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【短編】フレンズ

薄手のショールからはみ出た肩が少し冷える。今日は六月にしてはひんやりしているせいか、私が着ているワイン色のノースリーブのドレスは少しこの会場では、肌寒かった。

ホテルの大広間を貸し切って、今日は私の卒業した大学の国文学科の同窓会が開かれ、私もそのためにわざわざ実家の金沢から東京へ来ているのだった。

会場の入り口で受付をすますと、私は大広間へと一歩足を踏み入れた。同窓会の開始時刻まであと三十分はあり、少々早く着き過ぎたことを気にしながら、見知った顔を探す。私がきょろきょろしていると、白いクロスがかかった奥のテーブル席から「りっちゃーん」と手を振る姿があった。

「なおちゃん!」

駆け寄ると、三橋菜緒が、大学時代と寸分変わらない笑顔で私を迎えてくれた。

「自由席だから、ここに座りなよ。今日は実家から来たの? りっちゃんは」
「うん、北陸新幹線ができたから、それに乗ってきちゃった」
「すごいよねー、かなり近くなったよね。あ、名札、もらった?」

もらった、と私は受付で渡された「沢田莉穂」と書かれた自分の名札をパーティバッグから取りだし、ピンでドレスの胸元にとめた。

「よっちゃんも来るって。あとまみこも。しおりちゃんは欠席らしいけど」

大学を卒業したあとも東京にいる菜緒は、関東在住組とメールで頻繁に連絡をとっているらしく、今日の同窓会に誰が来て誰が来ないということについても、ちゃんと把握しているようだった。

開始まぎわになると、どんどん人がつめかけてきて、広いようで狭い会場は、にぎやかな笑い声と話し声であふれた。よっちゃんとまみことも無事に合流できて、私たちは卒業して五年の間、お互いに何をしてきたかを話し合った。

「えっ、りっちゃん、じゃあ今は働いてないの?」

まみこが目をまるくした。私は新卒で入った食品会社の事務を、一年前に辞めて今は家で過ごしている、という話をしたのだった。ちょっと病気になってしまってね。うん、今はこうして東京まで出てこれるくらいには治ってる。

じょじょにバイトもまた探そうと思うんだ。そうぽつぽつと私が話すと、みんな「そっか、大変だったね」とか、「体が何より大事だから、ゆっくり休んでね」と励ましてくれた。

すぐに主催者の挨拶がはじまり、私たちは着席して拍手をした。そのあとは、呼ばれて壇上に上がった教授の先生が、乾杯の音頭をとった。私たちはグラスを打ち付けて、今日また会えた喜びに、カンパイした。

今日の料理はバイキング形式だった。パエリアやら、ボンゴレパスタやら、ハーブグリルのチキンやら、シーザーサラダやらが乗った銀の大皿が、奥の長方形のテーブルにところせましと置いてあった。

お腹のすいていた私は、バッグを席に置いて、すぐに取りにいった。小皿に、いろんな料理を山積みにして、自席へ戻ろうとしたそのとき、ふいに向こうから歩いてきた黒いジャケットにベージュのチノパン姿の男性と視線がぶつかった。

――誰だったっけ?

私たちの学科は、少人数がウリで一クラスは五十人。それくらい少なければ、全員の顔と名前だって、昔はちゃんと覚えられていたはずだった。でも、卒業して五年もたてば、交流の少なかった人ほど、顔も名前も忘れていく。どうしても、前から歩いてきた彼が誰だか思い出せなかった。でも、なぜか彼の立ち姿は、印象に残るものだった。

料理をとりにいっては、また席に戻って食べるという一連の動きを私は何度も繰り返した。そのうちに、腹はふくらんできた。折しも、みんな自席を立って、あちらこちらで立ち話をはじめているので、私も飲んでいたグレープフルーツジュースのグラスを片手に、ふらりと席を立った。そのまま、辺りをぐるりと見わたす。

ピースサインで写真を撮っている少し派手目な女の子のグループ、かたまって文学談義を繰り広げる教授の先生たち、ただでさえ少ない国文専攻の男性たちはひとつのテーブルに集まり、ビールを飲んでいる――と、私の視線はさっきの彼を見つけて止まった。

黒ジャケットの背中が、誰もいなくなったテーブル席のひとつにぽつんと座り、黙々と何やら食べている。妙に、気になった。

飲んでいるのはソフトドリンクだけなので、全然酔ってはいなかったけど、酔ってるふりをして彼のもとへと近づき、声をかけた。

「飲んでますかぁ」
「……なに、そのテンション。あなたが飲んでるのジュースじゃん」

彼が思わずぷっと吹きだして、私は安心した。男の子たちの輪に入っていないから、よほど気難しいのかと思っていたけれど、普通に話せそうだった。

「ええと、ごめん、私あなたの名前忘れちゃって。教えてもらっていいかな」
「ああ、忘れるのも当然だよ。ワタシ、大学の半分以上は休学してたから。名前は、幡中啓です。あなたは?」
「……沢田莉穂。自分のこと、ワタシっていう男性は珍しいよね」

酔いにまかせて、つい疑問に思ったことを突っ込んでしまった。

「癖なんだ。あんまり気にしないで」

彼がこともなげにそう言ったので、私もそんなものか、と思い、グラスに残っていた水っぽいジュースをくい、と飲み干した。

「ええと、ゼミは何をとってたの?」

私の質問に、幡中くんは答える。

「矢田先生の、近代文学ゼミ。樋口一葉とかをやってたんだ」
「そっかあ、私は中世ゼミで源氏をやってたから、じゃああまり知らないよね。お仕事は今は何しているの?」
「実家が書店で、そこを手伝ってる」

彼の言葉に私は目を輝かせた。

「実家が本屋さんなんて、国文学科の夢じゃない、それって」
「まあ不景気のあおりを食って、つぶれそうだけどね」

彼の実家の書店は東京の八王子にあり、今日は会のために中央線で都心まで出てきたらしい。私たちはそのまま、つい話し込んでしまった。幡中くんの柔らかな物腰、穏やかな言葉遣い、白ワインばかり飲んでいるのに、ちっとも酔いが回っていないように見えるさま――に私はつい惹きつけられた。

彼の隣の席を立つ頃には、もう同窓会は終盤に近付いていた。慌てて時計を見て自席に戻ると、菜緒が笑いながら私を小突いてきた。

「りっちゃん、何逆ナンしに行ってんのー」

ちがうちがう、と焦る私がおもしろかったのか、まみこやよっちゃんも口々に冗談めかして非難してくる。

「遠くから来たりっちゃんといっぱい話そうと思ってたら、りっちゃんいつの間にか男子をつかまえていい雰囲気で一杯やってるんだもん。嫉妬しちゃうよ」
「そうそう、私たちとも、話せー」

みんなにからかわれて、真っ赤になりながら、私は弁解し、ようやくみんなに許してもらえた。そのうちに、会は進行し、いつの間にか壇上で、乾杯のときとは別の教授が、お開きの挨拶を始めていた。冷え切っていたはずの肩は、たくさん喋ったせいか、いつの間にか寒くはなくなっていた。

ホテルを出て、近くでスイーツを食べて帰るという菜緒たちと別々の方角に別れた。今日は楽しかったなあ、そう思いながら四谷駅へと向かって歩いていた私は、街灯が照らしだす先に、黒ジャケットの背中をまた見つけて、思わず駆け寄った。

「……あれ、沢田さん」

息をきらしながら、私は訊く。

「幡中くんも、駅方面?」
「そうだよ。中央線だから。沢田さんはどこへ帰るの?」
「大塚駅そばに、ホテルをとってあるの」
「じゃあ、新宿駅まで一緒か。そこから沢田さんは山手線に乗り換えだね」

さくさくと、路線図も見ずに答える幡中くんを見て、やっぱり東京の人だなあ、と思う。

駅に着くなりすぐに、オレンジの電車がホームにすべりこんできた。間一髪間に合って、車内へ駆け込むことができた。新宿駅までは、あっという間だ。
「そうだ」と彼が言った。

「沢田さん、ワタシ、うちの書店のブログ最近始めたんだ。『幡中書店』『八王子』で検索したら出てくる。本の話とか、ちょこちょこ書いてるから、良かったら帰ってから見て」

思いがけない言葉に嬉しくなった。

「ありがとう、きっと見てみる」

数分もしないうちに、電車は新宿駅に到着した。吐き出される人波に押し出されながら、私は大きく手を振った。幡中くんも振りかえしてくれた。私はそのまま轟音とともに遠ざかっていく電車を見送ると、ちょっと馴れ馴れしすぎたかな、としばし反省した。

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母が階下でかける掃除機の音で目が覚めた。もう少しベッドの中でまどろんでいたい、と思いながらも、耳障りなその音に、しぶしぶ私は体を起こす。昼まで寝ていると、最近はカミナリを落とされそうになるから、いい加減に起きなくてはならない。

寝ぼけまなこで、ベッドサイドの眼鏡をとってかけると、やっと目の焦点が合う。ベッドを這い出して、階段を降り、一階の居間へと入ると、ちゃぶ台の上に私の朝ごはんがラップをかけて置いてあった。

「なあに、莉穂、やっと起きたの?」

母の声には明快な非難が含まれていた。たぶん、社会人をやってるほかの子たちなら、朝一番に起きていくのに、という非難。母はまだ、二十七歳の娘が、病気療養のためとはいえ、せっかく入った良い会社を辞めて家でごろごろしているのが、受け入れがたいらしい。

私は、ちゃぶ台の前に正座して、器からラップをはずし、朝ごはんを食べ始めた。白ごはんに、茄子の漬物。目玉焼きにお味噌汁。一口ずつ食べたが、あまり食欲がなかった。お酒の席では箸が進むのにな、と、私はこの間の同窓会のことを思い出した。そして、見る、と約束した幡中くんの書店ブログを、いまだ見ていなかったことも。

私は、朝ごはんを食べられるだけ腹におさめると、残りにまたラップをかけて冷蔵庫へしまった。そのまま階段を上って自室に戻り、パソコンを立ち上げる。

検索窓に『幡中書店』『八王子』と、言われた通りに入れて、エンターキーを押すと、一番上に「幡中書店のつれづれ日和」というブログがヒットして出てきた。その文字をクリックすると、白地にグリーンのストライプが入ったシンプルなテンプレートのブログが現れた。

一番上の記事は「雨続きで暇なときに読みたいこの三冊」というもので、武田百合子の「富士日記」と、藤沢周平の「蝉しぐれ」と、ドストエフスキーの「罪と罰」が紹介されていた。三作品ともに、簡単な書評がつけられている。

私はどんどん記事をさかのぼってみた。「五月晴れの日、ピクニックに持っていきたい三冊」ではサガンの「悲しみよ こんにちは」が紹介され、「まだ肌寒い春の日に読みたい三冊」では山本周五郎の「五瓣の椿」が取り上げられていた。

一目で彼がまれにみる読書家だということがわかった。取りあげられている作家のうち、存命している者がほとんどいないことからも、彼が古典や時代を経て残った作家にしか興味がないのだということも察せられた。

彼の書評は、小気味よく、おもしろく、彼同様に私を惹きつけた。一時間ほどかけて、私はブログのすべての記事を読み終えてしまった。

こんなに、本が好きで、その心のままに記事を書く幡中くんと、仲良くなってみたい。私の心の中に、灯がともった。こういう気持ちになったのは、本当に久しぶりのことだった。

ブログの管理者の名前は「K」となっており、その下に「お問い合わせ」としてメールを送れるようになっていた。私は逸る気持ちをおさえて、キーボードをたたき始めた。

――幡中くん、こんにちは。先日の同窓会でお話しした、沢田莉穂です。ブログの書評、どれもおもしろくて、つい全部読んでしまいました。これからもチェックしますね。

私の歳がまだハタチやそこらだったら、もっと感情にまかせて言葉を書き連ねていたと思うのだけれど、今は冷静だった。あまり長くメッセージを送ると、引いてしまう男の人がいるのも知っていたから、メッセージは最低限に抑えた。送信ボタンを押して、私は大きく息をついた。

「莉穂ー」

階下から、ちょうどいいタイミングで母の声が聞こえたので、私は、「なーにー」と、返事をした。「すぐ降りてきて」との言葉に、私は階段を駆け下りる。

「今日病院の日だってこと、あなた覚えてるわよね?」
「あ」

忘れてた、というと、母が大袈裟に嘆息する。

「通院の日を忘れるくらいなら、そろそろバイトでもなんでも探せばいいんじゃないの?」
「はーい、はいはい」

簡単に受け答えしながら、私は洗面所に入ってドアを閉めた。バイトのことは、聞いているふりだけして、まだ応募などの行動に移すつもりはなかった。

化粧ポーチを洗面台の下の棚から取りだし、化粧水、乳液、化粧下地、と、順に肌になじませていく。新入社員だったときは、朝化粧をするたび、気持ちが引き締まったものだった。それが今はどうだ、化粧をするという作業が、とても億劫に感じる。のろのろと、パフでリキッドファンデを顔に伸ばし、おしろいをはたいた。くちびるもルージュでさっと彩った。

鏡の中に映る自分の顔は、働いていたころより綺麗に見えなかった。働いていたころのほうが、残業つづきで隈はあったし、肌だってかさついていたはずだったのが、今は、なんとかなく顔全体がだらんとしてハリに欠けて見える。

飲んでいる薬のせいかな、と思いながら、私は化粧を終えると、かばんをとって玄関へと向かった。後ろから母が追いかけてきて、「病院の帰りに、豆乳買ってきてくれる?」と聞いてきた。わかった、と答えて、私はスニーカーに足をつっこんだ。

私の通っている心療内科は、家から歩いて二十分ほどのところにある。パニック・不安障害と診断されてから、薬を飲むとぼうっとするため、車に乗るのが怖くなってしまった私は、運転免許は持っているが、適度な運動もかねて、通院には徒歩で行く。

母に言わせれば、不安障害は「すべき仕事をさぼっている言い訳」だそうだ。この間の同窓会みたいに、まったく発作が出ずに楽しく友達と時間を過ごせるときもあるから、なおさら母の目には娘が遊んでいるとしか見えないのだろう。

でも、発作が突然やってきたあの日のことを、私は忘れないだろう。はじめは、自分が見逃したささいな仕事上のミスだった。しかし、それを発端として、ミスはどんどん膨れ上がり、責任者探しがはじまった。すぐに、職場で一番強面の上司に、私は狭い会社の奥の部屋で、つるし上げられた。怖かった。

涙がどんどん出たが、それでひるむ上司ではなかった。私を脅すために上司がすぐ横の壁を、ドン、と音を立てて蹴ったその瞬間、本当に息がうまくできなくなった。吸おうとしているはずなのに、のどがカラカラになって、私は床にくずおれた。冷や汗がだらだら流れ、ひどく苦しくて、ショックから本当に死んでしまうと思った。

ようやく私の様子がおかしいことに気が付いた上司が、奥の部屋から出て、ほかの社員を呼んだ。社員が二名、私に肩を貸して、ソファのある部屋に運ぼうとしたとき、上司が唾でも吐き出すように言い捨てた。

「最近の若者は弱すぎる。まったく、使えねえにもほどがあるよ。どうせ、仮病なんだろ」

氷でできたナイフで、心臓をずぶりと刺されたようだった。今でも、そのことを思い出すと、怒りと情けなさで足が震える。

私はそのあと二週間、這うようにして職場へ通ったが、吐き気はするし目まいはするし、体調はどんどん右肩下がりに悪くなっていった。

ちょうど来客があり、茶を出すように言われた私は、がくがく震える手でお茶を淹れ、お盆に乗せて客用ソファに座っている他社の偉い人の前の机に湯呑みを置こうとした。手がまた大きく震え、私はそのお偉いさんのスーツの膝に、熱い茶をこぼしてしまった。

上司は怒り狂い、そのさらに上の課長が、私を呼んでいった。

「少し疲れているようだね。有休をとって、少し休んだらどうだ」

ボロボロの精神状態だった私は、その言葉に従って有休を一週間とった。だが、一週間たった頃には、もう出社できるほどの心の元気が枯れ果てていた。「もう少し休めば」という課長の声が「もう二度と会社に来るな」という風に穿った聞こえ方をした。

そうして私は、両親の猛反対も聞かず、会社に辞表を出した。そのあとも、家族と会社をやめたことについて喧嘩をするたびに、息ができなくなり、ひゅうひゅう喉を鳴らして私は泣いた。もういい大人が、とは思いもしたが、実際に発作が出てしまうのだった。

「すずき心のクリニック」に通いはじめたのは、それからさらに一ヶ月後ほどのことだった。家でベッドにもぐりこみ、寝てばかりいる私を、母がひっぱって連れて行ったのだ。まだ四十代半ばほどの男性医師である鈴木先生は、私から話を聞くと、

「おそらくパニック障害、または不安障害と呼ばれる病気ですね」と言った。
「治るんですよね!?」と母は強い口調で言った。

「治ってはいきますが、時間が必要です。服薬をして、体の調子を整えて、ゆっくりゆっくりです」

母は先生のその答えに不満そうだったが、私は納得できた。抗うつ剤と、発作が起きたときのための抗不安剤が処方された。私はそれらを、真面目に飲んだ。少しずつ、苦しさは、潮が引くように収まっていき、今では日常生活にほぼ支障はなくなってきている。

母が、またバイトでいいから働けというのは当然なのだったが、この病気をして、私の中から熱意だとか、やる気だとかが一切消えてしまっていたのだ。あんなにがんばっていた仕事なのに、四年近くも働き続けていたのに、私は仕事を辞めて一年経っても、どうしてもまだ、心の本調子を取り戻せていなかった。

「すずき心のクリニック」に着いた私は、受付で番号プレートをもらい、待合室の白いソファに腰かけた。ほどなくして名前が呼ばれ、診察室のドアをノックして中に入ると、鈴木先生はカルテに目を落としていたが、私のほうに向きなおる。

「沢田さん、こんにちは。この一ヶ月間は、体調はいかがでしたか?」

通院は一ヶ月置きなため、いつもはじめに先生はこのひと月の間に、私に変調がなかったかを聞く。

「まずまずです。先月先生にお話してあった通り、東京で大学の同窓会があったので、行ってきました。お酒は飲まなかったですよ。……先生に飲まないように言われていたし」
「不安障害の薬とアルコールの併用は、基本的には良くない取り合わせだからね。それなら良かった」

「電車や新幹線の中も、発作が起きないか気にかけていたのだけど、大丈夫で。苦しくなることは、この一ヶ月、なかったです」

親が私の自堕落ぶりに呆れて、もうあまり派手な口喧嘩をしなくなってきているのも大きいといえば大きかった。

「うん、だいぶいい調子だね。この分なら、来月分から少し薬を減らしてみようか」

先生は明るい調子でそう投げかけてきたが、私は気が重かった。治りたい気持ちと、治りたくない気持ちが半々なのかもしれなかった。

結局、もう一ヶ月はこのままの量でお願いします、という申し出を、先生に受け入れてもらう形になった。

お会計をすませ、クリニックを一歩出ると、すぐ隣の薬局との間に、紫陽花がたくさんきれいな花をつけていた。さっきは気付かなかった。会社を辞めたのも、ちょうど一年前の梅雨の頃だった。そう気付いた私は、嫌な記憶を振り払うように、頭を幾度も振ると、薬局のほうへと歩いて行った。

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病院と薬局のあとスーパーに寄り、豆乳と自分の食べたかったお菓子を買って家に帰ると、もう一時半になっていた。母が庭に出て洗濯物を干している姿が、大きな窓ガラス越しに見えた。

昼食は用意されていなかった。私は、おやつカゴの中にあるカップラーメンの容器をひとつ取ると、ポットのお湯を再沸騰させて、注いだ。人工的なスープの香りが、台所じゅうに漂った。

三分待つ間に、母が戻って来たので、私は豆乳のパックをビニール袋から出して渡した。母は「ありがと、それで先生は? なんて言ってた?」と聞いてきた。私は「なにも。いつも通り」と、先生の減薬の提案のことは話さなかった。

「ほんとうにその薬、効いてるのかしらねえ。疑わしいわ。飲まなくても、もう治ってるんじゃないの? ただ、薬代だけ、取られてるんじゃないかしら、ねえ、莉穂」

母の物言いに、下っ腹がかっと熱くなった。

「そんなことない。ちゃんと薬を飲むと、安心するから効いてるよ」
「でも、なるべく早く薬はやめないといけないわ。これからあなたも結婚して、出産するんだから。薬を早くやめないと、結婚相手がいなくなるわよ」

母のこういう無神経な言葉は、私をざくざく傷つけたが、真に受けて相手をしようとするほど、発作が出そうになるし消耗するしで、私は煮える腹をなだめて、無言でラーメンをすすった。できるかぎり急いで食べ終わると、スープを流しに捨てて、カップをゆすいで生ゴミ袋に入れた。

そのまま、二階へと駆けあがった。すぐにパソコンの電源を入れる。新着メール、1件の赤い文字を、クリックした。差出人のところに「hatanaka kei」の文字が並んでいるのを見て、さらに期待をこめてクリックする。

――幡中です。ブログ読んでくれて、ありがとう。古い作家ばかりで、おもしろくないかなと気にかけていたので、良い反応がもらえて嬉しかったです。これからも更新していくので、どうぞごひいきに。

画面の向こうから、幡中くんの人柄が伝わってくるようで、私はほほ笑んだ。と、さっきの母の言葉が思い出された。

(これからあなたも結婚して、出産するんだから)

もし幡中くんと結婚できたら。そんな想像を一瞬してしまい、私は自分で自分に照れた。大嫌いな家族のもとから抜け出して、東京にお嫁に行って。そして幡中くんの本屋を、一緒に継いで。二人とも大好きな読書ざんまいをしながら、夫婦でいつまでも仲良く暮らす。

そのほの甘い空想は、暗がりにいた私の目の前に、差してきたひとすじの光のようだった。パニック発作を起こしてから一年、まるでいいことがなかった。でも、体調はじょじょに良くなってきているし、もしかしたら、不運も底を打ったのかも。

そんな風に自分に都合のいい妄想をしながら、私はベッドに寝転がった。ちらちらと、幡中くんの顔を思い出しながら、図書館でブログにおすすめされていた本を探してみよう、と決心した。

そうしたら、メールに感想を書けるし、返事も来やすいだろう。幡中くんと仲良くなりたい、という気持ちだけで、雲の上を歩いているような明るい気分になれた。こんなことは、本当に久しぶりで、私は布団に顔をうずめて「うくくく」と笑った。

――富士日記、面白かったです。昭和の食卓がかいまみえて、良かった。美味しそうだった。百合子さんの、のびやかな人柄に、元気が出ました。

――藤沢周平は、文章が美しいんですね。蝉しぐれ、途中で泣いてしまいました。

――罪と罰、読むのに一週間かかってしまいましたが、読み応えありました。すごく考えさせられて、ドストエフスキーってやっぱりすごいんだな、と感じました。

私は図書館で幡中くんのブログにおすすめされていた本を選んで借りてくると、一生懸命読み、そのたびにメールを送った。幡中くんみたいに、的確でかっこいい書評にはとてもならず、稚拙な感想でしかなかったけれど、幡中くんはとても喜んでくれて、感想を送ってから一時間もしないうちに、返信を書いてくれた。おそらく、本屋の店番ばかりしているという彼も、比較的暇なのだろう。

メールのやりとりが十往復を超えた頃、勇気を出して、提案してみた。

――電話しても、いいですか。幡中くんと、もっとお話してみたいので。

――いいですよ。じゃあ、明日の夜、八時ごろでいいですか。

――了解です。じゃあ、八時にかけます。

約束を取り付けたときには、天にも昇る気分だった。私は思いっきり、気持ちを先走らせていた。このまま、遠距離恋愛が始まって、幡中くんが私に告白してくれて、私は東京に引っ越して、と、たしなめる人が誰もいないのをいいことに、妄想が大暴走するがままに、浮かれ調子で過ごした。

そして、翌日八時。家の中で電話するのは気が退けて、私は母に「近くのコンビニに行ってくる」と言い置いて、約束の十分前に外に出た。六月特有の、少し雨の匂いを含んだ夜風が、ここちよく頬をなでる晩だった。

プルルル、という呼び出し音一回で、幡中くんは電話口に出た。

「こんばんは、幡中です」
「お久しぶりです、沢田です」

少し低い声が、耳にくすぐったくて、私は風にもてあそばれる髪をかきあげた。

「ブログの感想、いつもくれて、ありがとう。嬉しいです」
「いえいえ、本当に、おもしろかったから。五瓣の椿も読んだんだけど、ちょっとあれにはドキドキしました」
「そうでしょう」

くくっと、幡中くんが電話ごしで笑っているのが聞こえた。

「ブログを見て、来てくれるお客さんもいるんだ。書店マニアの人が、ほかの県からもたまに来たりする」
「へえー、やっぱり、珍しいから?」
「うん、ワタシの父の選書が、独特らしくて。昭和の時代の作家の本とか、いまはもうチェーンの大型書店じゃ手に入らないものも、たまに置いてあって。雑誌にもこの間出たんだよ」

私はますます幡中くんとその家の書店に興味を惹かれた。そして、言おう言おうと思っていたことを、口にした。

「あのさ、私ね、この間の同窓会のとき、たくさん話して、それで、ブログも読んで、幡中くんと、もっと仲良くなりたいって思うんだ」

この一言を言いながら、がくがくと足に震えが来た。緊張しているのだ。

「わ、私と、友達になってほしいんだけど、い、いいかな?」

トモダチ、のところに力を込めて言ったが、最後はちょっと泣きそうになった。反応が怖かったのだ。もちろん、本当は彼氏彼女の関係になりたいというのが最終目標だったが、まずは友達から、というのが筋だと思った。

幡中くんは、黙った。そして、しばらく沈黙した。即答せずに、考えられてしまった、ということが、私をますます焦らせた。

「だ、だめかな?」
 私の震え声に、幡中くんはやっと反応した。
「――ワタシは」

語尾がなぜか苦しそうで、私はどうしたんだろう、と思ったが、疑問をさしはさむ間もなく、幡中くんは言葉を継いだ。

「ワタシでよければ、友達になってください」
「……なんかつらそうだけど、無理してない? 無理ならいいんだ、無理に友達になることないから」

そう告げた私の言葉に、幡中くんが遠慮がちに笑った。

「ううん、違う。友達になりたい、って言ってくれたのは嬉しいんだ。だけど、ワタシを深く知っていくうちに、離れていった人たちも、いたから。そのことを急に思い出し」
「私は離れたりしない」

幡中くんの言葉をさえぎって、私は強く言いきっていた。
「離れたり、しないよ」
「……ありがとう」

なんの根拠もなく言いきってしまった自分自身に、私は自分でも驚いたが、そう言い切れるのは、私がやっぱり幡中くんと同じ思いをした経験があったからだった。

パニック障害になってしまったんだ、と言ったとたん、縁を切られた地元の友人も、ひとりやふたりではなかったから。すがるようにして出したメールに、返信が来なかったあの日の思い出がよみがえる。

「離れたりしない」という言葉を求めていたのは、もしかしたら発作が一番ひどかったときの自分自身かもしれなかった。幡中くんが、ようやく落ち着いた声で言った。

「沢田さん、ありがとう。じゃあ、これから友達としてよろしくお願いします」
「こちらこそどうぞよろしくお願いします」

お互いに、なんだかかしこまった会話のしめくくりになった。ばいばい、おやすみ、と言い合って電話を切ると、急に夜の気配の中取り残された。遠く、蛙がにぎやかに鳴きたてる声が、いつまでも耳の中に響いていた。

朝から母が、ばたばたと忙しそうにタンスをひっくりかえしている。何事かと思い、衣裳部屋の母に「どうしたの」と声をかけた。

「莉穂、もうすぐおじいちゃんの三回忌でしょう。法事を近くのお寺でやるのよ。あなたも出席しなさい。今喪服が体に合うかどうかを確かめるから、着替えて」

そう言うと母は、クローゼットからひっぱりだした喪服のワンピースを私に渡した。私は受け取ったものの、言った。

「私、法事は出たくないよ」
「出ないわけにはいかないわ。どうせあなたが会社辞めて家にいることも、親戚中知っているんだから。外聞が悪い娘でも、娘は娘。おじいちゃんの孫にはかわりないんだから、出なさい」

ひどい言いようだった。そもそも、私が家にいることを親戚中に愚痴ったのは母その人なのだから。私はふくれっ面をしたが、母にうながされて、しぶしぶワンピースに袖を通してみた。

「あれ……ちょっと、きつい?」
「そりゃあそうよ、あなた太ったもの、この一年で」

ゆったりした幅だったこの間の同窓会に着たワイン色のドレスと違って、喪服のワンピースは、腰の部分がしぼられているから、思ったより入りづらかった。でも、なんとか背中のチャックが首の付け根まで上がった。

「これ……みっともなくない?」

思ったよりぱつぱつに見えるワンピ―ス姿に、不安になってそう訊ねたが、母はにべもなく一蹴した。

「だからさっきも言ったでしょう、あなたが太ったんだからしょうがないじゃない。入ったんだから、買い直しはしないわよ。とにかく、法事には出ること。七月九日の日曜日だからね。忘れないでね」

はい、と私はしおれてうなずいた。母には逆らえなかった。

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七月に入り、私はこの頃は毎日のように幡中くんとメールをしていた。相変わらず話題は本のことが多かったが、それだけにとどまらず、見た映画や、好きな音楽や、食べに行って美味しかった外食のお店、散歩して見つけたきれいな花のことなど、なんでも話すようになった。毎日メールを五往復くらいするようになった。

私からいつも送り始めて、幡中くんのほうから最初に来ることはなかったが、それでも律儀にメールの返事をくれる幡中くんに対し、私はどんどん気持ちをつのらせていった。

――昨日、小さい猫を見かけたよ。足とおなかは白いのに、背中は灰色のしましまで、すごくかわいいの。撫でようと思って近づいたら、どっか行っちゃった。

――うちの近くにも、猫来るよ。野良にエサをあげているおばあさんがいるから。ワタシにもなついて、お腹とかたまに撫でてる。

――最寄り駅に、すごく美味しいパン屋さんがあってね。いつも街へ出るとそこのパンを買って帰るの。とくに焼きそばパンが美味しくて、幡中くんにも、食べさせてあげたいなあ。

――パンといえば、ワタシの母がたまに手作りするよ。欧風の、かたいパンがあの人好きで、よく焼きたてが朝食に出てくる。食べづらいんだけどね(笑)

二人がどんどん打ち解けていく雰囲気が毎日交わすメールの文面から感じられて、私はもうなんだか幡中くんと付き合っているかのような錯覚を抱いていた。そしてついに、こんなメールを打った。

――もし、東京に遊びに行ったら、一緒にランチとかしてくれる?

返事はすぐに返って来た。この間の「友達になってくれる?」と聞いたときのようなためらっているような間はもうなかった。

――いいよ。一緒にお昼を食べに行こう。お店、考えておく。

やった、と私はベッドの上で座ったまま跳ねた。それからたくさんメールを交わして、7月の三連休のあたりをめがけて上京することにした。まだ会社員時代の貯金が残っているから、それを使って行こうと思った。幡中くんも、そのあたりは空けておく、と約束してくれた。

法事の日は、梅雨明けしたばかりの陽が照り付ける暑い日になった。父の車に母と私が乗って、近所のお寺へと向かった。着いたときには、父の兄である伯父や、その奥さんの伯母、父の従兄弟たちやその子供たちなど、総勢二十名前後の親戚たちが、もう集まっていた。

父の大きな背中のあとについて中へと入りながら、私は改めて思った。私は、父がよく分からない。母ほど分かりやすくないのだ。父は昔から無口な人だった。私が会社を辞めるとき、母はヒステリーを起こしながら猛反対したが、父はただ黙って一言、「辞めるのは、まだ早くないか」と言っただけだった。

私が辞めたあとは、もう何も言わず、ただ私との前から少なかった会話が、さらに少なくなった。父といると、自分がまるで透明人間になったかのような錯覚を起こす。

本堂の畳敷きの部屋に、父と母と連れだって正座すると、親戚中のじろじろとぶしつけな視線とぶつかった。伯父が、無遠慮などら声を上げた。

「莉穂ー、新しい仕事は見つかったんか」

体がかたく、動かなくなり、息が浅くなる。母が代わりに、頭を下げつつ答えた。

「それが、まだなんですよー。早く働いてって、言ってるんですけど、この子が愚図で、いつまでも動かなくて」
「莉穂ちゃん、お父さんとお母さんにあまり心配かけちゃだめよう」

猫なで声で参戦してきたのは、父の従姉妹の静江おばさんだった。はい。すみません。すみません。不肖の娘で、申し訳ありません。頭を下げる父と母を見ながら、私はどんどん自分が小さくなって消えてしまうように感じていた。

お坊さんが何人も入ってきて、読経の時間が始まったときは、助かったと思ったが、座ってお経を聞きながら、私の呼吸はにわかに苦しくなっていった。

(やばい、こんなところで。みんなが、見てるのに)

お経の時間が終わるまで、この部屋からは出られない。そうふと気付いたとき、ついにパニック発作が現れた。がくがくと手足が震え、体を二つに折ってせきこみはじめた私に、親戚中が騒然とした。

「莉穂、莉穂。しっかりしなさい」

母が私の肩を抱こうとしたが、つい反発心から、その腕をはねのけた。読経は中断され、私は本堂とつながっている廊下の先の、控えの間に連れて行かれて休むことになった。誰もいなくなったその部屋で、一人私についてきた母が、いらいらしたように言った。

「……本当に、あなたは、情けないわね」

冷たいタオルが顔には乗せられていたから、母にうっすら泣いている顔を見られることはなかった。たしかに情けなかったが、母に言われると、なおさらこたえるのだった。

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七月中旬になり、とうとう幡中くんに会いに上京する日がやってきた。両親には、友達の結婚式の二次会に出席するから、という嘘の理由で、遠くへの外出を許してもらった。もし男友達に会いにいくなんていうのがばれたら、またなんていわれるかわかったものではなかったので、私は嘘の理由が上手く通ったことに安堵していた。

「六月も同窓会で上京したばかりなのに、また今月も東京に遊びにいくなんて、いい身分だわね」という嫌味は言われたけれど、それを受け流せるくらいには、私の気分は回復していた。

「すずき心のクリニック」を、先日の法事が終わってからすぐ受診して、先生に発作が久しぶりに起きたことを報告した。先生は、安定剤を追加して出してくれたが、いつもの三分診療で終わった。

今回は、ホテルに一泊するつもりで、荷物を用意してきていた。そのボストンバッグを新幹線の荷物棚に上げて、私はシートにもたれて目を閉じた。二時間半で着くから、寝る時間もなにも、少ししかとれないのだけど、昨日は遠足の前の子どもみたいに眠れなかったのだ。

そのままうつらうつらして目を覚ますと、新幹線の窓の景色は、一面の緑から低い屋根がびっしりと並ぶ街の景色に変わっていた。関東に、来たのだ。いつもこの車窓から見える景色の変化には驚いてしまう。

待ち合わせしていた上野駅で降り、改札を出ると、そこに幡中くんがもう来てくれていた。今日は白地にベージュの太いボーダーが入ったポロシャツに、ジーンズといった軽装だ。

「お久しぶりです」
「こちらこそ、お久しぶり」

お互いに照れながら挨拶をする。今日の幡中くんは、銀のフレームのうすい眼鏡をかけていた。こないだはかけてなかったよね、と指摘すると、コンタクトを使ったり、眼鏡にしたり、ときどき換えているんだ、と言って笑った。

土曜日の上野駅は、とても混雑していて、さまざまな服装の人たちが、子供から老人まで、行き交っていた。私たちも、人並みに押されながら駅を出た。幡中くんが、腕時計を見て言った。

「お昼近いから、なんか食べよう。イタリアンとインドカレーだったら、どっちがいい?」
「うーん、カレーかなあ」
「じゃあそっちで」

幡中くんのあとについて、少し歩くと、インドの国旗がかけてある少し古びたカレー屋に行き当たった。ドアを押し開けて、中へ入ると、どっとお香とスパイスの匂いに包まれた。

「イラッシャイマセー」

独特のイントネーションをした挨拶で迎えてくれたのは、浅黒い肌のウェイターだった。厨房のシェフも、みんなインド人のようだった。席に着くと、すぐに二人分の水が運ばれてきた。メニュー表を開いて、どのカレーにするか選ぶ。

「ワタシは、タンドリーセットかな」

幡中くんは、ほとんど迷わずに、ナンとバターチキンカレー、サラダにタンドリーチキンがついたセットを指さした。私はしばらく迷った末に、サフランライスと海老カレーのセットにすることにした。

「タンドリーヒトツ、エビカレーヒトツネ」

ウェイターが、注文を取ってくれて厨房のほうへと下がったので、私は少し落ち着いた気分で話しはじめた。

「幡中くんのおかげで、また学生時代と同じくらい本を読むようになったよ」
「それはよかった」
 幡中くんが眼鏡の奥でほほ笑んだ。

「沢田さんは、今日はお仕事休みなの?」

突然聞かれた質問には、想定内とはいえ、やっぱり少しへこむ。
「あ、いま、働いていないんだ。ちょっと、一年前に病気をしちゃって、それから」
「そうなんだ。ごめんね、聞かれたくないこと聞いちゃって」

幡中くんの声のトーンが沈んだので、私は、話題を変えつつ、ちょっとリサーチしようともして、こんな質問をした。

「あ、でも、もし結婚とかしたら奥さんには働いてほしいよね! やっぱり夫婦共働きが理想だよね!」

幡中くんちの本屋経営を成り立たせるためには、私が昼間どこか働きに出るのも辞さない、内心そんな思いまで込めて、聞いた質問に、幡中くんは、はっと体をこわばらせた。

「沢田、さん。ワタシは――」

彼の眉根が少し苦しそうに寄せられた。私はまさか、今の質問こそ幡中くんにとって「聞かれたくないこと」だったなんて全く予想していなかったので、水の入ったグラスを持ち上げる手が止まった。

幡中くんは、とても言い辛そうに、言葉を吐き出した。

「――ワタシは、誰とも結婚しません。するつもりが、ないから」

喉がカラカラに乾いて、何を言われたのか理解できなかった。

「それは、またどうして?」

聞いてはいけなかったかもしれないのに、聞いてしまった。
「それ、は」

幡中くんが言いかけたときに「オマタセシマシター」と、二人分のカレーセットが運ばれてきた。幡中くんは、我に返ったように、落ちかけてきた眼鏡を上げ直して、言った。

「食事中にする話じゃなかった。沢田さん、とりあえず、食べよう」
「でも」
「食べようか」

有無を言わせない口調で、幡中くんは、まだ熱いナンをちぎりとって、カレーにつけて食べ始めた。黙々と食べ続ける幡中くんに、私も倣うしかなかった。二人の間に流れる初めての気まずい雰囲気に、私は泣き出しそうだったが、なんとか、我慢して、食べ終えた。

店を出るときに、私も財布を出そうとしたが、幡中くんが「いいから」と制して二人分払ってくれた。これから、間がもつか不安になり、もうパニック寸前の私に、幡中くんが言った。
「上野公園が近いから、そこへ行って話そう」

幡中くんの案内で到着した上野公園は、休日らしくたくさんの人であふれていた。民俗音楽を演奏する黒い肌の人たち、パントマイムをする若者、孫を連れたおじいさんやおばあさん。みんな平和そうで、それぞれの休日を楽しんでいるように見えた。その光景とは裏腹に、私の心のうちだけが嵐のようだった。

ベンチを見つけると、幡中くんは座り込み、私も隣に座るようにエスコートしてくれた。鳩の群れが、ベンチの近くから、ばたばたと一斉に飛び立った。鳩に視線をやりながら、幡中くんは、話し出した。

「こんなこと言ったら、勘違いかもしれないけど、沢田さんは、ワタシに好意を持ってくれているのかな」

核心めいた質問に、私は腹をくくって答えた。
「うん。私は幡中くんのことが好き。好きになっていってる」
「……その気持ちは、嬉しいんだ。友達になりたい、って言ってくれたことも。ただ、ワタシは、女性に対して、恋愛感情も性欲も持てないんだ。昔から」

おそるおそる、訊ねる。
「それは、幡中くんが同性愛者ってこと?」

「男性に対して、憧れめいた気持ちを持つことはたまにある。でも、男性と恋人同士になったことはないし、実際本当に自分が同性愛者といえるほど、男性がほんとに好きなのかもよくわからない。すごく宙ぶらりんで曖昧な理解しか、ワタシは自分の性に対して、持てていないんだ。だから、こんな状態で、沢田さんの好意を受け止めることはできない。失礼だと、思うから」

私は大きく深呼吸した。とても、言いづらいことを、幡中くんに言わせてしまったのだと思った。同時に、勇気をもって打ち明けてくれたことも、ありがたいと思わねばならなかった。

「……前に話してた『本当の自分を知ったら離れていく』ってこのこと?」
「そう、このこと。沢田さん、ワタシに、幻滅したでしょう」
「そんなこと、ないよ」
「本当のことを、言ってくれないか」

のぞきこんだ幡中くんの目は、何か得体のしれないものに追いかけられているかのような、怯えた色をしていた。

「本当、は、ちょっとがっかりした。私、ほんとに好きだったから。でも、幡中くんのことを、嫌いになったわけじゃない。私『離れたりしない』って言ったけど、いまもその気持ちは変わらないよ。本が好きな幡中くんと、おもしろいブログを書く幡中くんと、ずっと友達でいたいよ」

「……ありがとう」

幡中くんは、両手で顔を覆って、背を折り、自分の膝に突っ伏した。この告白をするのが、怖かったのだろう。

「沢田さんのことを、ひとりの女性として扱うことは、ワタシにはできないんだけど、友達でいてくれたら、それはワタシにとってもすごく嬉しいことなんだ」

私はそろそろと幡中くんの背中に手をかけた。そのまま、ゆるゆると背をさする。拒絶は、されなかった。そのまましばらく、私は幡中くんの背のぬくもりを手のひらに感じていた。幡中くんも、私の手の温度を、背中で感じているはずだった。

そのまま公園でぽつぽつとたわいのない話をしていた私たちだったが、日が傾いたのを機に、幡中くんが帰ると言い出したので、私はお礼を口にした。

「今日は、会ってくれてありがとう。またメールする」
「こちらこそ、せっかく会いにきてくれたのに、がっかりさせてごめん」

幡中くんが本当に気にしているみたいだったので、私は笑った。

「大丈夫だよ。もういいから」

二人で駅まで歩いて、改札を抜けると別々のホームへと別れた。私はホテルのある沿線へ、幡中くんは八王子のほうへ。

車内へすべりこむと同時に、ドアが閉まり、発車音が鳴り響いた。あいていた席に座ると、私は少しだけ泣いた。たくさん泣くと、幡中くんに悪いような気がして、最小限の涙ですませた。向かいの席の車窓から見えるビル群が、ただにじんでぼやけていった。

これが私の、ささやかな失恋の話だ。どこにでも転がっている、小さな恋の終わりの話。それでも、私は、幡中くんに、またメールを書くだろう。彼の「友人」の一人として。だって、約束したのだから。「ずっと友達でいたい」って。

ままならない思いを抱えながら生きるのは、私だけじゃなかった。みんな心に何かしら抱えて、それでも日々を暮らしていく。夕暮れの街に沈む東京を見ながら、私は誰にともなく「ひとりじゃないよ」と呟いた。

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