【短編】兄の婚約
兄が婚約者だという人を、実家に連れてきたのは、炎暑のさなかのことだった。ことのはじまりは、一週間前、兄から電話が母へとかかってきたのだった。妹の私は、風呂上りに棒アイスを食べながら、事の次第に聞き耳をたてていた。
「え、7月の三連休に帰って来る?……結婚したい子を連れて?」
私たちの実家がある北陸の小さな町から、兄は大学進学と同時に上京し、そのまま東京で就職した。IT企業のエンジニアとなって。電子機器やパソコンの仕組みばかりに興味があり、髪はいつもぼさぼさで、朴念仁の兄に、まさかそういう人ができたとは。
「どんな子かしら」と、嬉し気でもあり不安げでもある母のとなりで、私は食べ終わったアイスの袋と棒をゴミ箱に放り込み、バスタオルで頭を拭いた。
……結婚、私のほうが先だと思ってたんだけどな。人知れずそう呟いてみる。
兄は35歳、私は31歳。4つ上だけど、あの人に兄貴らしい頼もしさや強気など感じたことがなかった。いつも、ゲームやパソコン関係の雑誌ばかりをめくって、ぼーっとしていた兄だった。中学生のときも、高校生のときも。そういう兄にふがいなさを感じ、「お兄ちゃんって憧れる」と同級生に言われたときも「え、どこが。あんたにあげるよ」と憎まれ口しか言わなかった。
私はといえば、4年つきあって結婚寸前までいった彼氏に「季理子は気が強すぎて、一緒にいるとしんどい」と、この春に別れを言い渡されたところで、なんとなくあの兄貴が幸せを先に摑むのは面白くない、とそう思った。こういうとき素直に喜べずこういうことを思うようなところが、きっと元彼にも嫌な女として伝わったというのはわかるのだけれども。
一度も妹の私に、兄らしいところを見せたことのないあの男が、婚約者の前ではちゃんと頼もしいひとをやっているのだろうか。そう思いながら、一週間を過ごし、ついに兄が帰ってくる日を迎えた。
朝から蝉が鳴きに鳴いているのを聞きながら、私は母と一緒に客間である和室を掃除した。父は読みかけの新聞を居間に置いて、少し緊張した面持ちで、客間の上座へと座る。
「ねえ、希理子も同席してよ。お父さん無口だし、お母さんが会話に詰まったら、助けて」
母にそう言われ、私はふてくされたふりをしながら「まあいいけど」と言った。本当はちょっと好奇心を持て余していた。
冷たいお茶とお菓子の準備が整ったところで、玄関から呼び鈴が鳴った。
「はあい」と、母が玄関へと走って行って兄たちを迎える。私は居心地が悪くて、客間の前をうろうろしていると、父が「季里子も座れ」と言ったので、客間の座布団のひとつに座った。
廊下を歩く足音がして、兄は現れた。その後ろには、こざっぱりとしたショートカットの小柄な女性がついてきていた。
「父さん、母さん、希理子、ただいま。突然帰ってきてごめん。紹介しようと思うんだ、結婚したい人を」
兄は、着席する前からそう言った。相変わらずの落ち着きのなさ、場の空気の読めなさだ、と思い、私は溜息をついた。
「まあ座れ」
父の声で、二人は父の向かい側の座布団に正座して座った。兄が、隣の彼女を紹介する。
「この人が、木村由紀さん。僕と同じ会社で、経理事務をしているんだ。二年前から、付き合っている。実家は東京の板橋区の和菓子屋さんで」
「木村由紀と申します。忠弘さんとは、良いお付き合いをさせていただいています」
彼女は深々と頭を下げた。なんというそつの無さ。身なりもきれいだし、美人の部類に入るだろう。どうしてこんな東京のお嬢さんが、兄なんかを気にいったのだろうか。
父も、母も、木村さんのあまりの「よくできたお嬢さん」ぶりに、すっかり相好を崩している。
「この炎天下、こちらまで来るのは厚かったでしょう。希理子、お茶だして」
「でも東京のビル街に比べれば、こっちは体感温度が比較的低い感じで」
木村さんは上品な笑みを浮かべて、私がつっけんどんに出したお茶を、美味しそうにすすった。きれいに塗られたネイル、品の良い口紅の色、きれいでつやのある髪。彼女を見ていると、どうにも自分が劣っているように思えて、なんだかしんどい。
兄が、あのぼうっとするだけで取り柄のなかった兄が、どうしてこんな綺麗なひとと結婚できるのだろう。
「それで、結婚式はいつにするの?」
浮き浮きした調子の母の声に、なんだか居所をなくして、私は「ちょっと失礼します」と客間を出た。客間の中では気付かなかった蝉の声が、廊下に出るといっせいに降ってきて、ちょっとたじろいだ。
木村さんは、ひねくれたところなどなく、とても素直そうに見えた。結局、ああいう「私虫も殺せません」っていう純粋ぶった女が、みんな美味しいところは持っていくのかな、と、いらいらしながら思った。
どうせ私は可愛げがない。毒舌家で意地悪な私には最後まで見えなかった兄の良さが、きっと彼女にはわかるのだろう。そう思うと、自分がひどく何か大切なものに負けた気がして、つらかった。
小さい頃、私から手を伸ばしても、あの兄は、一度もこっちに手を伸ばしかえしてはくれなかった。漫画やドラマの中の「お兄ちゃん」は、いつも妹に優しくて、いざとなったらちゃんと守ってくれているのに。そう思ってばかりの、中高生時代だった。
「兄貴のばーか」
小さく声に出すと、私は真夏の庭に出る。そのままホースを持って、母の育てている庭木に、水を撒き始めた。
「木村さんのばーか」
きっと、木村さんが、兄貴をちゃんと「男」にしたのかな。そうも思ってみた。手練手管で……いや、ちがう、あのまっすぐな素直さで。私は、妹だったけど、結局兄貴を「兄」にはできなかったのだ、私が。
玄関に戻り、濡れたサンダルから足をぬきとり、タオルで拭いていると、ふいに客間のほうから兄貴が歩いてきた。後ろに木村さんはいない。まだ客間なのか。
「季里子」
兄は、私を見ると、いつも少し視線が一瞬泳ぐ。どう声をかけていいのかきっとわからないのだ、と思うと、なんだか自分が情けなくなったが、兄は一息に口に出した。
「母さんからこないだ電話で聞いた」
「何を」
「春に、希理子の結婚、だめになったって」
思いがけない言葉に、驚いた。兄が、私の交際関係に言及するのは、はじめてのことだったからだ。
兄は、一言ひとこと、気遣うように、言葉を選ぶように、話しかけてきた。
「気が強すぎてしんどい、だなんて、そいつひどいな。小さい頃から、希理子はたしかに強いやつだったけど、なんつーか、その言い方はないよな。……こんなセリフ、俺がいえたことじゃないけど……とにかく、先に結婚してごめん!季里子がまだつらいときに」
私は心底びっくりして、口をぽかんと開けた。兄は、こういう奴じゃなかったはずだ。いつも、私が傷ついていても、全然気づかずに、ゲーム雑誌ばかり見ている男だったはずだ。
「由紀がさ」
兄は話しつづける。
「言葉にしなきゃ、わかんないよっていつも言うんだ。俺、由紀から見ると、なんにも言わない奴だったらしくて。もうちょっと、他人の気持ちを察して動いて、ってしょっちゅう怒られてる。だから、今回の結婚も、ただ嬉しく報告するだけじゃなくて、ちゃんと妹の気持ちを気遣えって」
私は、さっき客間で見た、落ち着いた笑顔の木村さんの顔を思い出していた。ああ、あの人がやっぱり、兄をしっかりさせたのだと。そして、私たち家族から兄を持っていくかわりに、私たちに本来の「兄」をプレゼントし返してくれたのだと。そう思った。
「なんつーかその、まだつらいのに、申し訳ないけど、俺たちの式に、希理子も出席してほしいんだ。……いいかな?」
妹の私にさえ、ちょっとびくつきながら、話をする、本当は穏やかで優しい兄貴。そのいいところを、木村さんは、きっと引き出してくれたのだ。
「まあ、出席してやるよ。『妹』として『兄』の結婚式にさ。で、日取りいつ?」
兄が、ほっとしたように笑顔を見せたので、こっちもにっと歯を見せて笑った。そのまま兄の背中を、平手でどんっと叩いた。
「幸せにしてやれよー、由紀さんのこと」
「いってーな。わかってんよ」
蝉の声が、また一層大きくなったような気がした。玄関のガラス戸を通して、おもてが陽炎が立つほど暑いのが、伝わって来る。私は客間に駆け戻ると、父と母に対して「ねえねえ、今日は、上握りの寿司桶とろうよー!」と大声で言った。
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