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【短編】春に発つ

窓を開けると、春風に乗って汐の匂いが私の部屋にまでなだれこんでくる。朝起きて最初にする部屋の換気は、もういない祖母から受け継いだ習慣だった。午前八時。白くまぶしい朝日に照らされた海が、二階の私の部屋から見渡せた。この景色を見るのも、今日で最後だと思うと、胸がきゅうとした。

階段を下りると、エプロンをつけた母が朝食を居間のちゃぶ台に並べているところだった。白ご飯に、味付け海苔と、目玉焼きに、ハムサラダ、お味噌汁。なんてことのない母のつくる朝ご飯も、今日が最後だ。

私は十八歳。高校を卒業したので、生まれたときから住んでいた小さな島を出て、本土のほうの町役場に四月から勤務することになっている。引っ越し準備もすませて、今日の午後にはフェリーで本土の町に行き、本土の町の住民となる予定だ。

だから、この島での暮らしは今日が最後。町に行くことを決めたのは自分だけれど、実際この日が来てみると、とても寂しかった。

「美朝(みあさ)、ご飯食べたら、神社に挨拶に行っておいで。島の神様のご加護があるように」
「はぁい」

私は正座してちゃぶ台の前に座り、母の味噌汁をすすった。アオサとお豆腐のお味噌汁。島でとれたアオサも、しばらく食べることはないかもしれない。町役場は山沿いだから、海藻なんてスーパーにも売っていないかも。そう思うと、食べるのが惜しくなって、少しずつすすった。

「母さんから、もっとちゃんと料理習っておけばよかった。ずーっと、卵かけごはんと納豆ごはんの繰り返しを食べるようになるかも」

そう言った私に、母は笑った。

「もう十八歳なんやから、あまり情けないこと言わんといて。向こうのスーパーはこの島よりはずっと都会だろうから、お惣菜だって何種類もあるやろね。ごはんを炊いて、味噌汁だって今はレトルトがあるんやから。大丈夫」

朝食を食べ終え、がらんとした自室に戻ると、私は本土の部屋に段ボールで送らずとっておいた服に着替え、洗面所で髪をとかした。顔も洗って、慣れない化粧をした。台所で食器を洗っている母に声をかける。

「父さんは?」
「庭で植木に水やり」

私は廊下を伝って奥座敷へと向かい、奥座敷の縁側に面した庭で作業着姿の父が立っているのを見て、声をかける。
「父さん。――私、これから住吉神社に、って、梅咲いてるね」
「おお」

タオルを首にかけた父が振り返る。「そうなんや」と言って二人で花をつけた梅の木を見あげた。

「今年もよう花をつけとる。この梅は、お前が生まれた年に植えたものだが、十八年もするとこんなに見事になるもんなんやなあ」

白梅が枝で咲き誇るのを見ると、春の到来を感じた。だけど今日から、私はこの梅のある家にはいなくなる。

「今からお宮さん行って、お昼前のフェリーで、本土に行くから」
「そうか、そうか。達者でやれよ」

普段からあまり喋らない父の、はなむけの言葉を胸に、私はしばらく梅を眺めたあと、外に出る準備をした。

暖冬のせいか、この三月は例年になく気温が高い。うらうらとした日差しの中、近所の住吉神社まで歩いた。海の神様を祀ってあるこの神社は、私が子どものころから、ことあるごとに、家族で参拝してきた神社だった。

石造りの鳥居をくぐり、手水舎で手を口を清めて、本殿の前でお参りした。

(かみさま、今日でこの島を出ます。今まで見守ってくださりありがとうございました。今後とも、どうぞお守りください)


信心深い島民がこの島には多い。島民の中の若い男性はほとんどが漁師だが、みんな夏の大祭りのときだけでなく、この神社には足しげくお参りにきて、大漁を祈念したり、船の無事を祈ったりする。


二礼二拍手一礼をすませ、私がくるりと本殿に背を向けたとき、今鳥居をくぐろうとしていた人物と目が合い、お互いに「あ」と言った。

大きなお腹をしてそこに立っていたのは、小学校の同級生の、畑野藍加だった。


「あ、もしかして、濱田美朝ちゃん?」
「畑野さん、久しぶりだね。――お腹、もしかして」
「うん、安産祈願に。もうすぐ臨月なの」


畑野藍加のことはよく覚えていた。学年で一、二を争う美少女だった藍加は、同級生の何人もの男子生徒の彼女として、中学時代に男を渡り歩いたあと、私自身も憧れていた生徒会長の中谷地佑(なかやち たすく)と結婚したと噂で聞いていた。

中谷地先輩は、現在島の青年会議所で仕事をしているはずで、まだ彼氏の一人もこの島でいたことのなかった私としては、藍加が人生のコマを進めるのが非常に速いことに、単純に感嘆さえした。


「美朝ちゃんも、お宮さんに来たの?」
「うん、私は本土の町役場に就職が決まったから、今日家を出るの。それでお参りに」

「へえ、そうなんだ。美朝ちゃん、頭よかったもんね。すごいな」

すごいなと言いつつも、大きな腹に手を添えた藍加は、とても幸せそうに見えて、全然実は私のことなんて本気で羨ましがったりしてないようだった。

そりゃあ、私だって、この島にいたかったけれど。母や父と、この島で年をとっていきたかったけれど。

島には本当に仕事が少ない。選ぼうとしなければ、もちろん女性のできる仕事で、水産加工業のパートや、島の診療所の受付、旅館の布団敷きや配膳などがあることはハローワークで知っていた。

だけど、父も母も『本土に行けば、いろいろな仕事がある。美朝がこの島で一生を過ごすのはもったいない。島の外にいけば、良い結婚相手も見つかる」と、島を出ることを勧めた。

それで、高校時代に公務員試験を受けて、本土の町役場の職員に無事に合格した。とりえのない私だけど、勉強だけはそこそこできたから、これでいいと思った。

だけど、島を出ていくこの日に、幸せそうな藍加の姿を見て、中谷地先輩の子をこれから産む藍加を見て、ちょっとだけ「私も島に残ればよかったかも」と思ってしまった。藍加が人生を着々と固めているのを見て、逆に自分は何ももっていなくて心許ないような気分にさえなる。


藍加がふっと私を見て言った。


「美朝ちゃん、この島のこと忘れないでね」
「なんで。忘れないよ」


「若い子はみんな、島から出ていっちゃうから。仕事もない、男もいない、って。でも、みんなこの島を嫌いで出ていくんじゃないと思うの。ここはこんなにきれいで、魚も美味しくて、いいとこなんだから。佑くんがね、言うの。この島を、島民から見捨てられない島にしたい、って。この子がこれから生きてく場所なんだから、って」


「見捨てたりなんか、してないよ」

私はちょっと語気を荒げた。でもほんとうは図星で、ぐさりときたのかもしれなかった。


「ごめん、へんなこと言って」

と藍加は目を伏せた。


「美朝ちゃん、就職おめでとう。本当はそれだけ言いたかったの。じゃあね」

藍加はそう言うと、私の隣をすり抜けて、本殿のほうへと歩いて行った。

藍加と別れて、家に戻ったあと、荷物をまとめてフェリーに乗る準備をした。母がおにぎりを握ってくれて、紙で包んで渡してくれた。父の車に、母と三人で乗り込み、港を目指す。歩いて行けると言ったのに、送ってくれた。


港に着くと、むせかえるように潮風が身を包んだ。フェリー乗り場の反対側の堤防には、大漁旗をかかげた白い漁船が列になって並んでいる。

フェリーが着くまで、待合室のベンチで三人並んで座る。両隣の両親の髪にも白いものが混じり始めているのを見て、また思ったより二人の姿が小さく見えて、胸がつまった。

窓の向こうに、高速船のフェリーの小さな姿が、確認できた。エンジン音も近づいてくる。――そろそろ、両親ともこの島ともお別れだ。

フェリーに乗り込むときになって、母と父が口々に声をかけてくれた。

「美朝、しっかりね」
「いつでも、困ったことがあったら電話しろ」

泣くまいと思っていたのに、私は感情をせきとめられず、涙が頬を伝った。心細さに押しつぶされそうだ。

何度も振り返って別れを惜しみ、船が岸を離れてからも、港に立つ父と母の姿が小さくなって見えなくなるまで、デッキに立って手を振り続けた。

たぶんショックだったのだ。藍加に「島を見捨てた」と言われたことが。
ふいに、大人にならなければ、と強く思った。たぶん私は、島のために、家族のために、今の自分では何ひとつできることがないのが、嫌なのだった。

藍加のように島で結婚して子供を産むことも、両親のそばで働いて暮らすことも、私は選べなかった。――いや、選ばなかったのだ。自分の意思で、島の外に出るのだから、社会人になるのだから、もっと強くならなくては。

その先に、たぶん、大好きな島のために、できることを見つけられるのだろう。

しぶきを立てる波間を見ながら、おにぎりの包みを開けた。海苔を巻いた丸いおにぎりにかぶりつくと、強い塩気を感じた。頬に流れる涙が、口に入って、なお塩からい。

私は母の味をかみしめながら、藍加の赤ちゃんが、無事に元気に生まれますように、と波間に祈る。今日藍加に出会えてよかったよ、そう思いつつ、住吉の神様のとりはからいかな、と思って、光る春の空を見上げた。

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