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【小説】君を待つあかり(下)

「はい、これ。食べて食べて」

実家から大学のある街へ戻ってきた僕は、開店前の時間にバイト先の書店の奥の事務室で、店長と真菜佳、あとほかのバイトスタッフにりんごパイの箱を一つずつ配った。店長は奥さんと食べることにするよと喜び、真菜佳は少し笑って、
「笹谷さんって気の利くお母さんみたいですね」
と言った。

「それって、ほめ言葉かよ」
「ありがとうございまーす、今夜の夕ご飯にします」

菓子を夕飯にするほど、金がないのかよ、と思った僕は思わず店長に聞こえないよう小声で言っていた。
「今夜も一緒にメシ、どう?」

真菜佳がオッケーサインを指でつくる。僕はほっとして、きびすを返し、新刊書がつまったダンボールの梱包を解く作業にとりかかった。真菜佳も背中を向けて、レジの準備をしに店内と戻っていった。

新刊書を並べる作業はかなりの体力勝負だが、ミステリ小説や漫画が好きな僕としては、新しい新刊を自分が一番に目に出来るのはうれしく、この仕事が好きだった。そんなことを以前クラスメイトに言うと、「笹谷くんは教員向きだね、物事をなんでも前向きにとらえて」と笑われた。彼にとっては、肉体労働が多くて実入りが少ない書店バイトなんて、やる気がおきないそうだ。

床に積まれたダンボールから、ちょっと視線を上げてレジの前に立つ真菜佳を見ると、真剣な顔で帳簿を見ていた。真菜佳は、レジ打ちがとても速い。間違いもあまりない。真菜佳はどうしてここでアルバイトをすることにしたんだろう。そう思って、僕は額の汗を拭いた。

仕事上がり、自転車を押す僕の隣を、真菜佳が歩く。今日は、薄青い色のすその長いシャツに、七分丈のワークパンツを履いて、相変わらず素っ気無い格好だけど、僕はいいなと思った。

「初野さんはさ、なんでこのバイト応募したの? やっぱり本が好きだから?」
真菜佳は少し考えてから言う。

「なんでかな。理由なんてとくにないです。たまたま本屋の前を通りかかったら、求人募集されてて。応募したらすぐ受かったから、入りました」
僕たちはぽつぽつと話しながら夜の街を歩き、24時間営業のファミレスで夕飯を食べた。真菜佳はデミグラスソースのかかったオムライス、僕はチキンカツ定食を頼んだ。

「今日も家に帰らないで、ネカフェ行くの?」
「そーですね」
「俺も行っていい?」

そう聞くと、真菜佳はびっくりしたような顔を一瞬したけれど、すぐに返事が返ってきた。
「じゃあ、カラオケ付のところで、二人でオールしましょう。笹谷さん、カラオケいけますか?」
「おう、大丈夫だよ。あと、苗字で呼び合うのって、もうやめない?」
「じゃあ、勇斗さん、カラオケ行きましょう。私のことは、真菜佳でいいですよ」 

この会話が、僕が初野真菜佳を、ただの「真菜佳」という女の子として、意識しはじめた瞬間だった。目の前でおいしそうにオムライスを食べる真菜佳を見ながら、僕はほんのりとした幸せを感じていた。


真菜佳がいつも泊まるというネカフェは、カラオケやボウリングも同じ施設に入っている大きな店舗で、入り口のフロントで、僕はまず会員カードをつくった。真菜佳はもちろん、カードは持っている。部屋番号を書いた紙を渡されて、アイスドリンクを入れるコップを持ち、僕らは小さな個室へ向かう。37号室だった。

部屋の明かりを調節してから、マイクを真菜佳に渡すと、すぐに曲を選び始めた。慣れた様子だったので、聞いてみた。
「よくカラオケ来るの」
「私、ネットで知り合った家出友達の女の子結構いて。一緒に一晩カラオケして過ごしたりとか、わりとするんです。だから、お手の物」

イントロが始まり、真菜佳が歌い始める。誰でもよく知っている浜崎あゆみの歌だ。ちょっと淋しい曲調が、家出を繰り返す真菜佳の心情ときっとリンクしているのだろう。

コーラをすすりながら聞いていたら、あっという間に自分の番になり、バンプオブチキンを入れた。真菜佳は楽しそうに聞いてくれている。

結局その晩、僕たちは歌いまくって、午前三時ごろにはふらふらになり、カラオケボックスの長椅子に横たわってまどろんだ。横に無防備な女の子が寝ていて、手を出したくならなかったかと言われれば嘘になる。だけど、僕は以前に真菜佳から聞いた「神待ち」の話がひっかかっていたから、この日はなにもしなかった。真菜佳との間に少しずつ積み重ねてきた信頼を、チャラにしたくなかったのだ。

明け方目を覚ましたあと、げらげら笑いながら「蛍の光」をしめとして歌い、料金を精算して店舗を出ると、二人で明け方の街を歩いた。のぼりはじめた朝日が差す東京の繁華街は、たくさんのごみや、酔っ払いの吐いたげろでとても汚かった。朝だというのに、すがすがしさがまったくなくて、なんだか笑えてきた。
「真菜佳はネカフェやカラオケでよく眠れる?」
 僕が聞くと真菜佳は笑う。
「慣れですよ、慣れ。ブランケットも貸してくれるし、寝椅子つきの部屋なら楽ですよ」
「家、そんなに帰りたくないの」
「うん、あそこは私のいる場所じゃないから」

笑顔のまま、少し淋しそうに答えた真菜佳の少しやつれた横顔がやたらときれいで、その瞬間、僕は恋に落ちた。心臓をぎゅっとつかまれたような痛みがやってきて、僕はこの子が好きだと思った。

そんな僕の淡い恋心が、あっという間に砕かれたのは、梅雨が明ける頃だった。二人でバイトの遅番として、書店に残っていた夜のこと、真菜佳が僕に言ったのだ。

「勇斗さん、ちょっとお願いがあるんだけど、聞いてくれる」
 重い本が入った段ボールを運びながら、僕は返事をした。
「いいよ。何?」
「お金、貸してくれる? 必ず返すから。十万くらい」
 思わず眉根を寄せた僕に、真菜佳は言った。
「逃げたいの。家から」
 簡潔な答えが、状況の深刻さを物語るようだった。

「もうあの家にいるのはやめたって決めたの。だから、いま、友達とかにお金を借りて、工面してるの。なんとか、家を出られるように」
「……うちに、来れば」

気づいたら、そう口に出していた。でも、真菜佳は「ゴメン」と言って、苦しそうな笑みを浮かべた。
「好きな人がいるから。友達でも、男の人のところには、泊まれない」
ショックで口も聞けない僕に、真菜佳が続けた。
「…好きな人って、誰」
「勇斗さんの、知らない人だよ。会社員の人」
「…神待ち、したの?」
「うん、そう」

いつの間に! 男は信用できないからしないんじゃなかったのかよ、という僕の心の台詞が聞こえたのか、真菜佳が少し申し訳なさそうに言った。
「でも、まだ、何もしてないよ。私が一方的に、好きなだけ。だから、早く、自立したくて」
「友達から金借りることも、自立に入るのか」
 厳しい僕の台詞に、今度は真菜佳が怒った。

「私のこと、私の家の事情も、何も知らないのに、好きなこと言わないでよ! いいよ、お金は勇斗さんからは借りない、他の子から借りる。これでいいでしょ」
「勝手にしろよ」

言い捨てた僕に真菜佳は背を向けると、さっと店のバックヤードに入ってしまった。
後味の悪い気持ちだけが、ただ残った。

真菜佳はそれから、バイトで一緒になっても、必要最低限のことくらいしか口を聞いてくれないようになった。いつも目を伏せて、黙々と仕事をしていた。僕も僕で、気が立っていたので、無視上等という気分だった。真菜佳を見るたび、胸は痛み、腹は怒りで煮えたけど、どうしようもなかった。

今、真菜佳は仕事が終わったらどこで寝ているのか。そんなことも、嫉妬も一緒になって、聞くことができなかった。

初夏、店長のもとに総合病院から電話がかかってきた。厳しい顔をして応対する店長の隣で、僕は何があったのかいぶかしんだが、電話を切った店長から告げられた内容は、真菜佳が火傷して入院したというものだった。
「入院って」
「実の親父さんに、熱湯をかけられたそうだよ。喧嘩になって」

僕は息を呑んだ。真菜佳が逃げたい逃げたいと言っていた理由が、やっと腑に落ちて、僕はいっぺんに先日真菜佳に言った言葉を後悔した。ただ怒る前に、話をちゃんと聞いてやるべきだったのだ。

「見舞いに行ってやれ」

店長はぼそっと言って、棚の引き出しから二千円出し、「これで花でも買いな」と言ってくれた。僕は頭を下げて、その日は仕事を早引けして病院へと向かった。
真菜佳がいる個室、207号室に入ると、ベッドの周りをぐるりとクリーム色のカーテンが取り囲んでいた。
カーテンを押し開けて、中に真菜佳がいるのを確認した。痛々しく顔がガーゼで覆われている。僕は、そっと声をかけた。
「真菜佳、大丈夫か」

 真菜佳は薄目を開けてこっちを見ると、苦笑いして、ぽつんと言った。
「好きな人にね、ふられちゃった。熱湯をかけるような親のいる家の子は、だめだって」

その笑顔があまりに寂しそうだったので、僕はぎゅっと胸をつかまれた。
断られるのがわかって、再度言ってみた。
「傷が治ったら、俺のところにおいでよ。俺はたしかに、真菜佳のこと好きだけど、真菜佳にはなんもしないから。だから安心して、おいでよ」

真菜佳がうっすら、泣いているのがわかった。
「ありがとう」
ただそれだけ、真菜佳は言った。

退院して、動けるようになっても、真菜佳が僕の家に来ることはなかった。真菜佳はバイトをやめて、遠くの街に就職することになった。寮のついている職場だそうだ。

「女の子だけの寮なのよ」

と真菜佳が言った。僕は真菜佳を見送るために、駅のホームに来ていた。二人で並んでベンチに座り、紙パックのジュースを飲んだ。電車が来るまで、あと少しあった。

「勇斗さんのこと、嫌いなわけじゃないんだよ」
真菜佳が口を開いた。
「私ね、今回の火傷だけじゃなく、小さい頃から、父に暴力を振るわれていて、それが日常だったの。そして、その中には性暴力もふくまれるんだよ」
僕はだまって、手の中の紙パックを握りしめた。
「だからずっと、男の人が、そういう目で見てくるのが、やりきれなくて。でも、勇斗さんは、ずっと、ただ見守ってくれていたね。私、本当にうれしかった。ありがとう」

僕の声はかすれた。
「真菜佳が、俺を、必要じゃなくても、俺は、真菜佳のこと、ずっと大切に思ってるから。会いたくなれば、いつでも連絡してきていいんだよ。俺、待ってるから。真菜佳からの連絡」
「ありがとう」

電車の汽笛が鳴りひびき、ホームへ大きな車体がすべりこんできた。ドアが開くと、真菜佳は僕に手をさしのべた。はじめて握った真菜佳の手は、少しつめたくて、柔らかかった。真菜佳を連れて、電車は行ってしまう。車窓の向こうにいる真菜佳にも聞こえるように、僕は大声で「また会おうなっ」と叫んだ。

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これが僕と真菜佳の物語だ。僕は教員免許はとったものの教師にはならず、大学卒業後は都内で会社員をしている。長野とはくらべものにならないくらいの、無数にともる東京のマンションの明かり。その光を見ながら、そこからはじきだされてしまった真菜佳のことを思い出す。

嬉しいことに、真菜佳からは年に、二、三回ほどメールが来た。元気ですとか元気ですとか、そういう内容しか書いてないそっけないメールだったが、僕はとても嬉しかった。

「会いたい」と、自分からはまだ言うべきじゃないと思っていた。真菜佳が僕に「会いたい」と言ってくれる日、その日を、いくらでも待とうと、僕は思っている。それが恋という形じゃなくても、友達であっても、仲間でも、なんでもかまわない。帰る場所のない真菜佳の、家族みたいな存在になれるのが、僕の夢だからだ。

携帯が僕の胸ポケットで震える。真菜佳から久しぶりにメールが来たのを確認し、僕は思わず心の中で「おかえり」とつぶやいた。

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