「おかえり。真知子と赤ちゃん、居間にいるから」
「そう」


父も、母も、私が妹の産んだ子を見るのが楽しみで仕方ないとしか、思っていないようで、そこがまた息苦しかった。別に独身の私に、気を遣ってほしいわけではなかったけれど、でも、「わーかわいい」っていう反応一択しか、期待されていない場所で、みんなの思惑通りの反応をしてやるのも、なんだか複雑な気分になる。


居間の襖をそろそろと開けると、入って右手奥にベビーベッドがあり、小さな赤ん坊がおくるみを着せられて寝かされていた。その横に、真知子がぴったりとついて、幸せそうに寝顔を眺めている。


「蓉ちゃん、おかえり」


真知子は赤ん坊から目をそらさずに言う。せっかく帰って来たのはこちらなのに、蓉子のほうには視線を投げず、おかえりとだけ言う。


「……名前、なんていうんだっけ。赤ちゃんの」
低い声で、かろうじてそれだけを聞くと、真知子は「ありす」と答えた。
「平仮名でありす。かわいいでしょう」


それは、世に言うキラキラネームでは? ちょっと痛くない? と思った蓉子だったが、その言葉は飲み込んだ。


ありすは、赤みのある肌をして、とても小さくて、抱えでもしたらあっという間につぶしてしまいそうだった。


抱いてよ、という妹の真正面で、いいいい、怖いから、と手をふり、けげんな顔をされた。


ほどなく母もその場に加わって、出産がやれ何時間かかって大変だったとか、そのあと母乳をすぐに飲めなくてどうとかこうとか、話し始めた。蓉子はただ相槌を打ちながら黙って聞いていた。


夜になり、父と母と蓉子と真知子で、ベビーベッドのある部屋にテーブルを置いて夕食になった。刺身や炒め物など、蓉子が帰ってきたなりの歓迎めいた皿に、蓉子は少しずつ箸をつけた。


両親とも、蓉子が三十五歳を超えてからは、あまり結婚結婚と言わなくなった。そのこと自体はありがたかったが、内心どう思っているのか、腹の中はわからない。


時折ありすが高い鳴き声を上げ、そのたびに真知子があやしに行った。胃の底が、今飲んでいる冷たいお茶のせいだけでなく、冷えていく気がした。自分は、家を出たこの家族には、もう必要ない存在なのかもしれない、と蓉子は思う。自分の存在意義を、考えてしまう。


「お父さん、お母さん、真知子」


蓉子はゆっくりと言葉を紡ぐ。これを言うために帰って来たのだ。


「ありすがもういるから、私は産まなくていいよね? 私、結婚も、育児も、昔からそれほどやりたいと思ってなくて。ありすを見に来ないかってメールをもらってからずっと、自分の人生について考えてたんだけど、何度考えても、これでよかった、って思うの。だから、それを、わかってほしい。私は私の人生が好き。仕事してきた人生が好き」


一気に言った。家族三人が目をまるくする。父も、母も、びっくりしたようにしているが、真知子がまっさきに口火を切った。


「お姉ちゃんはそれでいいと思ってるよ。私は、結局、お姉ちゃんほど仕事をちゃんとやれなかったし、そのことずっとコンプレックスに思ってた。パートばかり繰り返して、お姉ちゃんはちゃんと正職員でやれているのに、って自分を責めたこともあった。でもいいの。ありすがいるから、大丈夫なの。ありすが私に、生きてる意味をくれたの」


向かいに座る真知子の目が、黒々と光る。あ、なにかにさわれた、と思った。真知子自身の、本当の気持ちに。姉妹の間に、何かが一瞬電流のように流れて、消えた。


ありすがまた大きな声で泣いた。その声を聞きながら、蓉子は、ふと目じりに涙がにじむのを感じた。まっすぐに仕事してきた人生が好き、と言いきれたのは、たぶん香菜のおかげだった。香菜が『先生の授業が好き』と言ってくれたから。


食卓はそのまま、水を打ったように、しばらく静まり返っていた。ありすの泣き声に、その静寂を破られるまで、ずっとずっと、二人の両親は静かなまなざしで娘たちを見ていた。

いつも温かい応援をありがとうございます。記事がお気に召したらサポートいただけますと大変嬉しいです。いただいたサポ―トで資料本やほしかった本を買わせていただきます。