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【小説】きれいな物語はどこにもない(上)

平日の心療内科は人が少なく、私は待合室のソファに腰かけて、すぐそばのラックに置いてある料理の雑誌を見るともなしに見ていた。ぱらぱらとページをめくると、にんじん特集をやっていて、キャロットケーキの写真が目に入った。普通の子なら「おいしそうつくりたい」とか「食べたいけどつくるのがちょっと面倒だな」とかそんなことを思うのだろうか。私は、食べ物との正常な関わりかたを忘れてしまった。拒食症と過食症を繰り返して、もう八年になる。


食べ吐きを最初に覚えたのは、高校生の頃だった。その頃私は、どうにかして痩せたいと、その思いで頭をいっぱいにしていた。クラスの中でも、お世辞にも痩せたほうでなかった私は、クラスの中ではいじめられることが多かった。こんなみじめな自分、変えたい。そう思っていた中、クラスでモデルみたいにきれいな子の噂を聞いた。


(みっこ、すごい細いよねー)
(ああ、あれ? 食べても吐いてるんでしょ。本人自慢げに言ってたわ)
(それでまじであんな痩せられるんなら、私もやろっかな)
(だめだめ、あんたには。無理無理)
(だよね、ちょっと病的だよね、あれは痛いよね)


食べても吐けば痩せられるんだ。あの子みたく、きれいになれるんだ。病的だとか、痛いとかいう言葉は、ぜんぜん耳に入っていなかった。そうして、私は、高校時代から、母のつくってくれた夕飯を食べた後、すべてをトイレで吐き戻す、そんな日々をはじめていた。


最初はうまく吐けなかったけど、だんだんこつがわかってきた。喉の奥に指をつっこみ、吐き戻すのだが、しばらくすると、私の手の甲には「吐きだこ」というものができた。口の中に手を入れて吐き戻すとき、どうしても、上の歯に手の甲があたって傷がつくことから、できるものだった。母は最初「何その怪我」と眉をひそめた。


最初はおなかがすいて眠れなかったが、徐々に慣れ、私はどんどん痩せていった。痩せるのがうれしくて、食べ吐きがやめられなくなった。でも、痩せてはいっても、まったく健康的に私は見えなかったらしい。クラスでは、聞えよがしの悪口が耳に入った。


(あいつ、まじやばいよね。クスリでもやってんじゃん)
(自分の顔と身体、ちゃんと鏡で見てるのかな? おかしいよね)


あれれどうして私はかわいいはずなのにみんなそんなこというのへんでしょだいたい20キロもやせたんだからなにか見返りあっていいはずなんだよねほらほら私を仲間にいれてよどうしてみんな私のこと避けるの?


ある日保健室の先生から呼び出され、吐きだこを見つけられて、私の過食嘔吐は家族にばれた。手料理に自信のあった母は、自分のつくったものがすべて吐いて捨てられていたと知り、嘆き、怒り、泣き崩れた。


父は私を病院にひっぱっていった。県内に摂食障害も見てくれる心療内科があると聞きつけ、私は冒頭のクリニックの患者となった。入院も二度したし、薬での治療もおこなった。あっという間に八年の月日が経ったが、いまだ食べることへの消えない罪悪感がある。


名前を呼ばれて診察室に通された。白衣の先生が、カルテを見ながら私に話しかける。


「最近の調子は、どうですか」
「今週は、二回また吐いてしまいました。食べた後吐いても、吐かずにいても、どちらにしても苦しいです」
「アルバイトを探すと言っていたのはどうなりましたか」
「いろいろ受けて、全部落ちました」


高校卒業のあとは、フリーターになってバイトをしていたが、体調をすぐ崩しやすい私は、よく首になっていた。いまでは見た目も、自分ではそうとは感じなくても「病的」らしく、面接でよく「ほんとに健康なんですか」と顔をしかめられる。それで最近は、ほぼ家にひきこもっている毎日が一年ほど続いていた。


診療は5分ほどで済み、隣の薬局で薬をもらうと、私はクリニックをあとにした。バスと徒歩で、家まで帰らねばならなかった。治療をはじめて、もうだいぶたつのに、一向によくならず、私はときどき自分がこのまま治ることもなく一生を過ごすのかと思うと、暗澹たる気持ちになることがあった。


家に帰って、自分の部屋で着替えをし、私はパソコンを立ち上げた。何かメッセージが届いていないか見るためだ。とある有名SNSで、私はメンタル持ちの人の集まるグループに入って、そこにいる人たちと交流する、それだけが唯一の楽しみとなっていた。案の定、「スミレ」さんからまたメッセージが届いていた。


「こんにちはースミレです。今日も眠剤飲んだけどぜんぜん寝れなかったよ。不眠症まじさいあく。今日はこれから、借りてきたDVD見て、ゆっくりします。ちづるちゃんは?」


ちづるというのは私のハンドルネームだった。私もすぐに返信する。


「今日は病院だったんだけど、いつもと特に変わらず。食べ吐きしたい衝動に駆られてるよ。ママに隠れて、こっそりやっちゃおうかな」


グループの人たちは、それぞれの病気で働いてない人やバイトのがほとんどで、同じぬるま湯につかりながら、お互いの傷をなめあえている感じがしていた。


ほかに誰からもメールが来てないのを確認すると、私はクローゼットの扉を開けて、洋服ダンスに隠してあったコンビニの袋を取り出した。中には、ぎっしりと菓子パンや袋菓子が入っている。いったん取り出すと、袋を開けずにはいられなかった。メロンパンをかじり、ポテトチップスの袋を開け、次々と口内に放り込む。一緒に買ってあったオレンジジュースで、喉に流し込む。結局、菓子パン3つと、菓子袋2つが腹の中に納まった。


ベッドでしばらくぼんやりしながら、もうこんな自分、生きてて意味なんてあるのかな、と思った。SNSで出来た友達の中では、希死念慮の強い子もいて、リストカット痕の写真もたくさん見たこともある。自分は痛いのは厭だったから、身体に傷をつける勇気はなかったし、これからもないけど、食べ吐きも自傷のうちだと言われたら、うなずかざるを得ないだろう。


吐きたい衝動は、いつだって突然やってきて、私は食べ物を腹につめこんでからそう多くの時間もたたないうちに、今度はトイレにこもっている。喉 の奥に指を入れる。えづく。えづく。えづく。さっきまで食べ物だったものが、どろどろの吐しゃ物になって、便器の中に落ちていく。とても苦しい。だけど、とても気持ちいい。ざまあみろ。ざまあみろ。自分に向かって言ってるのか、世界に向かって言ってるのか、もうそれはわからないのだけど、私は胸のうちでざまあみろと繰り返す。


大きく息をつきながら、便器の前に座り込んで、肩を揺らしていると、がちゃっとドアが開く音がして、妹の声がした。


「お姉ちゃん、またやったの」


その声は冷え冷えとしていた。


「吐いた後、ちゃんといつも片づけてないでしょう。たまに飛び散ってるよ。母さんも、父さんも、困ってる」


肩で息をつきながら、ごめんと小さい声で言った。


「私、家出て行くから」
「え?」


妹の突然の言葉に、私は思わずよだれを口元につけたまま振り返った。


「就職決まって、県外の寮に引っ越すの。お姉ちゃんも、早く大人になってよね」


そう言い捨てて立ち去る妹の背中を、私はただ見送るしかできなかった。

(下に続く)

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