【小説】みたいなもの
初任給で、両親に中華料理を奢るつもりだ。私がそう言うと、一緒に暮らしている有起哉は「へえ、いいなあ」と言った。有起哉の生い立ちがだいぶ複雑であることを知っている私は、その「いいなあ」にさまざまな意味がこめられていることをすぐに悟った。
産みの親と誰もが上手くいっているわけではないことを、私は大人に近づくにつれて知っていったが、特に有起哉との同居は折にふれそのことを実感させられた。
「僕のことは構わず、行ってきなよ。駅前の青龍亭がいいんじゃない?」
いつもの町中華よりはちょっと背伸びをしたいい店を、有起哉は勧めてくれて、私は有起哉の思いやりを嬉しく思いながらも「ごめんね、その日は一人で食べてね」と彼を抱きしめた。
私たちが一つのマンションに同居を始めて、半年になる。きっかけは、食べ物の好みが合ったことだった。お互いの共通の友人が開いたホームパーティで知り合った私と有起哉は、そろって自炊が好きだった。
おいしいものを食べるのに目がなくて、スーパーに通ってよい食材を探すのが大好きで、自分のつくったものを誰かに「美味しい」と言ってもらうことに生きがいを感じる、そんな性格が二人とも同じだった。
『一緒に暮らして、一緒にごはんを食べませんか』
私が一世一代の勇気を振り絞った誘いを、有起哉は受けてくれて、二人でマンションを借りに行った。
有起哉は、小学生のころ、冷蔵庫が空っぽで家にパンの切れ端ひとつもなくて、飢え死にしそうになったことがあったらしい。そのことをきっかけに彼は、自分で食べるものは自分で確保しないと死ぬ、と思い知ったそうだ。母はとっくに他の男と家を出ていて、パチンコぐるいの父は、息子のために食事を用意することを怠ったのだった。
『父のように生活感のない大人になったら、人生終わりだと思った。だから、奨学金を使って進学して、ちゃんと就職して、そういう大人になろうと思った』
六月の夜、ひとつのベッドで身を寄せ合いながら、有起哉が私に語ったことがあった。まともでいよう、まともな大人にならなければ、まともでいなければ世界から見捨てられて死ぬ。有起哉の言葉は淡々としていたが、彼の人生につきまとってきた苦悩の影からいまでも逃げられていないことが、私には伝わってきた。
私自身は、寛大な父としっかりものの仲睦まじい母のあいだで育ち、お金持ちの実家とはいえなかったけれど、とくに何にも困らない暮らしをさせてもらって、無事に新卒で就職もできた。
私の知っている家族と、有起哉の知っている家族は、だいぶ違うものだ。それをわかっていたいと思うから、私は有起哉の心に触れるときは、なるべく羽毛が触れるみたいにそっと扱おうと思っている。
「ねえ、じゃあ今日は何食べたい?」
私がそう言うと、有起哉は近所のスーパーの特売情報が載っているアプリを立ち上げて、
「キャベツが安いから、餃子がいい」
と言った。私もはしゃいで乗っかる。
「じゃあ、チーズも入れよう。二人で皮から包んで、百個くらい作って残りは冷凍しよう」
「うん、いいね」
お互いの休日にこういったたわいない話をすることが、有起哉の心を温めるのを、私は知っていた。家にいつでもごはんが用意できている、そういった生活を私もおそらく有起哉も、大切にしたかった。
青龍亭に呼び出された両親は、私を見て誇らしそうに笑った。
「手塩にかけて育てた娘がこーんなに大きくなって、ごちそうしてくれるっていうんだから、今日は本当にいい日だなあ」
「会社でつらいことはないの? あったらすぐにお母さんたちに言いなさいよ」
有起哉と知り合う前までは、こんな会話もとりたてて特別だと思わなかったし、自分が恵まれていたほうだとは考えなかった。でも、こういう温かさを享受できず育った人も、有起哉はじめこの社会には多く存在している。
有起哉の父は存命だが、有起哉は「父とは縁を切ったから」と言う。有起哉は私よりも二歳上だから、二年前に初任給をもらったはずだが、おそらく何も有起哉からはしていないだろう。「もうできれば、顔を見たくない」と私に打ち明けてくれたことがあった。有起哉はいまごろ何をしているだろうか、一人の食卓についているのだろうか、そう考えながら私は白いクロスのかかった丸テーブルにつく。
おまかせコースにしたら、三人では食べきれないほどのいろんな種類の中華の皿が出てきて、美味しいねと言いながら口に運んだ。
紹興酒でほろ酔いになった父が、私を見てにこにこしながら言った。
「朋子、一緒に暮らしている人がいるんだって?」
母にはそれとなく話していたことだったが、父にも筒抜けのようだった。
「うん、川本有起哉さんっていうの」
「で、結婚も考えているんだろう?」
デリケートな話題だ、と思った。一緒に暮らして半年、有起哉からそういう話は一度も出たことがない。だってまだ住んで半年なのだ、お試し期間だと私も思っているし、有起哉だってそうだろう。
私がついうつむいてエビチリをつついていると、父が重ねて聞いてきた。
「有起哉さんは会社員だと聞いている。で、親御さんは何をしている人なのかな?」
「あー……」
まずい方向に話が流れ出した、と思ったが、私はつい、何事にも正直な性格がたたって言ってしまった。
「あの、ご両親は小さい頃に離婚していて、お父さんに育てられたけど、いま、連絡は有起哉さんのほうからとっていないとか」
父が眉根を寄せたそばで、母がぴしゃりと言った。
「そんなのだめよ。そんな関係は、うまくいかないわ。もっと普通の人にしておきなさい」
エビチリに入っている唐辛子の切れ端が、喉で焼けた。
「普通の人って、何? 有起哉さんは普通じゃないとでも?」
自分の両親は、善良だし優しくて理解もある、いままでずっとそう思っていた。
「有起哉さんは、大変な家庭に育ったけど、真面目に勉強して奨学金もらって大学も卒業して、ちゃんと会社でしっかり働いてるんだよ。お母さんのいう、普通ってなによ」
「朋子」
父がたしなめるように言った。
「俺たちは、朋子にあまり苦労をしてほしくないんだ。一生をともに生きる人だ、よく考えて決めなさい」
ぽたりと、クロスに涙が染みた。悔し涙だった。有起哉がどれだけ「普通の人生」を手に入れるために努力してきたか、両親はわかろうともしないで、頭ごなしに偏った情報だけで決めつける。
せっかくの、両親への感謝を伝えるための席が、だいなしになってしまった。三人で黙って、皿の料理を片付けた。おいしいはずのお粥も肉団子炒めも、味がすっかりわからなくなってしまった。
マンションに帰りつき、ドアを開けると有起哉がびっくりしたようにこちらを見た。
「朋子、ひどい顔してるよ。今日は楽しい席じゃなかったの」
今日のことは有起哉には、つらい事実は伏せて冗談として伝えたかった。無理やりにおどけた表情をつくりなおして、言った。
「両親が、結婚とか考えてないのかってふざけたこと言うから、ないない、って笑ってごまかしちゃったよ。そういう話、まだまだ私たちには早いよねえ」
はっと有起哉は表情を硬くした。私たちの間に、気まずい沈黙が流れる。しばらくして、有起哉は口を開いた。
「ちゃんとしなきゃ、って言葉がいつも頭の中に流れて。でも同時に、頭がおかしくなりそうになるんだ。ちゃんと、ちゃんと、ちゃんと。それって僕に本当にできるのかって。あの親から生まれたのに、そうなれるわけないって」
私はいまの発言が、有起哉をつらくさせたのだと思って、急いで謝った。
「ごめん、有起哉にいやな思いをさせた。とりあえず、私はまだ結婚は先だと思ってるし、二人でこうやって、おいしいものを食べて、楽しく暮らせればそれでいいんだから」
「――僕は、いまのところだけど、自分が誰かと家庭を築く自信がない。こうやって、どちらかが重荷になれば関係を解消できる同棲と違って、結婚ってずっと続くものだろう。朋子のご両親は、朋子に幸せな結婚をしてほしいんだと思う。それに、僕は不適格かもしれない」
有起哉の眉根に強い葛藤がにじんで、私はつらくなった。
「有起哉は、私がきっと守るから。だから一緒にいよう」
そう言って彼の頭を抱き寄せようとしたが、有起哉は私の手を振り払った。
「朋子って、すぐなんでも優しさや甘言で解決しようとする。それは朋子の美点だよ? でも僕は安い同情されてるのかな、って思うことが、何度もあった。優しい言葉じゃなくって、もっと現実を見ろよ。あれだけ言ってるのに浪費だって治らないし、だから生きていくのに甘ちゃんだってみなされるんだよ」
一気に言葉を吐き出した有起哉は、ふいと顔をそらして「ごめん、言い過ぎ」と呟いた。
私たちはその晩、気まずい気持ちをかかえたまま、セミダブルベッドの端と端で眠った。
翌朝、目を覚ますと有起哉の姿はベッドにはなかった。出て行ったのか、とあわてたけど、有起哉はキッチンにいた。何かを刻んでいる。考え事を一人でしたいとき、彼は菜を刻む癖がある。邪魔しないように寝室に戻ろうとしたら「朋子?」と声がした。見つけられてしまった。
そうっと彼の背後に歩み寄ると、いい匂いがした。卵とトマトとねぎの中華スープ。これは、私が有起哉に教えたレシピだった。
「ゆうべ、眠れずにずっと考えてた」
有起哉がぽつんと漏らした言葉に、うなずいた。眠れなかったのは私も同じだったけど、それは言う必要がない気がして言わなかった。
「僕の考える『家族』の話、していい?」
「聞きたい」
「血のつながった家族って、僕にはいいものでなかったから、信頼していないんだ。でも、誰かとおいしいものを分け合いたいと思ったとき、きれいなものを一緒に見たいと思ったとき、その人が、その場だけの『家族みたいなもの』にたぶんなっているんだと思う。朋子は、いままで会ってきたなかでそういうのにいちばん近い人」
私は声が出なかった。ただ胸がふさがれて、苦しかった。
「家同士で入籍する『結婚』が、僕にできるかどうかはわからない。でも、朋子が望むのなら、これからも、朋子が食べてきたレシピを教えてほしい。これは、朋子がお母さんから習ったスープって言ってたよね」
「うん。覚えてくれていたんだ」
「一緒に同じ食卓につく、朋子とそういう一瞬一瞬を積み重ねていけたら、そういうきらめきがずっと続かなくてもどこかにあったなら、僕の人生、そう悪くないものだと死ぬときに思えそうな気がするんだ」
「私はね」
口を開いて、有起哉の背中に腕を回した。
「普通の幸せなんてどこにもないって、自分に言い聞かせてた。でも、私は有起哉と一緒に歩きたいな。『家族みたいなもの』でいい」
「もう少しを何度も繰り返しながら、気づいたら人生が済んでいた、っていうのが最高かもね。ねえ朋子、このスープには、付け合わせは何がいいと思う?」
「あ、冷蔵庫に塩鮭があったから、それを焼いてね、それとね……」
二人で朝ごはんを食べよう。それを何回でも繰り返そう。
『家族みたいなもの』で居続けると決めたなら、私たちのつくるごはんは今日もおいしい。
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