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ずっと待つよ

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少し長めのお話を集めたマガジンです。
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#文活

先生と私のスケッチ

先生と私のスケッチ

墓地公園から夏草を踏みしめながら坂をあがっていくと、小さな展望台がある。階段をのぼりきり、上から故郷の街をぐるりと見渡すと私は一眼レフをゆっくりと構えた。シャッターを一度、二度、切ってみる。泡のように心に浮かび上がってくるのは、懐かしい「先生」の言葉だった。

『そう、言葉を使って、社会を、世界をスケッチしてごらんなさい。あなたには、きっと良いものが書ける。大丈夫よ、この世はそんなに悪くないわ』

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若者

若者

二〇二〇年、秋の終わり。午後八時が来るのを、私はじっと待っている。一人暮らしの学生アパートのボロ階段を降りると、マスクの中で息があたたかくこもるのがわかった。夜道を歩いて七分ばかり、こうこうと照るスーパーマーケットの明かりを目指す。自動ドアが開くなり、私は早足で歩く。

閉店まであと一時間の店内で、私はお惣菜コーナーを一直線に目指した。スーパー店員の白いユニフォームを着たおじさんが、大きな背をかが

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着替えのときまでもうすぐ

着替えのときまでもうすぐ

この齢になっても、自分はぜんぜん大人じゃないな。私がそう思ったのは、ショッピングモールの床に大の字になって、泣き叫ぶ4歳くらいの男の子を見かけたのがきっかけだった。

『あのおもちゃがほしい』

『パパじゃないといやだ』

『大切にしてくれないと、ずっと泣くぞ』

うおう、うおうと泣いてじたばたしている男の子の心の声を想像して、私はつい自らを重ねた。私の心のなかにも、常に泣きわめいている小さな女の

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