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四月、部屋には花を飾りたい

四月上旬に、家族の転勤によって北陸内で引っ越しをした。日当たりがいいという理由で選んだ三階の部屋は、とてもすっきりと気持ちがいい。晴れた日には、窓から山さえくっきりと見える。そして、私にしてはめずらしく、夫のワイシャツや私のTシャツを、ベランダで干している。

もともと立派なサンルームがついているのにベランダで干す理由は、たんにサンルームに物干しざおのようなものがついてなく、さおを置く場所がなかったからである。読んでいる人は思うだろう、何か洗濯物を干せるスタンドのようなものを買ってこいと。さすればサンルームでも干せるだろうと。

けれど呑気な私たちは「まあいっか、しばらく」の精神で、スタンドを買うのを先延ばしにしている。この春は引っ越し代そのものの出費に加え、ちょっと良い小ぶりな食器棚も買ったので、家計に北風が吹いているのだ。ご理解いただきたい。

けれど、春の風にはためくシャツ類が、ベランダのレースカーテン越しに見られる光景もなかなかよいもので「あ、私、暮らしをやってるなぁ」としみじみと思ったりする。春の陽のなか、遠くに電車の音が聞こえ、さしこむ陽は穏やかで、冷蔵庫のありあわせでゆでたうどんもまだ胃のなかで寝そべり、空腹ではない。

幸福と穏やかな気持ちに満たされた午後のなか、メモをとりながら再読しているのは、大学生のときからずっと「大切な一冊」である戦争文学で、中に出てくる爆撃や空襲の描写が、どうしても現在の世界情勢のことと重なり、複雑で悲しい思いにかられずにはいられない。

侵攻がなければ、これまで通りの穏やかな日常を過ごせているはずだったかもしれない人たちが、惨殺され、そしていやおうなしに家を奪われている。こんなことがなければ、穏やかに人生最後の日を迎えるまで、その家で過ごせていたかもしれないのに。

理不尽さに、喉がつまってくる。ページをめくる手も、メモをとる手も重くなる。この戦争文学を読んでいた大学生のころよりも、戦況のニュースが飛び込んでくるいまのほうが、よりいっそう、物語の現実感が強く迫って来る。

戦争文学や、戦争映画を直視することからどこか避けていた自分に改めて気が付く。自分が読むもの、視聴するものは選べる社会にいるから、悲惨なものは見たくない、で手に取らないことはいくらでもできて、でもこんなことが始まってしまった今、過去から学ぶことを拒絶してはいけないし、ニュースから目を背け続けることもやめていこうと思った。

最近とみに「大人であることを選択しよう」という思いが強くなった。私には子供はいないけど、もう「誰かから守られる年齢」ではなく「自分より若い人、幼い人を守っていい、守るべき年齢」にさしかかっているのだ。

二十代に病を得たせいもあって、自分がこれ以上傷つかないように、安全線を慎重にはりながら生きてきた三十代だった。でも、もう三十代もそろそろラストスパートで、体の元気もじゅうぶんに回復してきた。

「大人になれ」「大人になれ」「もうその時間だよ」と私のなかでけたたましく目覚まし時計が鳴り続けている。もちろん、大人になろう、大人でいようと自覚したからといって、一朝一夕になにができるようになるものではないけれど、それでも「ずっと甘やかされていたい」「繭のなかから出たくない」と思うよりはいいと思っている。私自身が、成人を迎えたあともずっと、そういう頼りない若者だったから。

youtubeでこのごろよく見ているのはテレビ局のアカウントから視聴できるドキュメンタリーで、先日はコロナ禍の大学生の特集をつぎつぎと見ていた。

オンライン授業を録画して、日中にバイトを三つ掛け持ちしている大学生、授業料と家賃を支払うため、時給のいい夜バイトに飛び込まざるを得ない大学生、切り詰めないといろいろなものが支払えなくて、一日の食費を300円に決めている大学生。

自分自身が学生だった当時を振り返ると、私はなんて甘ったれだったのだろう、と穴に入りたくなる。

日が傾く三階の部屋で、またちびちびとパソコンに向かって字数を伸ばしていく。そして日中は、仕事に行く。夜は、家事をする。自分にできることからしかなにごともはじめられはしないのだけれど、でもそのできることの範囲を、すこしずつでも広げていこうと心に決める、四月である。

花屋さんにミモザがあったら、買って部屋に飾りたい。





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