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【小説】あまい飲み物 にがい飲み物

十一月の朝、職場までの道は街路樹のイチョウ並木に美しく彩られている。お天気はいいけどだいぶ肌寒くなった。私は、出勤前にお昼を買わなくては、と道すがらにあるコンビニエンスストアに寄った。

陳列されている季節限定のスイーツやこの間まではなかった新商品のお弁当をじっくりと眺めながら、私はコンビニにお昼ご飯のほかにも用事があることを思い出した。

「今月、お茶当番だったんだ。コーヒーとか切れそうだから、買っていかないと」

お昼用のクリームパスタとさつまいもパンをカゴに入れ、私はお茶や珈琲などが並んでいる棚の前に立った。緑茶、ほうじ茶、紅茶にコーヒー。コンビニだから、そう置いてある種類は多くない。

「みなさん、どんなものが好きかな」

そうつぶやくと、知らず知らずのうちに溜息がひとつ出た。まだ職場に入って間もない私は、職場である経理課の人たちが、何を好むのかすらよく知らない。わかっているのはひとつだけ。西谷さんは、コーヒーばかり飲んでいること。

契約社員として入った笹倉薬品会社の経理課で、私の教育係となっているのが、西谷志保子さんだ。四十代の正社員で、二十五歳の私、広村杏奈とはだいぶ年が離れている。西谷さんは背が高く痩せていて黒縁眼鏡をかけている。髪はいつもひっつめている。眼光は鋭く、数字のミスを見つけることにかけては右に出るものはいない。いつもぴっしりとパンツスーツを着こみ、スカートをはいているところは見たことがない。

ようするに、目の前にいるとちょっと委縮してしまうような先輩だ。対して私といえば、ややぽっちゃりとした体形で、目尻が下がってて「すみません、また間違えてしまって」が口癖の気弱な性格。高校時代に簿記三級をとったから、この職場でも通用すると思っていたのが甘すぎたみたいだ。

「広村さん、ここまたミスしてる」
「こないだも、同じ間違いしてたよね」
「いったい、何回言ったらわかるの?」

西谷さんは言葉も手厳しい。もちろん、入社三ヶ月で、もうミスがなくなってもいい時期に、繰り返すのだから、西谷さんからしたら私はお荷物なのだろう。わかってはいる、わかってはいるが、このご時世、新しい転職先を探すことほど大変なことはない。三ヶ月で前の職場を自己都合でやめた、となれば、さらに職探しは難しくなることは必須である。

私はコンビニのレジでコーヒーのドリップバッグと、りんご風味のフレーバーティーと、ココア・オレを買った。お会計をすませ、レシートを大事に財布にしまう。職場についたら、自分が今月は持っているお茶当番の会計袋から、同じ額だけもらい、差し引きを出納帳につけるという作業が待っている。これくらいの計算なら問題なくできるんだけどなあ、と私は思ってコンビニを出ると、晴れ渡った秋の空を見上げた。

この日は朝から伝票入力の仕事がわっと立て込んで、処理をしているうちにお昼どきになった。パソコンを集中して見ていたので目の奥がじんじんする。時計の針が十二時をまわると、みんな席を立ち始めた。

私よりも先に給湯室に入った課長が「おや」という声が聞こえた。

「ねえ、コーヒー切れてるんじゃないの」

西谷さんがにべもなく自分の席から声を出す。

「今月のお茶当番は広村さんです。広村さん、どうなっているんですか」

私は飛び上がった。出納帳にはきちんと計算してつけたのに、買ってきてある肝心のコーヒーやフレーバーティーをポットの前に並べていなかった。

「ご、ごめんなさい、買ってあります。いまお出しします」

私はあわててカバンからコーヒーなどの入った袋を取り出すと、自分の席を立って給湯室に向かおうとした、が、その際に隣の席の水山さんのごみ箱をけっとばしてしまった。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

水山さんは苦笑して「広村さん、今度は気を付けてね」と自分でごみ箱を元に戻した。

意気消沈してお昼を食べた。いつもなら美味しくてしかたないクリームパスタもさつまいもパンも、味がろくにわからなかった。

食べ終わり、そうだ買ってきたココア・オレでも飲んで安らごう、そう思って給湯室に行くと、コーヒーのドリップバッグにお湯をそそいでいる西谷さんがすでにそこにはいた。

「あ、さっきはすみません」
「いえ」

必要最低限の返事しかかえってこない、ということは、まだ怒ってるのかも。私はちょっとでも、場を和ませようと声をかけた。

「あの、ココア・オレも買ってきました。西谷さん、いつもコーヒーばかり飲んでるじゃないですか? たまには甘いのもどうですか」

西谷さんはこちらを見ないで、私の言葉を一刀両断した。


「甘いの、嫌いだから」
「そ、そうですか」

お湯を注ぎ終わったドリップバッグを三角コーナーにぽいと捨てて、西村さんは自分の席に戻っていった。甘いものは、飲み物でも、人であっても大嫌い。そう暗に言われた気がした。


仕事が終わり家に帰ると、母がエビフライを揚げていた。私は短大を出た後、ずっと実家から働きに出ている。もう二十五歳なのだから、いずれ結婚を考える日が来た時のために料理のひとつもできたほうがいいのだけれど、朝食も夕食もつくるのは母にまかせっきりだ。

西谷さんはたしか、小さな田舎町からこの県庁所在地に出てきて、ずっと一人暮らしだと聞いているから、おそらくなんでも家事はこなせるのだろう。仕事をあんなにバリバリされている人だから。

いろんな人に「あんたは甘いね」と苦笑されながら生きてきた二十五年だけど、そろそろそう言われないように努めなければと考えている。自分に甘いから、お菓子やおつまみだって際限なく食べてしまって太るし、自分のキャリアを考えなければいけないのに、正社員の求人には腰が引けてしまう。

一人でしっかり自立して働いている西谷さんを見ると、自分はこのままではいけないと思う。西谷さんのことをおそれてもいるのだけど、心の底では憧れてもいた。

「杏奈、揚がったよ。取り皿出して、ご飯よそって」

母が大皿いっぱいのエビフライを運んできたので、私は一瞬前までの葛藤を忘れて、思わず目を輝かせた。あーまた太っちゃう、でも、ダイエットは明日からでいいかなあ。そう思い巡らせながら、私は冷蔵庫を開けてウスターソースとマヨネーズを取り出した。


翌週の水曜日、空模様は小雨がちだった。天気はあいにくだけれど、私はこの三ヶ月がんばった自分のために、ご褒美を用意していた。大好きなミュージカル劇団のチケットが、職場カバンの中にそっと収められている。仕事帰りに見に行く予定なのだ。

経理課のフロアに入るのは、いつも足が重いのだけど、今日ばかりは楽しい夜の予定を考えると、気分が軽くなって鼻歌が出そうだった。ところが、一歩フロアに足を踏み入れたとたん、突然響いた怒鳴り声に私は棒立ちになって固まった。

「どうしてこんなことになるんだね! えっ、答えてくれるかね?」

課長が西谷さんを席の前に呼びつけて、叱り飛ばしていた。西谷さんは体を九十度にきっちりと折り「私が見逃しました、すみません」と何度も謝っている。水山さんが私に寄ってきて、そっと耳打ちした。

「先週、みんなで伝票をたくさん処理したでしょう。その中に、チェック漏れした大きな数字の間違いがあって、それがもう提出すべきところに提出されちゃって、そこで問題になっちゃったみたい」

「そうなんですか……」

そのミスを出したのは私かもしれないと思うと、気が気でなかった。課長が怒るとあんなに怖いなんて知らなかった。その怒鳴り声を、西谷さんは一人で受けていた。課長がぷりぷりしながら出ていったあと、西谷さんは経理課員みんなを集めて、疲れのにじんだ声で言った。

「これから、業務終了後に交替で一日の仕事のミスチェックをしたいと思います。私は必ず残るから、ほかに誰かもう一名残ってください。今日は、佐伯さん、どうですか」

名指しされた佐伯さん――入社二年目の男性社員――は、頭をかきながら下げた。とても恐縮している。

「西谷さん、すみません。うち、子供が生まれたばっかりで、今日はちょっと残れそうにありません。次のときにやるんで、今日はかんべんしてください」

水山さんも終業後に保育園のお迎えがあると、申し訳なさそうに言った。谷口さんも高村さんも、今日はダメです、と逃げた。西谷さんは私のほうを見ないで「じゃあ今日はとりあえず私一人がやります」と言った。私は思わず、声を上げた。

「私、残ります」

正直、演劇を見に行く予定であることが頭から一瞬飛んでいた。すぐに思い出したが、まあいいか、と思った。

「広村さんは契約社員です。基本、残業しなくていいんですよ」

西谷さんが静かに言った。

「でも、――でもやります。私のミスかもしれないし。経理の勉強もしたいんです。やらさせてください。それに、二人でやれば、早く終わります」

西谷さんは少し考えて「残業代はつけます。そのための書類をあとで取りにきてください」と、やっぱり私を見ないで言った。

この日も、伝票処理は多かった。ミスしないように、ミスしないようにと思っていると、仕事を片付けるスピードがのろくなる。昼十二時を回っても、私がパソコンにかじりついていると、佐伯さんが私の肩をとんとん、と叩いた。

「広村さん、今日替わってくれて、本当にありがとう。これ、ささやかだけどお礼。あと昼メシはちゃんと食いなよ」

そう言って、チョコスナックの箱をくれた。私はお礼を言って、箱を受け取り、うーんと伸びをした。


経理課フロア、十七時半過ぎ。西谷さんと私をのぞく他の社員がフロアから消えたあと、私は演劇の開演時間の十九時に間に合わないかもしれないという覚悟を決めた。もし、十八時半までに終われば、ダッシュで間に合うかもしれない。だけど、そんな望みに賭けるのは、仕事を懸命にしている西谷さんに失礼だと言う気がした。

ミスチェックを始めて十分後、西谷さんが呆然と呟いた。

「こことここ、数字が合ってない」

「えっ、どこですか」

「ほら、見てみて。――あの、あんまり顔近づけないで」

「すみません。あ、ほんとですね」

私たちは黙々と作業を続け、私は普段よりもきりきりしてない西谷さんから、いろいろ教わった。ミスチェックの作業がすべて終わったのは、十八時三十二分だった。とたん、西谷さんがバタバタと机周りを焦ったように片付けはじめた。

「広村さん、お疲れさま。――実は私も今日、用事があって。急いで帰るから、広村さんも早めに帰り支度してくれる? 鍵かけちゃうから」

「は、はい」

あわてている西谷さんなんて、初めて見た。そう物珍しく思っていると、西谷さんが、クリアファイルをばさりと床に落として、中身が散らばった。カバンにしまおうとしたのを、落としたようだった。

クリアファイルを拾ってあげたら、しぜんと中の紙束に目がいった。一番上にあったのは、チケットだった。――私が今日見に行くつもりの、ミュージカル劇団チケット。

「西谷さん、これ」

思わず口に出しながら渡すと、西谷さんは頬を真っ赤に染めてクリアファイルごとひっつかみ、

「ミュージカル、好きなの。似合わないことは知ってる。悪い?」

と喧嘩腰で言った。私はぱっと顔を輝かせると提案した。

「私も、今日のこの公演に行くんです。いまからでも、ダッシュで走れば間に合います。すぐに行きましょう!」

西谷さんはびっくりしたようだった。

「えっ? このミュージカルに間に合わないかもしれないのに、残ってくれたの?」

「いろいろお話したいですが、事情はあとです。急いで行きましょう!」

フロアに鍵をかけると、私たちは駆け出した。会社の建物を出て、西谷さんが横断歩道を渡ろうとするのを見て、私は叫んだ。

「西谷さん! そっちから行くより、この路地抜けたほうが会館までは速いんです!」

「――さっすが、地元民」

ぼそりと西谷さんはつぶやき、私にはそれが褒め言葉だとわかった。私は西谷さんと一緒に、自分だけが良く知っている近道を抜けて、ミュージカルの上演会館へと向かった。

結局、開演五分前に私たちはギリギリですべりこむことができた。指定席が離れていたので、ホールに入る前に私たちは別れた。別れ際、西谷さんはちいさな声で「ありがとう」と言ってくれた。

ミュージカルの楽しい時間に、泣いたり笑ったりしながら、私は思っていた。明日も、仕事がんばろう、と。まだまだダメな自分ではあるけど、それでもがんばろう、と。


翌日、職場に行く前にいつものようにコンビニに寄った。温かい飲み物の棚の前で立ち止まり、少し迷っていつもの甘い飲み物ではなくブラックコーヒーの缶を買った。レジに並ぼうとしたとき、目の前に西谷さんがいることに気づいた。

「あ」
「あ」

お互い、顔を見合わせた。西谷さんの手には、チーズパンとココアの缶が握られていた。西谷さんはふいっと顔をそらして、

「ちょっといつものと違うのを買ってみたかっただけ」

と言った。私も「私も、ちょっと背伸びしてみようと思いました」と、ブラックコーヒーの缶を掲げてみせた。気づいた西谷さんが、軽くふき出した。

二人で並んでコンビニを出ると、イチョウの落ち葉が金色のじゅうたんのように、道をうずめていた。



noteの連載が書籍化されて2020年7月にデビューしました。経緯はこちら。


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