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【小説】きれいな物語はどこにもない(下)

ドロップアウトした人間が、もう一度社会のレールに乗るのは、とても難しい。その理由が、自分ではコントロールしがたい病気だとしても。


妹が出て行って二か月が経ち、私は相変わらずバイトの面接に落ち続け、心療内科に通う日々を送っていた。食べ吐きはやめようとしたが収まらず、もっと頻度が高くなり、衝動的になっていた。歯ですりむいた手の甲を口にいれるたび、血の味がした。それでも、私は吐き続けた。私が吐き出したいのは、自分自身の内臓かもしれないし、自分自身そのものかもしれなかった。自分自身を、トイレに流してしまいたいと思った。

終わらない悪夢の中にいるようで、私はもう、どうしていいかわからなくなっていた。心のよりどころにしていたSNSのやりとりも、自分自身の鏡のようで、見るに耐えられず、ずっとログインしないままになっていた。


体重はついに三十キロ台になり、トイレの前で倒れて泣いている私に、母はついに言った。「入院しましょう」と。あの娘は精神病院帰りだよ。そう噂されるのを恐れて、ずっと母が拒んでいた入院だったが、最後に母が親心からかそう言ってくれた。そうして私は、県の山のほうにある精神病院に入ることになった。

病院での生活は、とても単調だった。私は四人部屋にあてがわれ、いつもぶつぶつ独り言をつぶやくおばさんと、うつ病らしい十代の女の子と同じ部屋になった。ベッドの残り一つは空いていた。病院の食事はおいしくなかったが、黙々と食べ、吐きたくなるとナースコールをした。「吐きたい」と訴える私に、看護師さんがそばに落ち着くまでついていてくれた。

ときどき、それでも無償に吐きたくなって、ベッドの上で口の中に指をつっこみ、吐いてしまうこともあった。同室の人たちにもいやな顔はされたが、看護師長さんがやってきて、軽い注意とともに吐いたものを片づけてくれた。薄黄色のカーテンに仕切られた入院部屋は、おばさんのつぶやく声以外はとても静かで、私はうつらうつらしながら、悪夢の終わりを待った。


ある日、病院内を歩き回っていた私は、階段を一歩ずつ松葉杖をついて歩いている高校生くらいの男の子に声をかけられた。


「すみません、そこのドア、開けてもらえますか。両手がふさがってて」


男の子は、片手で松葉杖をあやつり、もう片手はギブスで吊っているという、とても動きづらそうな状態だった。


私が西病棟に続くドアを開けてあげると、男の子はありがとう、と笑った。その笑顔があまり屈託なかったので、つい聞いてしまった。


「それ、事故で怪我したの?」


「ああ。ちょうど頭がおかしくなってたときに、チャリこいでて、車にぶつかったんだ」

頭がおかしくなってた、ということをさらっと言った彼に驚いて、つい口元を押さえた。

「ここ、精神病院だからね。俺みたいなやつ、いっぱい入院してるよ。君は、拒食症かな?」
「……過食嘔吐」
「そっかー、俺の友達も、そうだったよ。結構、つらいんだよねそれ」


つらいんだよねそれ。彼の言葉が、ふわっと胸の中に広がった。軽蔑の目ではたくさん見られたけど、共感してくれた人は、看護師さんの中にもあまりいなかったのでびっくりした。


「ま、世界からずれてる者同士、なかよくやろうよ。よろしくね。握手、は手がふさがってていまできないけど、とにかく、よろしく」


そう言って、目をぎょろっとさせた彼に、思わず笑ってしまった。


「よろしくね」


ぱたぱたと向こうから、私の担当の看護師さんが歩いてくるのが見えて、彼と手を振って別れたあと、こっちにやってきた看護師さんに彼のことを聞いてみた。


「ああ、安田くんね。あの子はだいぶお調子ものだから、あまり乗せられないようにね」
「安田くんの病名は、なんなんですか」
「それはプライバシーだからね、教えられない」

その日はあまり寝付けなかった。世界からずれてる、と私と自分自身のことを言った安田くんのことをずっと考えていた。


私は世界を呪うことばかり、思っているけど、彼からはそんな感じは受けなかった。普通に明るかったし、怪我をしているほかはどこが病気なのか、見た目ですぐわかる私と違って、よくわからなかったからだ。


私がもしも世界からずれているとしたら、じゃあどうやって生きていけばいいのだろう。普通の人と、おんなじようになることを望んでいたけど、それじゃあだめなのだろうか。


さえざえとする頭の中で、暗い病室の天井を見上げながら、私はぼんやり生きるってなんだろう、とずっと考えていた。


つぎに安田くんと会ったのは、病院の売店でだった。こっそり食べ吐き用の菓子パンを仕入れに行った私だったが、安田くんが近くにいたので、本当は5個買いたかったのだけど、恥ずかしくて2個しか買えなかった。チョコデニッシュとカレーパン。会計している私を、安田くんはじっと見ていた。そして「食堂で食べない? 俺も昼飯まだだから」と誘ってきた。


今日は日曜日で給食がない日なので、患者はみんな食堂や家族からの差し入れでその日のごはんをまかなっていた。そのため、食堂は少し人が多く、私はどきどきしたけど、安田くんの手からはもうギブスがとれていた。彼はおにぎりとそばのセットを買って、私の座っている席の真向いに腰かけた。


「俺のこと、急に声かけてくる変な奴って思ってるでしょ」
「そんなことないよ」
「うっそだぁ。顔見たらわかるよ。でも、君は俺のこと、避けないと思ったんだ」
「避ける?」
「たくさんの人に、避けられる。あいつはおかしいって。入院ももう四度目だから、本当にいろいろおかしいのは間違いないんだけどな」
「ふうん」
「君は、治りたくて、入院してるんだよな、普通、そうだよな」
「なかなか治らないけどね」
「それでいいんだよ」


安田くんはぱちんと膝をうった。


「病気でいるのも、その人にとっては自然なことだって、誰も気づいちゃくれないんだ。よってたかって、薬漬けにして、矯正しようとする。正しい枠にはめようとする。病気が治ってめでたしめでたしが、君の物語なのだと、みんな期待する。でもそうじゃないんだよ」


安田くんは熱をこめて話し続ける。


「治らなくても、いいんだよ。病気はちょっとめんどくさい馴染みの友達みたいなもんでさ。だましだましつきあって、つかずはなれず、生かさず殺さずしていれば、ガンみたいにばしっと切っちゃったりしなくていいって。病気と絶交しなくていい。そんなきれいな物語はどこにもない」


安田くんの話ぶりにひきこまれ、気づけば私も自分の話をしていた。


「私、最初はきれいになりたくて、食べ吐きを始めたの。でも、食べ吐きをしている自分はとても醜かった。でも、自分が醜いと実感できることが、私自身の安心だったの。ほら、こんなに醜いでしょう。いろいろまき散らして汚いでしょう。それをみんなに見せつけることで、なぜか安心を得ていたの」


「君は、もっとしゃべったほうがいい。俺みたいに、なんでも口に出したほうがいい。それでたとえおかしいって言われたって、かまわないんだよ。かまっちゃいけないんだ。ぜんぶ言いたいことお腹にためこむから、反動で吐いてしまうんだ。食べ物を吐くんじゃなくて、言葉を吐けばいい。もっと大きい声でしゃべればいい。歌えばいい。泣けばいい」


この人はなんなんだろう。どのカウンセラーにも、お医者さんにも、見抜けなかった私の痛みを、一発で気づいて、指摘してくれたこの人は。


「安田くんって、エスパー?」
「霊感と俺の病気とは紙一重だって言われるよ。でもそういうことじゃないんだ。俺も俺の病気があったから、人の病気のことがよくわかる。だから、こうやって、新しく入院してきた子で、見込ありそうな子がいると、ただでカウンセリングしてんだよ」
「あはは」


思わず口を開けて笑った私を見て、安田くんが言う。


「ほら、笑った。もっと笑いなよ。そのほうが、ずっといいよ」


私の病気。過食嘔吐。どうして食べたら吐いてしまうのか。そこをずっと見ないようにしていた。見て。きたない私を見て。もっと私のことを知って。私の存在に気づいて。病気という行為をとることで、私は世界に信号を送っていた。私はこれからも食べ続けるだろう、吐き続けるだろう。

でも、信号の送り方を、ちょっとアレンジしてみるかもしれない。泣いてみたり、笑ってみたり、叫んでみたり、手紙を書いたり。びんにつめて流された手紙が、やがてどこかの浜辺に着くように、私の思いも、誰かが拾ってくれる、そんな日がくるかもしれない。神様なんていないと思っていたけど、今私の目の前にいる、不思議な人がそばをする姿を見ながら、私は久しぶりに気持ちが安らぐのを感じていた。

(了)

#小説



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