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【短編】夜風の匂い 雨の匂い

梅雨が近づくと、私の嗅覚はじめ感覚が、なんとなく鋭くなるような気がする。雨が降り出す気配にも、夜風の香りにも、ふだんより敏感になる。今夜カーテン越しのすこしだけ遠い雨音に交じって、カエルの声が耳をくすぐっていく。

少し熱のこもる体で、私は台所に立ち、麦茶を煮出す。初夏から、私も同居している恋人も、たくさん水分を摂るようになるから、大鍋いっぱいに湯を沸かして、麦茶のパックを入れて十分。じゅうぶん濃い色になったらパックを取り出して、冷ましたら2リットル容器に詰め替えて冷蔵庫に入れる。

私が今着ている体のかたちを隠すような、大きめのボーダーのTシャツは、恋人と暮らし始めたとき、私が実家のタンスから持ち出したものだ。もともとは姉のものだったけど譲ってもらった。姉は先月結婚し、まるく膨らんだ臨月のお腹を幸せそうになでていた。

雨の音は、感覚を鋭くさせるけど、同時にものごとの輪郭をぼんやりもさせる。「みいちゃんも、はよ結婚しいよ」幸せそうな姉の言葉を思い出し、そういえばなんで私は彼と結婚してないんだっけ、と、胸のうちから小さなあぶくが浮かんでくるように思う。あぶくは、すぐにぱちんと消える。

バタバタっと玄関から音がして、ドアの鍵が開く音がした。恋人の気配は、いつもどこか乱雑だ。さっきまで静かだった空気に、あっという間に彼の気配が混ざって溶けて広がっていく。

「ただいまー、今日傘持ってかんかったから、思いっきり降られた」

「タオル、あるよ。洗面所に」

そういいながら、私はそぼろごはんの用意をする。卵のそぼろ、ひき肉のそぼろ、ホウレンソウを刻んだ、三色そぼろごはん。それと、コーンスープ。恋人は幼稚園児みたいなわかりやすい味が好きだ。

彼が部屋に入ってきて、彼から放たれる雨の気配と彼そのものがまき散らす明るい気配が、私を少しずつ浸食していく。この部屋は、もう静かではなくなってしまった。

おままごとみたいな、二人の夕ご飯。おそろいの箸を並べて、同じものを食べて、寄り添って眠って。

「みいちゃんも、はよ結婚しいよ」もういちど、姉の声が聞こえる。そう、はやく、けっこん、しないと、でも、しない、のは、なんでだ。はっと顔を上げたら、そぼろごはんをかきこむ彼と目が遭った。

「どした?」口のはじにそぼろとごはんつぶをくっつけたまま、恋人が問う。私はぼんやり、自分が鋭いんだか鈍いんだかまったくわからなくなって、ふっと思ったままを口に出していた。

「こうちゃんの気配は、荒いから」

「荒い? うるさいってこと?」

もぐもぐ口を動かしながら、恋人は唐突としかいえない私のこんな戯言にも、意外と真面目に答えてくれる。

「みいこは、静かにしてるのが好きなんだよな。それは知ってる。だから、俺みたいながさつな奴がそばにいると、うるさいんだ」

そんなことを言いながらも、彼の瞳はいたずらっ子みたいにこっちをおもしろがって見てくる。

繊細、という言葉は好きじゃない。でも、それ以外、私の体質を言い表せる言葉がない。私は彼と、寝ることができない。一緒に住むことはできる。ごはんをともに食べることもできる。寄り添って、同じベッドで眠れる。だけど、自分のすべてが彼に浸食されてしまいそうで、それ、を試すことができない。――こわいから。こわくてこわくて仕方なくなるから。

恋人――こうちゃんは、一緒に住み始めた当初から、私がとつとつと話すそんな言葉を聞いてくれていた。彼にだっておそらく、私とそうしたいという気持ちがないわけではないはずだ。だけど、私の「こわさ」をよく理解してくれていて、自分が「荒い」とみなされていることも知っていて、何もしないでいてくれている。

だから、私は直観している。――彼が私を、将来をともにするパートナーとして選ぶことはきっとないということを。

浸食がこわい、それすら超えられない私が、彼の両親とか、家族計画とか、子供の教育費とか、老後のお墓問題とか、そんな重たいもろもろを受け入れられるわけがないのだった。

「うるさい俺とはもう一緒にいたくない?」

こうちゃんの目が笑っている。こうちゃんはひどく変わりもので、だから手を出せない恋人ですら、こうして気まぐれにそばに置いてくれているのだけど、私はこのおままごとの日々が、そう遠くない日に崩れる予感を持っていた。だったら、もう、いっそこの手で。

「なんで、こうちゃんは平気なの。私みたいなのと、一緒に暮らして。子供だって、持てないかもしれないのに。だったら、別れ」

「やめな」

こうちゃんは「あー」と言うと、私に向かって手を伸ばした。反射的に、体がびくっとする。

「そんな、今にもひっかきそうな猫みたいに俺のこと見なくっていいって」

「俺、言葉基本的に足りないけど、みいことの暮らしに満足してるよ。みいこがやたらこわいこわいっていうの、俺にはなんでなんだかわからないし、俺に解決できることなんて、たぶんないんだろうけど、みいこを手放す気はない」

「なんにも、できなくても?」

「なんにもできなくてもだよ。――てか、そんなわけないじゃん。メシつくってくれるし、洗濯してくれるし、イラストの仕事でだって多少稼いでくるし。みいこが、人に見えないものまで感じとる体質だから、あんなすっげえ絵が描けるんじゃん」

こうちゃんは、荒い。荒いけど、海よりも深く優しい。だから私は、靴下がぬぎっぱなしであちこちに落ちていても、この人と暮らせるんだと思う。

「おいで、みいこ」

それ、はできなくても、私たちはキスをする。そっとふれあうだけのキス。こうちゃんの少しかさついたくちびるが、私のうすいくちびるをかすめる。

「みいこ、顔赤い。熱あるんだろ」

こうちゃんは、私の額に手をあてて、子供みたいにははっと笑う。また、耳に雨の音が戻ってくる。意識が、鋭くなったり、ぼんやりしたり。

「こわくてもいいよ。てか、こわいものあるのが、人としてふつうだろ」

「こうちゃんにもこわいものあるの」

「うん。おばけがこわい。夜中にトイレいけない」

「うそでしょ」

「ばれた?――じゃあ、本当のこと言う。みいこがいなくなるのが、いちばんこわい」

私は両手で顔を覆う。そんなことをさらりというこの人が、私はばかみたいに大好きなのだ。

こわいものが消えなくても。

ずっとこわかったとしても。

神様、こうちゃんがずっと幸せでありますように。

気づいたら祈っていた。彼の隣にいるのが私でも、いつか別の人に替わっても。私はこうちゃんの幸せを、こめかみが痛くなるほど祈り続ける。

雨音がゆっくりと強くなり、2LDKの私たちの小さなアパートを、そのここちよいリズムで包み込んでいった。


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