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【小説】夜風の酔い覚まし

暮れなずむ空は、電線で斜めに切り分けられていた。小鳥の群れが、その電線から道路を挟んで反対側の電線へ、順々に踊るように飛び移る。イワシ雲が、夕映えの空いちめんに広がり、夏が終わったことを私に告げていた。

きれいすぎる夕空に、ちょっとおセンチな気分だな、と思ってから、その言い回し古い、と自分でつっこんだ。


「ギリギリまだビアガーデンやってるみたいだから、行こうよ! いつものメンバーで」


大学の友人の咲良からメールが入ったのはついこの間だった。社会人になって二年目の私は、大学時代のサークル仲間とまだつながりがあり、ときどき飲みの誘いがきた。


「今回のメンバー、誰?」

咲良に聞くと、秒で返事が返って来る。


「まみっちと、美玖ちゃん。男子は、要平と、田崎と、あ、そうそう珍しく恭輔来るって」


恭輔、の文字に、心がぐらんと揺れた。


「そっか、わかった。楽しもう」

そう返したのがおとといで、私はその夜も昨日も、上手く寝付けなかった。

恭輔――坂田恭輔は、私たちが所属していた、歴史研究サークルの中で、幽霊部員に近い男だった。貴族のようなといったらいいか、公家顔といったらいいか、とにかくひなまつりのお内裏様を思わせる風貌と、それに反して鋭い舌鋒を持つ、とても頭の切れる男だ。


――私は、大学三年のときに、一度、彼のアパートに泊まった過去があった。そのことは恐らく、誰にも言ってないから、咲良もまみっちも、美玖ちゃんも知らない。男子はどうだかわからないが、恭輔が、自分からそういうことを周りに言うタイプには見えなかった。


私の一目ぼれだったのだ。それで、こっそり部室で二人きりになった隙を見計らって「恭輔に彼女いるん?」と聞いた。恭輔は「なに、お前俺のこと好きなん」と聞いてきた。なにもかも見透かしている視線が私をつらぬいた。

恭輔は「このまま、飲み行くか、二人で」と言い、二人で山手線で新橋まで出ていって、さびれたガード下の居酒屋で飲んだ。酒に弱い私はすぐにへべれけになり、気が付いたら恭輔の小さなアパートの一室に、二人でもつれこんでいた。だが。


「俺、酔っ払いとやる気しねえ」

恭輔はそう言って、せんべい布団に寝ている私をほっといて、がりがりレポートを書いていた。翌朝、我に返った私は、二日酔いに痛む頭を抱えながら、逃げるように彼のアパートをあとにした。


キスもされなかった。手を出されもしなかった。当然、彼女になってくれとかそういう話もなかった。そういう中途半端な扱いを受けて、私はどうしていいかわからなくなり、部室に彼がそのあと来ても、話しかけることすらできなくなった。その後、卒業して、私は恭輔がどうなったか知ることはなくなった。社会人になって、忙しくなって、「好き」と心にひっかかる人すら、できなくなっていた。


恭輔が「いつメン」――いつものメンバーに混ざるなんて、いままで一回もなかったことだった。いったい、なんなんだろう。そして私は、ビアガーデン飲み会の当日、会場となるビルのトイレで、いつもの三倍の時間をかけて、入念に化粧を直した。

ビル屋上に設営されたビアガーデンの会場は、多くの赤ら顔をしたサラリーマンでいっぱいだった。


「おーい、深夏、こっちこっち!」

咲良が細い二の腕を振って、私を呼ぶのが見えた。駆け寄って、空いた席に座る。まみっちも、美玖ちゃんも、要平も田崎もすでに来ていた。恭輔の姿だけが、見えなかった。


ドキドキしながらも、恭輔がいないことには触れず、まみっちや田崎と、「久しぶり」という会話を交わした。


「ねーなんで恭輔来るの、今日」

美玖ちゃんがいきなり私の聞きたかった核心を、咲良に向かって尋ねたので心臓がはねた。


「わかんない。みんなに報告があるって」

報告? と思ったとたん、ぬっと美玖ちゃんの背後から現れた人影があった。恭輔だった。会うのは何年ぶりになるだろう。相変わらず、夏が終わっていても、日焼けのひとつもしていない色白の顔だった。


「なんだ、まだはじめてなかったのかよ。遅れるから先はじめといて、ってメール見てねえのかよ、咲良」


恭輔がずけずけと咲良に言い、咲良は「はいはい」といなしていた。


「恭輔、久しぶり。いま何やってんのー」


まみっちが大声で聞くと、恭輔はぽりぽりと頭をかいて、


「あー、大学で、研究助手みたいなもん、やってる。まだ院生しながら」
「へえ、かっこいい」

とりあえず飲も飲も、と要平が、みんなにメニューを回し、タコスやからあげ、フライドポテトやシーザーサラダなどを頼んだあと、生ビールのジョッキが運ばれてきた。


「再会を祝して、かんぱーい」

みんなの声が重なる。私はさっきから、ちらちらと恭輔に視線を投げるが、彼はこちらを見ようともしない。


「ねー、恭輔、報告あるって聞いたけどなんなん?」

恭輔は、ジョッキをぐっとあおると、少しためらうようにして言った。

「あー……実は、付き合ってる女に、ガキができちゃって。入籍することになった。式とかはする気ねえって言ったら、要平と田島が、サプライズでビアガーデンパーティしてやるっていうから、出てきた」

目の前がぐらんぐらんとまた揺れた。妊娠。入籍。頭がついていかない。ひとつだけわかるのは、私はこの席に呼ばれるべきじゃなかったってことだ。

そのままみんなの会話に入れず、気づいたら、弱いくせにビールジョッキが空になっていた。要平が、「はい深夏さんに、二杯目!」と叫ぶのが、朦朧とする頭の隅で聞こえた。


馬鹿みたい。なんもかも、ぜんぶ馬鹿みたいだった。


「ちょっと、深夏、ペース早くない?」

美玖ちゃんが心配そうに声を掛ける頃には、私はすっかりできあがってしまっていて、目がすわっているのが自分でもわかった。

さっきは、視線を外してばかりいた恭輔が、こちらを時折窺っている。じっとにらむと、目をそらす。

誰も私と恭輔との間にあったことなんて知らない、でもやっぱりあいつは、恭輔は冷血だ。この席に私が来ることをたぶん知ってて、あんな報告ができるなんて。サイテイのサイテイ男だ。


「あんたは幸せかもしれないですけどねーえ、人のキモチも考えてみろっつってんのひょ」

呂律が回らない言葉で、何事かを喋り、愚痴り、挙句の果てに噛んだ。


「なに、どうしたん、深夏。って、えっ、ちょっと!」

バッシャ―ン、と激しい音が響いた。私は、ジョッキに入ったビールを、恭輔の頭上から、気付いたら彼に浴びせていたのだった。恭輔は、目をまんまるにしてこっちを見たが、すぐに腹を抱えて大笑いしはじめた。


「おめー、やっぱりおもしろい女だな」


周りがざわつきはじめ、美玖ちゃんや田崎が、おろおろしている。


「おかえし」

恭輔はそう言うと、グラスに入った水を私にひっかけた。


「何すんのよ!」


「お前、ちょっと席はずしたほういいよ、俺たち怒られちゃう。要平、俺ら二人の会計はこれで。俺、ちょっとこいつと、酔い覚ましいってくるわ」


「えっ、えーっ、どういうこと、それ」


気付いたら私は、恭輔に片手をとられて、ビルの階下へと、エレベーターで降りていた。少し冷たい夜風が、私たちを包んだ。


途端、気分が悪くなって、私は路上に嘔吐した。


「バッカだな~、ほんと、お前、おもしれー」

なんでこんなことになっているのか、わからない。ずっと好きだったはずの男と、一緒にいるのに、今夜の私は、あまりにもかっこ悪い。

さんざん胃の中のものを吐き終わり、涙にぬれた顔をあげると、恭輔は、私の手をひくと、夜の公園の門をくぐった。ベンチに私を坐らせると、自販機でミネラルウォーターを買ってきてくれた。


「今日、お前も呼ばれてんの、知らなくて。悪かったな。今夜も。――あのときも」

泊まった日のこと、恭輔も覚えていたのだ。そう気づくと、じわっと涙があふれてきた。


「あんたが好き」


ぽろっと口がすべって、あの日言い損ねた想いをぶつけてしまった。そんなこと言っても、もうどこにも届かない。恭輔は私の知らない女と、これから幸せになる。赤ちゃん付きで。


「何回でも言え。――聞いてやれるんは、今だけやし」

「好き、好き。――好き。……っう」

恭輔はブランコをぶんぶんとなりで漕ぎながら、私が言うだけ言うにまかせていた。

こうこうと照る秋の月が、雲にかくれては、また現れ、私たちに光を投げていた。

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