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【小説】君を待つあかり(上)

仕事終わりの帰り道、川沿いにある小さな公園で僕はベンチに座り缶コーヒーで一休みする。時刻はいつも夜の十時すぎだ。季節は六月で、梅雨の晴れ間の夜空には、爪の先ほどの小さな月がかかっていた。東京という大都市に住み、こうして夜出歩くと、街じゅうにあるマンションのあかりが目に入る。

そのひとつひとつに住居者がいて、それぞれの暮らしをいとなんでいると思うと、なんだかいつも途方もない気持ちになる。あの小さなあかりが、誰かの帰っていく場所なのだ。そしてこんなに無数のあかりがあるのに、そこからはじかれてしまう誰かもいる。たとえば、初野真菜佳のように。

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僕と真菜佳が出会ったのは、僕の通う大学からほど近い、小さな書店でのアルバイト先でのことだった。大学入学当時からそこでバイトをしていた僕の後輩スタッフとして入ってきたのが、僕より一つ下の真菜佳だった。大学生でも、専門学校生でもなく、高校を出てから二十歳になるいまもフリーターだと最初に教えてもらった。ただ、入ってしばらくは、真菜佳に帰る家がないなんて、僕は気づきもしなかったのだ。

そのことを知るきっかけとなったのは、店長と僕と真菜佳の三人で、仕事帰りに飲みにいった日のことだった。 
居酒屋で、やきとりやたこわさをつつきながら初老の店長が僕に聞いてきた。

「笹谷くんは、実家はどこだっけか」
「長野です」
「ああ、それはいいところだね。初野さんは行った事あるかい、長野」
「いえ、ないですね」
 店長に話をふられた真菜佳は軽くほほえみながら返した。
「初野さんの出身はどこなの?」
 僕はビールを飲みながら、真菜佳に聞いた。
「東京ですよ」

真菜佳が言葉少なだったので、店長も僕もそれ以上は聞かず、店内のテレビで流れる野球中継を見ながら今年のセ・リーグの順位争いについて話に花を咲かせていた。
帰り際、居酒屋近くの家に帰る店長と別れた僕は真菜佳に言った。

「もう遅いし、送っていくよ。家はどっち方面?」
真菜佳の顔が一瞬くもったので僕はあわてた。
「あ、ごめん、家にあがりこもうとかそういうわけじゃぜんぜんなくて、本当に暗いし、飲んでるし、危ないから」
しどろもどろになった僕の目の前で、真菜佳は手を振って言った。
「いえ、そんなことじゃないんです、私、今日家に帰らないから、送らなくていいんです」
「え?」
 どういう意味かはかりかねて、眉を寄せた僕に、真菜佳はさらりと言った。
「ネカフェに泊まるんで」
「ネカフェに?」
「私、実家が嫌いで帰りたくないんです。だから、バイトかけもちして、ネカフェとか、カプセルホテルとか転々としてるの。慣れてるから平気です、じゃ、また」
 本物の家出少女なんて初めて会った。淡々と話す真菜佳に僕はかける言葉がなかった。それくらい、僕は真菜佳について何もいままで知らなかったのだと思った。

僕の実家は、長野の田舎にある寺だ。つつじの名所としてよく知られており、観光客もそれなりに訪れる。年の離れた兄貴が、もう跡継ぎとして決まっていて、次男の僕は親からも兄からも好きな道を選んでいいと言われ、考えた末、都内の大学で生物学を専攻している。

将来は、東京か長野のどちらかで教員になろうと思っていて、いまは白衣を着て実験に追われる日々だ。両親とも兄貴とも仲が良く、たまに実家に帰ると、ビールで乾杯する。そんな僕はのびのびとして恵まれて見えるらしく、大学では何人かの女の子に言われた。

「笹谷くんは育ちがいいね」と。「どういう意味で言ってるの」と聞き返すと、一人の女の子が「笹谷くんからは、あったかい感じがするんだよ、ひなたにいる犬みたいな」というよくわからない返事が返ってきた。ひなたの犬。喜べばいいのかも疑問だったが、とにかく僕はそういう風にまわりから見られているみたいだった

新しいバイトスタッフとして入ってきた真菜佳を初めて見たとき、僕はずいぶんと小柄な子だな、と思った。僕の身長は172センチで、それほど大きいとも言えないけど、真菜佳は150センチあるかないかという感じだった。黒目がちの目をしていて、髪をひっつめて、シンプルなシャツを着ている、書店バイトにふさわしい女の子に見えた。

だから、そんな大人しそうで地味な子が、実家に帰らないでネカフェを転々としていると知って、僕はおおいに驚いたのだ。
ネカフェ発言の翌日、普通にバイトに出てきた真菜佳に、僕は仕事の手をとめて聞いた。

「家に帰らないで、親は心配しないの?」
「心配してくれるような親だったら、そもそも泊まり歩いてません」
即座に切り返し、さらに真菜佳は言った。
「笹谷さんは、親は子供を守ってくれる存在だって、疑ったことないでしょう」
「そんなこと」
「そういう顔をしています」 
僕のことをひなたの犬、と言った誰かの声が耳によみがえった。あれはバカにされていたのかもしれない。そんなに僕は、苦労知らずの人間なのだろうか。
「いまは仕事中なんで、よかったら帰りに話します」
 そう言って、真菜佳は書店の奥へと引っ込んだ。

その日は夕方五時上がりだったので、僕は真菜佳をバイト先近くの喫茶店に誘った。ナポリタンが旨いと評判の店で、僕も真菜佳もそれを頼んだ。僕はコーヒー、真菜佳は紅茶を食後につけて。

注文を店員がとりにきたあと、食事が運ばれてくるのを待ちながら「ここはおごるから」と僕が言うと真菜佳が苦笑して口を開いた。
「笹谷さん、私をすごーく貧乏人だと思ってるでしょう」
「そ、そうじゃないの?」
僕が聞くと、真菜佳は口の端に薄い笑みを浮かべた。

「家にお金がないから家出してるわけじゃなくて、家に居場所がなくて帰りたくないから家出してるの。バイト代が尽きたときには、雨風しのぐために、たまに帰るし。そうすると、親がネカフェに泊まるためのお金くれたりするの。親も私がいないほうが楽らしくて」
「はぁ」
「一人暮らしできるだけの貯金が貯まれば、すぐにでも出て行くけど、まだ貯めきれてなくて。私みたいに家出を繰り返した末神待ちする子もいるけど」
「神待ち?」
聞きなれない言葉に、たずね返すと真菜佳はさらりと言う。

「ネットで、転がり込む先をつのるの。だいたい、社会人の男の人が申し出てくれる。かわいそうな女の子をひろってくれるから、そういう人を神って呼ぶの。でもそうすると、関係もたないといけないこともあるから、私はめんどくさくてやらない。危機管理はしてるつもり」

たしかに、糸の切れてしまった凧ならば、そういうことにもなり得るんだろうな、と僕は考えた。そうして神待ちした女の子の中でも運の悪い子には、監禁とか殺人とか、そういう闇が待っているのかもしれない。
「神待ちする子の気持ちはわからないけど」真菜佳が続ける。
「女の子って、いつか来る救いみたいなものを、いつでも求めているから。それが年上の男の人だと錯覚したりするんだろうね」
「初野さんは、そうじゃないの」
「私は、男の人自体あんまり好きじゃないし、信用してないから」

真菜佳がそう淡々と言ったところで、ナポリタンが運ばれてきた。甘いケチャップの香りがしたが、こんな話を聞いたあとでは、あまり食欲をそそられなかった。真菜佳は普通に食べて「おいしい」とつぶやいた。

喫茶店を出る時間には、こまかな雨が降ってきていた。天気予報を見ずにそのまま家を出てきた僕と違って、真菜佳はちゃんと傘を用意してきていた。
「俺、走って帰るわ。初野さんも気をつけて帰って」
僕が言うと、真菜佳は軽くうなずき、差した傘をちょっと持ち上げてあいさつした。

五月になり、大型連休に入ると、僕は長野に帰省した。朝早くに東京駅を出て、新幹線「あさま」に乗ってふるさとへ。真田幸村公で知られる、信州の上田市が僕の生まれた町だ。駅の改札を出ると、そこにはもう兄貴が迎えにきてくれていた。

「よう、おかえり」
手を上げた兄貴に、こちらも手を振り返した。駅のロータリーの駐車場まで二人で歩いていって、ボストンバッグを兄貴の車に積んだ。僕が助手席に乗り込むと、兄貴が車を発進させる。

緑の街路樹がどんどん窓の後ろに流れていくのを見ながら、兄貴が言った。
「勇斗も今年で三年生か。そろそろ、どちらで就職するかを決めないとな。長野に帰ってくるのか?」
「教員採用試験はとりあえず、東京都と長野県と、両方受けるつもりだよ」

「まあ、俺はずっと長野にいるけどなあ。お前は好きにしていいとうちの親は言ってるが、ほんとは帰ってきてほしいんだぞ」
「ん、わかってる」

生返事を返すと、兄貴はやれやれという風に笑った。
自宅に着くと、家の横の小屋で買われている犬のコロが、しっぽをぶんぶん振って歓迎してくれた。コロは毛並みが白の雑種犬で、僕と兄貴が子供のころ拾ってうちの犬になった。そうか、長野に帰ればいつでもコロの近くにいれるんだな、と思い、僕はちょっと微笑んだ。

コロの鳴き声で僕の帰りを知り、表まで出てきた母に、東京土産の菓子折りを渡す。兄貴と連れ立って家の中まで入り、ソファに腰を下ろすとようやく一息つけた。

その日の夜はすき焼きで、僕は父と兄貴と三人で缶ビールをあけて甘辛い肉をつついた。この実家で居心地がいいか悪いかなんて、思ったこともなかったくらい、実家の空気は僕にとって楽に吸えるものだった。酔っ払った頭で、家に居場所がないと言った真菜佳のことを考えて、連休が終わったら長野土産でも書店に持っていこうかなと僕は考えた。店長も喜んでくれるし、真菜佳もきっと食べてくれるだろう。

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