【第5話】ジェラシー入りのミックスサンド
丹羽の玄関に並ぶ、女物の靴。その存在にショックを受けて、私がぼうっと突っ立っていると、ふいに中から玄関の物音に気が付いたのか、若い女の子が出てきた。ふわふわした長いこげ茶の髪に、薄ピンク色のワンピースを着た、とても可憐な子だった。
「こんにちは、丹羽さんに、御用ですか」
女の子が口を開いたので、私はあわててしまい、つい口をすべらせた。
「あなたは、丹羽さんの彼女さん、なんですか」
「違います。丹羽さんの、学部の後輩の水橋なつめといいます。丹羽さん、学会発表の前に風邪で高熱出しちゃって、いま寝てるんです。私は、教授に言われて、発表のときに使う資料を届けにきただけ。——あなたは、どなたなんですか」
私はうろたえながら答えた。
「私は丹羽さんの行きつけの洋食屋の店員です。ちょっと、丹羽さんに用事があったんですけど、今お会いできないですよね」
彼女は、私を玄関から廊下に上げて、丹羽の部屋のドアをちょっと開けた。
「ご覧の通り、今、ぐっすり寝てるみたいだから」
ドアから覗き込むと、たしかに丹羽が布団にくるまって寝ていた。部屋のすみずみにまで、浮世絵の美人画がぺたぺたと壁にはりつけてある、その中で眠っている姿はシュールすぎて、私の頭はくらくらした。こちらこそ、熱が出そうだった。
水橋さんは、私をもう一度まじまじと見ると、その可愛らしい外見とは打って変わって、いきなり宣戦布告してきた。
「私は、ただの学部の後輩だし、本当に今は資料を届けにきただけですけど、——でも、いつか丹羽さんの彼女になりたいと思ってますから。丹羽さんのことが、好きですから」
ガラガラと、私の中で、何かが崩れていった。もう、何ひとつ取り繕えずに、私はきびすを返すと、靴に足をつっこみ、丹羽のアパートを出た。スクーターにまたがると、あっという間に涙があふれて、止まらなくなった。
店に帰って来た私の真っ青な顔を見て、高瀬さんはおろおろして慌てた。
「どうしたの、林田さんのおじいちゃん、そんなに悪かったの?」
「……違う、そうじゃない」
私はそのままバックヤードで上着を脱いで、店に戻ろうとしたが、高瀬さんがしつこく、何があったかを聞いてきたので、さっきの顛末を話してしまった。
「ライバル登場ですね。まあ、丹羽さん、モテそうだから、驚く話じゃないけど」
「もうだめだよ、もうなんか女の子としての自信がない。すごく、可愛かった、あの子」
——そう言うと、高瀬さんは、強いまなざしをして、言った。
「思い切って、丹羽さんに、千夏さんから好きって言っちゃえばどうですか?」
「——無理無理無理。第一私、店を継ぐつもりだし、丹羽さんはきっと、いつか町を出ていくし、私が丹羽さんについていくことはできないもの」
「でも、このままみすみすあの子に盗られてしまって、千夏さんは本当にいいんですか? それで本当に、人生後悔しないって、言えるんですか?」
「ううう……」
バックヤードで話し込んでいた私たちに、厨房から父の声が飛んだ。
「お客さん、来てるぞ! 応対してくれ!」
恋バナはそこまでになり、私と高瀬さんは、慌てて持ち場に戻った。
どんなに心の内が嵐でも、慣れ親しんだ仕事を回しているうちに、私は少しずつ落ち着いてきた。お客さんが一人、また一人と退けていった、午後九時。レジ台の電話がリリリンと鳴った。高瀬さんは今日もう帰っていないので、私が取った。
「丹羽、ですけど」
その声に、息が止まる。丹羽は、電話口で咳こんでいる。
「あの、何か軽い食べるもの、つくって出前してくれないかな。風邪こじらせて、寝込んでて、全然食えてなくて」
「——ミックスサンドでも持っていきますか?」
「うん、頼む、ちなっちゃん」
その言葉を最後に、切れた電話の受話器を、私はじっと見てから、ふうっと大きく息をついた。昼間家に行ったことを、丹羽は気付いているのだろうか。
(千夏さんから好きっていっちゃえばどうですか?)
さっき高瀬さんから言われた言葉が、リフレインする。
「父さん、丹羽さんから、ミックスサンドの出前!」
「はいよ。久しぶりだな。論文上がったってか」
「いや、風邪ひいてて、食べてないって」
厨房から母さんが出てきて、私に言う。
「それなら、あったかいチキンスープも一緒に、届けてやんなさい。まったく、一人暮らしの男の子って、ろくにまともな食事をしてないからね」
母にかかれば、丹羽もたんなる「男の子」なのだ、と思うと、どこかふっと緊張が抜けた。
出来立てのミックスサンドをおかもちに入れて、丹羽のアパートへとスクーターを飛ばす。大きな丸い月が出ていて、でも、綺麗だな、と思う心の余裕はなかった。
「こんばんはー、ななかまどです」
ドアの外から声を張り上げると、中から丹羽の声がした。
「上がってくれるー?」
丹羽の部屋に足を踏み入れるのは初めてだ。緊張しつつ、靴を脱ぎ、廊下から丹羽の部屋へと入った。丹羽は、ベッドの中に居て、いつもにましてぼさぼさの髪で、まだ熱のありそうな顔をしていた。
「おー、ありがと。悪いねえ。代金いくら?」
「780円。あと、ミックスサンドのほかに、スープもあるから」
「それは、どうも」
丹羽は、私に千円札を渡すと、ミックスサンドをつまみはじめる。その手を止めないで、私に聞いた。
「ちなっちゃん、もしかして、昼間来てた?」
「——なっ、寝たふりしてたの?」
「いや、寝てたんだけど、なんか、ちなっちゃんの声がしたような気がして」
私は腹をくくった。こうなったら、本当のことを聞くしかない。
「丹羽さんの家に、昼間行った。そうしたら、水橋さんって女の子が出てきて、私彼女さんなのかと思っちゃったよ」
「ああ、違うよ。学会の資料を届けに来ただけだよ、あの子は」
「そうなの?」
「そう」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
何度も聞いていると、丹羽が「はっはーあ」と笑った。
「ちなっちゃん、さては、俺に彼女がいないか気になるんでしょー、ちなっちゃん、俺に惚れたら、駄目だぜ? ヤケドしちゃうよ、なーんて、古いな、じょうだ……」
「馬鹿っ!!」
どこまでも冗談で、二人の仲を済まそうとする丹羽に、私はついに大声でキレるとともに、顔を伏せて思わず涙をこぼしていた。丹羽は、私がいつものように「そんなことないっ、誰があんたに惚れるか、バーカ」みたいな反応を期待していたのだろうけど、私の心の中の決壊が、とうとうこわれてしまった。
「わたっ、しは、にわ、さん、の、こと、が、すき、なの、に」
どんどん泣けてきて、こんな弱い自分見せたくなかったのに、つい本音が涙とともにあふでた。そのまま、ひっく、うっく、と、嗚咽をもらしながら、素手で涙を吹いていると、丹羽が口を開いた。
「ごめん、からかって。ごめん、ちなっちゃん」
丹羽はそうして、私の頭にそっと手を伸ばすと、なでた。
「——ちなっちゃんは、本当に、俺にとって、かわいい奴っていうか、そういう存在だから、まさかそんな風に好かれてるとは思ってなくて。——でもひとつだけ、言っておく。俺、あの店でウェイトレスしてるちなっちゃんが、本当にいいなと思ってる。
俺、これから学会控えてて、その後就職先も探さないといけなくて、いろいろ忙しくなるけど、ちなっちゃんの気持ちはわかったから。——いつかちゃんと返事するから、考える時間がほしい。待っててくれるかな」
私は涙ながらにうなずいた。返事を保留されたのだとは、わかった。でも、丹羽は、ちゃんと考えてくれると言った。——その言葉を、今は信じたいと思った。丹羽が食べ残したミックスサンドのかけらが目に入り、パンから大きくはみだしたハムとチーズが、ついにあふれ出してしまった自分の恋心のようだと思った。
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