【第3話】アイスクリームの淡い夏
店頭に置いてあるブラックボードに、今日のランチセットをチョークで書きこむのは私の仕事だ。「九月一日 カキフライ サラダ コーンスープ 980円」と白で書き、その周りを赤いチョークと緑のチョークを使い花柄と草のつるを書き込んだ。
後ろから見ていた高瀬さんが、「千夏さん、いつもながら、上手ですね」と声をかけてくる。
「へへっ、そうかな? もう今日から九月になったね」
「はい、あとひと月で、千夏さんの大学が始まっちゃうって、ドキドキですけど」
大学の夏休みが終わったら、私はしばらく学業に専念するため、定休日以外の週六日出ていた、洋食屋『ななかまど』のウェイトレスの仕事を、週三に減らす予定だった。
このままでは卒業が危ういから、と、父に、店に出るのは控えるように釘を刺されたからだった。
「それにしても、高瀬さん、だいぶ接客慣れたね、ほっとしたよ」
たしかに、高瀬さんは、最近緊張が解けたのか、接客にもだいぶ慣れ、ミスも大幅に減った。この調子では、あと一ヶ月後には、さらに安心して任せられることになるだろう。そう思うと、胸をなでおろす私だった。
チリリン、とドアベルが鳴り、店に客が入って来た、と思ったら丹羽で、私は全身がつい固まってしまう。嬉しいのに、どんな顔をすればわからない。
隣の高瀬さんを見ると、普段よりもにまにましていて、それが、私の丹羽への恋心を知っているからか、妙に居所がない。
店に入ってきた丹羽が、私と高瀬さんのほうへとやって来て「今日のランチ、カキフライなんだ。それ一つね」と言う。
「タイプの違う女の子二人が、ウェイトレスっていうのは眼福だよね~」などと不真面目なことを言う丹羽に、高瀬さんが言った。
「丹羽さん、千夏さんは後期の大学が始まったら、学業に専念するため、お店に出るのを減らすんですって。だから、夏休みの間に、千夏さんの顔、見に来てあげてくださいね!」
「ちょっ、ちょっと!」
あまりにもわざとらしい高瀬さんのアシストに、私は焦ったが、丹羽はにやにやしながら、言う。
「どうせ単位がやばいんだろー、まったくこれだからちなっちゃんは」
「何よ、どうせ勉強苦手よ! うっさい!」
食って掛かる私を後目に、高瀬さんは、そうだ、とバックヤードに戻ると、ほどなくして戻ってきて、私と丹羽に一枚ずつチケットを渡す。
「これ、駅前にできた新しい美術館のチケットです。良かったら、千夏さんと丹羽さん、お二人で行ってきたらどうですか? 友人から三枚もらっちゃって、私はもう行って来たんで」
こんなんじゃ、バレバレだ、と泣きたくなりつつも、私は丹羽の反応を待つ。丹羽は、しばらくチケットを見つめていたが、くすっと笑うと言った。
「いいよ、ちなっちゃんとデート、ってのも悪かないな」
「ででで、デート!?」
丹羽の思ったよりも好感触な反応に、私の声が裏返る。
「お二人で、ぜひ行ってらっしゃーい」
高瀬さんがそう言うと、丹羽は、じゃ、食べ終わるまでに日取りを考える、と言って、窓際の席に着いた。
私は、真っ赤になりながら、注文を父に届け、丹羽には見えないバックヤードに入ると、思わずうずくまった。
丹羽と美術館に向かうのは『ななかまど』の定休日、木曜日の午後になった。待ち合わせ場所の駅前にある女の子の銅像の前で、私は何度も手鏡を見て、全身のコーディネートがおかしくないか、確かめる。
(絶対にスカートかワンピースで行くべきです! 千夏さん、スタイルだっていいんだし、いつもと違うところを見せて、ドキッとさせないと)
コーディネートの相談を高瀬さんにのってもらい、一通りをデパートで買いそろえた。高瀬さんが勧める服が、自分には到底似合わなそうなラブリーなものばかりで、拒否したが、最後には、少し大人っぽい無地のベージュのワンピースで、二人で折り合いをつけた。
待ち合わせ場所に、丹羽は、予定時刻を8分ほど過ぎて現れた。
「おー、おはよ」
「おは、よう」
いつも通りの丹羽の笑顔に、ちょっとほっとする。私とのデート、嫌じゃなかったんだ。高瀬さんが無理やり取り付けたから、もっとめんどくさそうに現れるかと思って、かなり緊張していた。
「じゃ、せっかくだから、チケットもらった美術館へ行こうか」
「うん」
美術館は駅前から歩いてすぐのところにできた、大きな新築の建物だった。現代アート展をやっているらしく、チケットにも、入口の大きな看板パネルにも、ぐにゃぐにゃにねじれた背もたれがついた変な形の椅子の写真が載っていた。
美術館には、いろいろな変わった展示があったが、丹羽はそのどれも興味深そうに眺めると、私に「これって現代作家で有名な人の、作品なんだよ」とか「この作品にはこういう意図がきっとあって、だからこう見せてるんだな」とか解説した。
私は正直、こういうアートとか芸術とかは自分にはまったくわからないから苦手で、ただうんうんと丹羽の話を聞いているだけになり、だんだん自己嫌悪が押し寄せてきた。
もしも、丹羽をいつも取り巻いている修士や学部生の女の子たちだったら、もっとこういう場で、上手く振る舞えるんじゃないのかと思ったからだった。
「ちなっちゃん、大丈夫? 疲れた?」
うつむいた私に、丹羽が顔をのぞきこんでくる。
「う、ううん大丈夫。次行こう、次!」
私は無理にはしゃいで、その場を取り繕った。美術館の最後のところに、お土産屋さんがあった。キーホルダーや絵葉書のコーナーを眺めていると、丹羽が言った。
「せっかくだから、何か買ってあげるよ。記念に」
私はドキドキしながら、ぐるぐるとお土産コーナーを一周したあとに、一枚の絵葉書を選んだ。花とガラスを使った、現代アートの作品を、写真にしたもの。丹羽は笑うと、「100円だけど、いいの? もっと高いものじゃなくて」と笑った。私はこくこくとうなずき、「それでいい」と言った。
美術館を出ると、冷房で寒かった館内から、一気に夏の名残の陽射しが押し寄せてきて、私は目を細めた。丹羽も、うーんと、伸びをした。
「あ、あそこに、ソフトクリームの屋台がある! ちなっちゃん、俺買って来るよ」
丹羽は終始私に気を遣っている感じで、それが逆にもどかしかった。丹羽は優しいから、きっと、高瀬さんの気持ちも、私の気持ちも汲んで、いろいろ、一人の大人の男性として、今日が楽しい日になるように、年下の私に不快な思いをさせないよう、きっといろいろ配慮してくれているのだ。その他人行儀の優しさが、丹羽に無理を強いているようで、私はちょっと辛かった。
目の前から、ソフトクリームを買いに行くために消えた丹羽を、ただぼうっと何もせずに外のベンチで待っていると、美術館の中から、三人の外国人の大柄な男性が出てきて、囲まれた。私に何か外国語で、べらべら話しかけてくるのだけど、意味が分からない。
「すてーしょん? うぇあー?」
私は今言われた単語を鸚鵡返しで繰り返すと、
(もしかして、駅はどこ? って言ってるのかな)
と合点した。
なんとかジェスチャーで説明しようとするが、伝わらない。すると、一人の外国人男性から、ぐっと腕をつかまれた。
「え、案内して、ってそういうこと?」
慌てて、怯えつつ抵抗していると、後ろから、丹羽の声が聞こえた。
「ちなっちゃん! どしたの」
丹羽だった。ソフトクリームを二つ持って、丹羽は私と外国人男性の間に割り込んで、流暢な英語で話し始めた。けわしかった外国人男性たちの表情がやわらぎ、最後はウインクをして「センキュー」と言って去って行った。
「あ、ありがと。あの人たちに何て言ったの」
丹羽はソフトクリームの一つを私に差し出しながら、涼しい顔で言った。
「俺の大事なツレだから、つれていこうとするなって。あと、美術館の出口に、地図があるからそれを見ろって」
まったくー、変な輩がいるもんだよな、と溜息をつきながら言う丹羽の言葉を、私はじわじわと噛み締める。
大事なツレ。その言葉が嬉しすぎて、一ミリも動けなくなってしまう。私が立ち尽くしていると、丹羽はにやにやしながら言った。
「怖かったんでしょー、俺がいて、ほっとしたでしょ」
「そんなことないっ」
また裏腹の言葉を吐いてしまって、私は顔の表情を見られないためにも、うつむいてソフトクリームにかぶりついた。冷たく、甘い味が、口の中に広がる。
私たちの夏がこうして終わり、もうすぐ秋が近づいてくる。
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