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【散文】ハッピーマイバースデー

 甘ったれた心ほど、手に負えないものはない。それが他人の心であっても、自分の心ならばなおさら。私はぎゅっと目を閉じて、ごうごうと電車の音が鳴り響く駅のホームで、ベンチの背もたれによりかかった。いつもの貧血だ。人ごみの中にいたあとは、こうなりやすいのだ。十分もこうしていれば収まるから、たいしたことはない。

 まさか、三十歳の誕生日にまで、こうして都会の真ん中で一人、動けなくなっていると知ったら、十五歳の私は、さぞやがっかりするだろう。そう思うと、過去のあまりにバカ真面目すぎた私を、笑いたくなる。

 十五歳の頃、私はひそやかで切実な願いを持っていた。いつかこの辛い毎日から、救い出してくれる誰かが、あらわれますように。心の傷を、ふさいでくれるひとが、私に寄り添ってくれますように、という、今なら一笑に伏す願い。

 地方都市に生まれ、実家もそれなりに裕福で、なんの環境的不満が私自身にあったのかはわからない。女友達だってちゃんといた。でも、私の心にはいつしか、簡単に埋められない穴が広がっていた。

 守ってくれる人さえいれば、そう思ってした大学時代からの恋愛は、すべて失敗した。自分がたぶん、過剰に依存しすぎたせいだった。どの男も、みんなはだしで逃げ出した。あとには、心の穴をさらに広げた自分だけが残った。

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「自分の考え方に、すべての原因があると思ったことはないかな?」

 室内を白で統一した、清潔なカウンセリングルームで、私の担当カウンセラーの浅尾先生はゆっくりとした口調で言った。

「考え方、ですか」

「自分には足りてないものがあって、他人から何かもらわなければその足りなさを埋められないって思ってるところはない?」

「ある、かも」

「島村さんは、島村さんなだけで、完全な存在なの。……そういうと、宗教みたいだけどね。ベタなことをいうけど、島村さんを救えるのは、島村さんだけ。自分で自分のことを、なんとかできてはじめて、人と関わって助けたり助けられたりすることができるんだからね」

「いつか、誰かが救ってくれるっていうのは、幻想なんですか」

「うん、そうだね。その思い込みの枠を外したときに、あなたはもっと人に愛されるし、人に好かれると思うよ」

 先生の話は、なかなかテツガク的で難しかったが、私は先生と話せるこの時間が好きで、三年もずっと通っていた。薬での治療はしたくなかったので、ちょうどよかった。

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 貧血が収まり、家路へとついた私は、先週の浅尾先生とのカウンセリングの内容を思い出しながら、スーツのポケットからipodをとりだし、耳へとイヤホンを差し込んだ。思春期のときから、もう何百回聴いたか分からない、大好きなバンドの大好きな一曲、そのイントロが流れ始めた。この曲にこめられた「僕があなたを守る」という、その力強い祈りに、何度救われたか、何度泣いたのかわからない。歌の力はほんものだった。だけど、そのバンドマンが、実際私の前に現れて、抱きしめてくれるわけじゃない。そういうことは、わかっている。でも、歌にこめられた祈りそのものは、間違っちゃいないのだった。

 私が、精神安定剤を飲みたがらず、カウンセリングで治療しようと思ったのは、中学時代の同級生が、精神安定剤の乱用で何度も救急搬送されているからだった。彼女からの、夜中の絶え間ない電話にも、神経が非常にすり減った。自分だって、同じ穴のムジナではあったが、私は彼女のようになりたくなかった。私と彼女は、中学生の頃、同じ少女漫画を読んで、よく語り合っていた。「いつか、きっと救い出してくれる人が現れるよね」――と。彼女の家は、家庭環境が複雑で、私よりも、ブラックホールに落っこちる可能性は大きかったにせよ、私は、救いを求めた結果どんどん堕ちていく彼女に、引きずられてしまいそうで怖かった。

 誰かが。誰かがいれば。誰かが助けてくれれば。誰かがそばにいてくれたら。ひとつひとつ、自分の考え方のクセを検証してみると「誰かが〇〇してくれたら、幸せになれる(はず)」という思いに依っていることがわかって、びっくりした。そしてこうも思っていた。「誰かにいまだ救ってもらえない私は、不幸」だとも。私が私を「不幸」だと定義していたのだ。それは、それは――正しい認識なのだろうか?

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「いつか、誰か、に期待しないで、いますぐあなた自身が幸せになりなさい。その人が幸せかどうかは、顔にもにじみ出るのですよ」

 街角占い師のおばさんは、私にきっぱりとこう言った。どうやら私は彼女の見立てによると、だいぶしけった人相をしているらしい。

「ちゃんと働いて、毎日体を動かすこと。三食、きちんと栄養のあるものを自炊して食べること。部屋をきれいにして、質のいい睡眠をとること。いいね、ちゃんとするんだよ」

 いろんな人の指摘のおかげで、私の認知のゆがみは、少しずつ正されようとしている。「守ってもらいたい」という思いの傲慢さも、その半面の可愛げも、いまでは両方わかる。いまなら私は十五歳の自分に言える。いつか王子様が、なんて、かわいらしい願いだね。でもね、誰かに全部丸投げする人生を期待してると、痛い目見るよ。それより、誰かを守ってあげられるような人になれるよう、がんばりな、ってね。

 今夜は私の三十歳の誕生日。ケーキや花なんてしゃれたものはないけど、自分の好きなかんたんポトフが昨日から鍋に残っているから、それをつつきながら、ワインをちょっぴり飲もう。夜が更けたら、さっさと眠ろう。また新しい、一日を迎えるために。

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